第22話 彰②
「お前、歌もいけるだろう」
「いや、歌はだめだ」
「なんで?」
「下手だからだよ」
「誰だって最初は下手なんだよ。何でもいいから、とにかく歌ってみろよ」
「だって……」
「だってじゃねえよ、一人じゃハモれないだろう」
有無をいわさぬ態度に、そのうち歌も歌うようになった。元々歌は嫌いではなく、単に子供の頃声が高くて「女みたいな歌い方だな」とからかわれるのが嫌であまり歌っていなかっただけなのだ。実際、歌ってみると、そんなに嫌いな行為ではなく、むしろどんどんのめりこんで行った。
太郎はなかなか好みがはっきりしていて、よく知られているとか、人気がある曲だからという理由で曲を選ぶことは一度もなかった。僕はクラッシックが長かったせいか、要求するものが他の部員と違うと感じることが多々あったのだが、彼の好みの曲は受け付けられるものばかりだった。演奏のセンスはいまいちで、よく口論になったが、話し合いや練習でカバーできるものだった。選曲のセンスはばっちりだった。
太郎とは、示し合わせたわけではないけれど、奇遇にも同じ大学へ行くことになった。進学してからも一緒にバンドを続けた。順調だった。そう、あの日までは。
母親は、いつも間が悪い。その日も、翌日の新入生歓迎の路上ライブに備えての練習から帰ると、うれしそうに、
「今まで秘密にしてたんだけど、実は彰のよく知ってる人が、明日から同じ大学の仲間になりまーす」
などと言った。
「誰だよ、部活の後輩だったらもうあらかた知ってるけど」
「違うわよ、あなたが一番仲良かった子よ」
「誰だ?」
一番の仲良しといえば、今のところ太郎が該当するだろう。しかし、彼はもうすでに入学している。
「わかんないな、もったいぶってないで教えろよ」
「ユウちゃんが、こっちの大学に受かって引っ越してくるんですって! よかったわね、また仲良くできるじゃないの」
驚きのあまり、言葉が出てこない。
「なんで今頃?」
「一年浪人してたんですって」
僕が言いたかったのはそういう意味ではなかったのだが。
なんで今頃ここに戻ってくるんだ? もう出て行ってしまって、帰って来ないからこそ、僕はここにいられたのに。ようやく気持ちの整理がつけられたと思っていたのに。なんで今更こんなに混乱させられないといけないんだ……?
万が一会ってしまったら、と思うと、翌日集合前に、どうにか黒縁の伊達メガネを購入した。本当はサングラスくらいしたい気分だったけど、余計目立つことは間違いないだろうから、せめてもの防御のつもりだった。
「なんだ、お前メガネなんてめずらしいな」
「ああ、コンタクトなくしちゃって」
と軽くいい訳する。
メガネなんて何の意味もなかった。
演奏中は全く気付かなかった。演奏が終わって、ほっとして、で、ちょっとこっちを見られている気がしてふと目線を変えると、そこにはあの子が立っていた。あの子は明らかに僕に気づいているようだった。もう少し隠れていられると思ったのに、こうもあっさりと見つかってしまうだなんて。
何か言ってくるかと思ったけれども、あの子はそのまま視線を逸らすとどこかへ消えてしまった。それからも、同じ学校に通っているのにほとんど顔を合わせることもなく、会っても言葉を交わすことはなかった。
まだ怒っているのだろうか、あのときのことを。
でも、怒りたいのはこっちの方だ。あの子がいなければ、無理にピアノなんて習わなかった。ピアノが弾ける喜び、それが一瞬で奪われる恐怖。あの子がいなければ、そんな体験する必要なんてなくて、もっと気楽に生きてこられたはずなのに。その後、どうにか自力で立ち直ったからなんとか今こうして立っているわけだけど、再起不能になっていたらどうしてくれたんだ、全く。
ユウなんて、大して可愛いわけじゃないし、性格もそんなにいい訳ではないし、特にこれといった魅力があるわけでもない。ただ、親同士が仲良くしていたから一緒にいただけだ。僕は内気で自分からあまり友達を作れなかったから、仲良くしていただけなのだ。一人でなんでもできるから、今の僕はもうユウのことなんて必要としていないんだ、本当に。
それから間もなく、再び音楽を辞めることになってしまった。正確に言うと活動休止しているだけだけど、今回は復帰するのは難しいような気がしている。
ユウの顔を見た瞬間、ステージの上で頭が真っ白になったあの瞬間を思い出した。楽器が変わったから、一緒に演奏している仲間がいるから、もうああいう風になることはない、でも、あの恐怖が音楽を続ける限り、付きまとう。
夏休みが始まるころ、学祭に向けての本格的な練習が始まる頃、俺は太郎に辞める旨を伝えた。
俺としては、怒るだとか、引き留めるだとか、そういう展開を想像していたのだが、予想に反して、太郎は黙り込んでしまった。やがて「やっぱりな」と小声で呟いた。
「俺が辞めるって、思ってた?」
「ああ、なんとなく、あの時からそう思ってたよ」
「あの時って?」
「新歓ライブの打ち上げのときだよ」
そのとき俺は、飲みすぎて覚えていないのだ。さんざん太郎に絡んだ挙句、太郎の家に収容されたことを思い出す。
「俺、辞めたいとか言ってたのかな、そのとき」
「まあ、な」
お互い何を言っていいかわからないまま、時が過ぎて行く。
「まあ、俺は、とりあえず残るからよ、お前も気が変わったらまた来いよ、休部ってことにしておいて」
「そんな中途半端なのは嫌だな」
「いつもそうやって白か黒かしかないんだから。たまにはグレーだっていいだろう」
さすがに今回は理由が理由だし、太郎に申し訳なくて、言われるままに休部することにした。部長には、気が乗らないから休むとはさすがに言えず、家計を助けるためにバイトしないといけないのだと伝えた。どうせ辞めてもすることもないので、自分で作った話の通り、その後はバイトにいそしんだ。
音楽を再び辞めて、すると暇になって、そうして初めて彼女ができた。バイト先で知り合った人だった、音楽を辞めて無駄に考える時間ができてしまって、その隙間を何かで埋めないわけにはいかなかった。そこにたまたま彼女がすっぽりと入り込んでしまった。ものすごく好きなわけではない人と、そうして普通に交際していることに、自分でも驚いていた。でも、自分のことをいつも想ってくれる誰かがそばにいるのは、思った以上に安心できた。彼女はユウと違って優しかった。感情をあらわにぶつけてくることもないし、隠していることを無理やり聞き出そうともしないし、少し物足りないくらいのゆるやかな感じが、不思議と安らいだ。そうして絵に描いたような、部活を辞めて第二の学生生活、みたいな構図が出来上がってしまった。
太郎とは、出会ってからそれまでずっと音楽の話ばかりしていたので、音楽以外では特に話すこともないのか、日々疎遠になっていった。
それでも学園祭でステージを観に行ける程度の仲は保たれていたのがせめてもの救いだった。いつもは二人で歌っていたバイバイハニーという曲を、今は太郎が一人で歌っていた。それを聴いて、俺が恐れていたのはむしろこういうことだったのかもしれないと思った。もしこんな歌詞の歌を歌っていて突然ユウが現れたら、いくら歌だとはいえ、続けられる自信がない。それこそ、頭が真っ白になってしまう。
この歌を真似たわけではないけれど、僕もユウの写真を持っていた。今の顏の輪郭が出来上がってしまった時期のは憎たらしくて見る気も起きないけど、子供の頃に撮った写真をいつも持ち歩いていた。僕の発表会にユウが来ていて、ユウが僕に花束を渡している写真。
ユウなんてどうでもいいと思おうとしているけど、結局あいつは、僕の中で、いつも一番見晴らしのいい場所で微笑んでいるんだ。困った奴だ、早くどっか行ってくれよ、なんでまだこんなところにいるんだ。結局、今でも一番大切なのはあいつなのだ、悔しいことに。写真なんて、いつまでも持ってたって仕方ないのにな。
ステージが終わった後で、お疲れと言おうと思ったら、何故だか「ありがとう」という言葉が出た。
「なんだお前、何がありがとうなんだよ?」
「いや、感動をありがとう、というか」
「ばーか、そんなこと言ってる暇があったら、さっさと復帰しやがれ。もう学生生活終わるぞ」
太郎が飲んでいたミネラルウォーターを突然頭からぶっかけられる。
そうだな、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。バンドのことも、彼女のことも。濡れたまま身動きもせずに考えていたら、
「そんな真面目な顔するなよ。冗談だよ、本当に頭が固いんだから」
と、太郎が慌ててタオルで僕の頭を拭いていた。
あれから何か月経つのだろう。結局考えるだけで、何も行動が起こせないまま、時だけが過ぎた。
そんなある日のことだった。学生会館のロビーで本を読んでいると、
「彰じゃないか、久しぶり」
と人懐っこい声がした。
「ああ、平林。久しぶりだな」
彼はにこにこ笑いながら、一枚の紙を僕に手渡した。
「これ、僕の友達がやってるんだけど、すごくよく当たる占いなんだ。一回千円だし、もしよかったら試してみてよ」
「はあ」
なんだ、あいつは。数回一緒に遊んだだけで、どんな人だかよく知らないけれども、占いに興味があったとは。僕は特に興味はなかったので、紙を折りたたむと鞄のポケットに押し込んだ。
しかし、日が経つにつれて、妙にその占いが気になった。最近、彼女との仲がぎくしゃくしていることもあり、一度運勢でも見てもらってもいいのかもしれないな、と若干気持ちが傾く。
まあ、千円だし。ちょっと外食を我慢すればいいだけだ。あんまり効果がなかったら、平林に嫌味の一つでもいってやれば、それでおしまいだ。
どこへ行けばいいのだろう。園芸部? そんな部活がこの学校にあったとは。まだまだ、世の中はわからないことばっかりだな、と思いながら、立ち上がった。
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