第3話
扉の陰からそろっと
どっちみち、お粥は少し冷まさないと熱くて食べにくいだろう。もう少し寝かせておいてやってもいいか。
俺は盆を佐竹の勉強机の上に置き、そこの椅子を引いてきてベッドの脇に座った。
(そう言えば。眠ってるこいつを見るのって、久しぶりかも)
さっきも思い出してたけど、あっちの世界でこいつが意識不明になっちゃって、俺はずいぶん長いこと、こいつが目を覚ますのを待っていた。
あの時の、胸の中に木枯らしが吹くみたいな頼りない気持ちを思い出す。なんだか自然にため息が出た。あれ、ほんとつらかったもん。足もとがぐらぐらして心細くて、ほんとどうしようかと思ったもん。
今回は、間違ってもあんなことにはならないはずだ。だからなにも、俺がこんなナーバスになんなくってもいいのにな。
「ただの友だち」だったあの時でさえ、俺はあんなに不安定になっちゃった。
いま、俺たちはそこから何歩か進んだ場所にいると思う。
軽いキスと、ハグと、手をつなぐ。
変わったことはそれぐらいで、なんかもう「小学生かよ」ってな付き合いだけど、それでもお付き合いはお付き合いだ。
そして相手がこいつなら、これは多分一生続く「お付き合い」になるはずだった。途中で気持ちを変えたりするぐらいなら、こいつは最初から親父に土下座をしてまで俺との付き合いを許して貰おうなんてしないはずなんだから。
(あいっかわらず、男前だな)
すっと鼻筋が通ってて、品があって男らしくて。
あらためてこうやって見てると、こいつ本当に男前だよなあ。子供みたいにおでこにシートを貼ってても、やっぱり男前なんだよなあ。ま、中身はもっとそうだけどさ。
目を閉じてると、意外と睫毛が長く見える。もっと小さい時、小学生ぐらいのころなんかは、けっこう美少年だったのかもな。その頃だったら
綺麗な横顔をじっと見てたら、なんか
あー。
チューしたいな。
風邪ひいてるんだから、しちゃダメなのはわかってるけど。
マジで洋介にうつったら大変だし。
バレたら、軽いゲンコツどころじゃ済まないしなあ。
そんなことをぼんやりと考えていたせいだろうか。俺は自分でも気づかないうちに、佐竹に顔を寄せてたみたいだった。しかも、自分のマスクを半分ぐらいずり下ろして。
「……何をやってる」
地の底から響くみたいな声でそう言われて、俺の顔はぴたりと止まった。
いつのまにか、佐竹が目を開けていた。
「あ。……えと。ね、熱はどうかなー、と思って」
「嘘をつくな」
うあ、怖い。
その目は本気で怒ってるときのやつだよね、うん。このごろは俺にもちゃんと、違いが分かるようになってきたよ。
「う、嘘じゃないよ。ほんとだってば」
言って俺は、わざとらしく佐竹の額に手を当てて自分の額と比べてみせた。
「ん~。やっぱめちゃくちゃ熱い。下がってないなあ、これは……」
「そうそうすぐには下がるまい」
「ま、そうだけど」
さて、どうしようかな。
そろそろ洋介を学童に迎えに行かなきゃなんない時間なんだけど。
ちらっと壁の時計を見たら、佐竹はすぐにその意図を察知したみたいだった。
「そろそろ迎えの時間じゃないのか。ここはいいから、行ってくれ」
「ん……。じゃ、ちょっとだけ」
「いや。戻って来なくていいぞ」
「そんなわけには行かないって」
佐竹はまだ何か言いたそうだったけど、俺はさっさと立ち上がってエプロンを外した。もちろんわざとだ。だってぐずぐずしていたら、佐竹になんだかんだ、言いくるめられちゃうに決まってるから。
「じゃ、行ってくる。氷枕だけ替えとくよ。父さんが戻ったら、また来るから」
「いや──」
「いいから、寝てろって。あ、お粥、食べろよ。せっかく作ったんだから」
「……ああ」
最後の「ああ」は、ほとんど溜め息まじりだった。俺はそれには一ミリも気づかないふりをして、とっとと佐竹のマンションを後にした。
もときた駅前の通りを過ぎて、学童に回る。いつもどおり洋介を引き取って家に戻った。うちの夕食のための買い物なんかは、週末に済ませてある。カレーやシチューや肉じゃが、ポトフといった鍋で置いておける料理をいつも作り置きしてあるから、夜はそれを温めてサラダなんかをつけるだけだ。副菜も少しなら作り置きがある。
このへんも、佐竹が色々教えてくれてできるようになったこと。
ほんと、世話になってばっかだよなあ。
洋介が持って帰ってきた学校のプリントや連絡帳をチェックして、宿題をちょっと見てやりながら夕食の準備。そのあと、お風呂。
ばたばたしてるうちに、父さんも帰って来た。時計を見たら、もう九時だった。
父さんには、事前にスマホで事情は話してある。
「んじゃ俺、もう一回佐竹のとこに行ってくるから」
「ああ。気を付けてな」
「洋介、早く寝るんだぞ」
「うん。いってらっしゃーい」
父さんと洋介の声に返事をするのもそこそこに、俺はまた夜の町に飛び出した。
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