第5話 バスタイム

 節約できるものならした方が良い、だから就寝前の湯浴みは今後はせいぜい水浴びぐらいで良い、と小さな主は主張したが、メイド長は「入浴は毎日していただかなければ」と頑として譲らなかった。

 大風呂の浴場ではなく父親の使っていた小浴場を使えば良いというので、しぶしぶ入りに行けば、脱衣室の前に、タオルや寝間着を持ったメイド長がもう待機している。

「私だって湯浴みは好きだが……そこまで湯浴みは大事か」

「はい。坊ちゃんが入浴をお気に召しているならば用意できて当然でございますしね。何より……お風呂上がりの髪を乾かし、櫛を通すその一瞬……その一瞬だけはその金色の髪に触れさせていただける……その一瞬を私の給金代わりにくださいませ」

 臆面もなく至極真面目な顔できっぱりと言いのけるメイド長に、小さな主の肌がぞわりと泡だった。

「お、お前、そのような、よく直接恥ずかしげもなく言えるな」

「坊ちゃんはわたくしめの性癖ですので。性癖ですのでお仕えしますと申し上げた手前、性癖を満たす給金をいただくのは筋として間違っていないかと」

「筋は通っているかもしれないが常識は欠落しているからな」

「ご安心くださいませ、入浴を贅沢と思っていらっしゃるのでしょうけれど、坊ちゃんのご入浴にかかる費用ぐらいならば、わたくしめが今まで父君よりいただいていた特別報酬で賄えます」

「特別報酬……?」

「はい、父君がお仕事の結果、手に入れられたお金や財宝、美術品などの内、父君や母君の関心をひかなかったものは全てわたくしめに下さっていたのです。ですけれども、わたくしめにとっては、父君にお仕えしていることそのものがわたくしめの生涯を通しての褒美のようなもの……全て使うことも、どうにかすることもなく、大切に大切に保管してあるのです。金庫や、わたくしめの部屋の中にあつらえました秘蔵のケースの中に」

「秘蔵のケースの中に……いや、それは父さまがお前にやったものなのだ、お前が使うべきだろう」

「はい、ですから、坊ちゃんの濡れた髪に毎日櫛を通させていただくという趣味のために使わせていただきます」

「趣味の範疇と対象がおかしい」

 小さな主は、自分の何がおかしいか全く理解できないという顔をしているメイド長から、サッと素早くタオルと寝間着をさらうと、脱衣室に逃げ込んでピシャリとドアを閉めた。

 あいつがおかしな女だということはわかっているが、そのおかしさは常に自分の思う程を上回るのだと肝に銘じなければ、とやや乱暴に服を脱ぐ。

そして浴室へ入ると、息を吞んだ。

 白い大理石の壁や床、湯船は大浴場と同じだが、天井や天井に近い方の壁には濃紺に金のとこどろころ混じった石のモザイクが施されている。パターン模様の刻まれた小さな丸いガラスのランプが数個釣られ、それはまるで――。

「雲の上で夜空を眺めるかのような造りだ……」

 まさか、この紺色のモザイクは瑠璃なのでは、などと湯の中に入りながらぼんやりと考えた。

 父さまは何かと凝った造りのものをお好みになられるところがあると思っていたが、ここまでとは予想もつかない。

 ぼんやりと湯気がたちこめると、いよいよ天にいるのではないかという気がしてくる。

 まだ自分にはちょっと早いような、何が早いかと言われたら断言はできないが……とにかくこの贅沢を味わうには気持ちが追い付かない気がして、体が温まったところで湯船から出る。石鹸で頭や体を洗うと、桶で湯をすくってかぶり、泡を流した。

 浴室の扉に手をかけ、開ける。

「あら、お上がりが早うございますね。お気に召さないことでもございましたか?」

「なっ、なん、」

 メイド長が立っていた。

 小さな主は言葉を詰まらせると、勢いよく浴室の扉に身を隠した。

「なんで入ってきてるんだよ!」

「? 坊ちゃんのお世話をさせていただくためには、ここで待たせていただきませんことには」

「世話って、なんの世話だよ、私は湯浴みの後の着替えはもうひとりでできるぞ!」

「はい、存じておりますが……。もしかして、父君だけがそうなさっていたのでしょうか」

「何が?」

「父君は、ご自身のご入浴が終わるまで、わたくしめがここに居るようにと命じておられたのです。ひとつは、不審な者が、万が一にも、父君を害そうと待ち構えないように、見張りとして。ひとつは、もし不審な者が現れても、わたくしめをまずどうにかしないといけませんので、それで異変を察知できるように」

「すまない、思ったよりかなりまともな理由であったのだな、すまない」

「何を謝っておいでなのです? わたくしめ、てっきり坊ちゃん付きのメイドもそうしていたものかと思っていたものですから……失礼いたしました。坊ちゃんを驚かせてしまいました。メイド失格です。どうぞもっとしかめ面で力強く何か罰してくださいませ。せめて手の甲をつねるとか」

「やらない。やらないからな」

「うーん、君主は厳しい方が良いと思いますけれど……いけません、坊ちゃんのお体にさわります。さあどうぞ」

 メイド長は不服そうな顔をしたが、ハッと気づくと、タオルを差し出してくる。小さな主は扉からそろそろと腕を伸ばし、つまみあげて受け取ると、完全に扉をしめて体を拭き始める。

 少し落ち着いてくると、驚きよりも羞恥心がじわじわと湧き上がってき、顔が赤くなるが、それがメイド長に見られないで済むのが救いだ。

「お前……いくら使用人とはいえ、そしてそのような理由があるとしても……父さまも父さまだ、お前、女ではないか。い、異性の……何も服を着ていない体を……このような狭い部屋で」

「フフフ、坊ちゃま、使用人というものは壁のようなものでございます、お気になさらず」

 扉越しにくぐもったメイド長の笑い声が聞こえた。冗談ではないらしい。小さな主は頭を乱暴に拭きながらため息をついた。

「あのな! 壁には目は無いのだ!」

「坊ちゃま。良いですか。わたくしめとて命は惜しいのです。わたくしめが父君や坊ちゃまのような、金髪赤目の高貴で高潔な方の御身を……玉体を一目でも見てしまったら、どうなると思います?」

「……どうなる?」

「爆発四散して死んでしまいます」

「爆発」

「はい。性癖が全裸で出てくるのですもの」

「うん……そうか……」

 髪をかき回すように、タオルを動かしていた手を、ぐったりと止めた。

 そんな主の様子もつゆ知らず、メイド長は呑気に言う。

「そもそも、父君は潔癖症なところがございましたからねえ。ご家族以外の人の体がご自身に触れるのを大層お嫌いのご様子でした。ですからわたくしめも、父君にタオルと肌着を差し出した後は、できるだけ距離を取りつつ見張りができるよう、扉に顔を向け、扉に顔を押し付ける程へばりついて、立ってお着替えをお待ちしたものです。一度、本当に賊が父君を襲おうとした時には、扉を開けた拍子にわたくしめが飛び出しそうなほど仁王立ちしておりましたものですから、賊が驚きまして。実に愚かな賊でした、フフ、即座にわたくしめの五指圧縮昏倒拳を叩き込み、父君のお役にたつことができました」

「うんうん、なるほどな。じゃあ私も肌に触れてほしく無いので、そのようにしておいてくれないか」

「坊ちゃまのお命じになることは、仰せのままに」

 扉の向こう側でいくつかの足音がした後、静かになる。

 小さな主は厳重に自分の半身にタオルを巻き付けると、そっと扉を開ける。

 人間の気配をほとんど殺している、としか言いようがないほどメイド長が扉に額をつけるようにへばりついていた。

 それにはもはや何も言うまい、思うまい、と手早く小さな主は肌着を身に着け、寝間着をまとう。壁には大理石でできた化粧台と鏡が備え付けられている。鏡を見て、ぐしゃぐしゃになった髪を撫でつけようとして、宙に上げた手を下ろした。

「ん。よし、いいぞ。髪をとかすのだったな、早くするといい」

「ありがとうございます」

「礼を言うな、下心を受け入れてしまっているようで気が滅入る……。何をはしゃごうが私は知らないから、仕事、をしろ。仕事、を」

「かしこまりました」

 仕事、という単語を強調するが、届いているものだろうか。メイド長はいそいそと寄ってくると、台の下からビロードの布の張ってある丸椅子を取り出した。そこに小さな主を座らせると、台の上に置かれていた小箱から、上質な木製の櫛や毛のブラシを数種類取り出す。そして、また台の下から小ぶりの籠を取り出すと、籠の中から絹でできたタオルを手に取った。

 メイド長が背後に立つ。絹のタオルがさらさらと金の髪を撫でる。

「坊ちゃん、髪が傷んでしまいますから、髪はあまりタオルで力強く拭かれないようにしてくださいませね。わたくしめが余分な水気はこれで取ってしまいますから」

「うん」

「こうしておけば、寝る前のミルクをいただかれる内には乾いてしまいます」

「うん」

「次はこちらの木の櫛を使わせていただきます。すいていきますね。それから最後に、こちら最上級の猪毛を使用したブラシで髪もつやつやになりますよ……美しい……」

「うん……」

 鏡越しに、メイド長のうっとりした顔が見えてしまう。

 自分の髪を丁寧に扱われ、賛辞も受けているとあれば少しは喜んだり満足した気分になるべきなのだろうか、いや、無理だ。喜んでいい状況じゃないはずだこれは。

 間髪を入れずに結論は出たが、でも、と鏡の中の顔に、心の端っこで思う。

 お世辞でもなんでもなく、こんなに何かひとつのことを喜べるっていうのは、素直な良い人間かもしれない、と。

 髪の流れが一筋ごとに整えていかれるような感覚の心地よさに意識がひっぱられると、ふと、櫛やブラシの先が肌にひとつも当たっていないことに気づく。この至近距離で、メイド長の体や手も全く触れていない。それは、父親の潔癖症のために身に着けたクセなのか、自分が先ほど肌に触れるなと言ったからそうしているのか――。

「坊ちゃん、綺麗になりましたよ」

 メイド長が大ぶりの手鏡をどこからか取り出すと、合わせ鏡にして頭の後ろを見せてくる。

「やはりご入浴後の髪の輝きもいいですね……まぶしい……」

 鏡を通して、メイド長と目が合った。メイド長は慌ててしゃがみ込む。

「あっ目が合ってしまいました、いけません坊ちゃん、今の坊ちゃんに赤い目、いけません! 爆発四散します」

 しかし手鏡を掲げる手だけは、しゃがんだ体制からスッと伸ばされたままで、位置のぶれることもなくずっと自分の完璧に整えられた後ろ髪を映している。

「器用な奴だな、お前は」

 メイド長を振り返った小さな主の横顔は、鏡の中で苦笑した。

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