第21話 彰①
幼少の頃の記憶をたどると、自分の家にいた記憶があまりない。僕はいつもあの家にいて、そこであの子と一緒に大きくなった。
あの子はいつも僕の隣にいた。何が気に障っていたのか、僕は些細なことでいつも泣いていた。そんな僕を、ある時はそっと抱きしめながら、またある時はばんっと背中を叩きながら「ユウがいるから大丈夫だよ」と言って笑っていた。いつもあの子は僕の一番近くにいたのだった。
僕がピアノを始めたのも、あの子がピアノ教室に通い始めたからだった。僕の両親は共働きだったので、連れて行くのが大変だと言っていたら、あの子のお母さんが「一緒に連れて行くわ」と言ってくれたのだ。そうして僕らは、某大手音楽教室の幼児科にともに通った。あの子は教室ではいつもつまらなさそうにしていたけれども家に帰るとにこにこして、「アキラ、今日やった曲、弾いて」と言って、僕に弾かせて楽しそうに見ていた。そのうち、お姉さんが習っていたときの楽譜を僕に見せて「これ弾いて」ということが多くなり、ちゃんと弾けると「やったじゃない、すごいっ」と大喜びした。
いつも庇ってもらうばかりの僕が、しばし尊敬の入りまじった目で見られるのが快感で、時が経つのを忘れて練習した。新たな曲が弾けるようになる度に、自分の世界が広がって行く。自分の世界が広がって行くということは、あの頃の僕にとっては、二人の世界が広がっていくのとイコールだった。あの子の方が先に習っていたのに、僕が夢中になる頃にはさっさと辞めてしまっていて。一緒に連弾できるようになるのが楽しみで練習していたというのに。それでも、僕のピアノを誰よりも喜んでくれたのはいつもあの子だった。
先生よりも厳しくて、先生が褒めてくれても、「途中で間違えたよね? あの部分。せっかくの演奏が台無しじゃない」だとか、「今日のは、なんだかきいててつまんなかった」などと、ダメ出しも多かった。誰よりも真剣に聴いてくれていたということだろう。悔しくて「うるさいやい」と言ってしまったことが多かったけれども、本当はいつもうれしかったのだ。
一人っ子だったけれども、寂しいと思ったことは一度もなかった。僕に兄弟がいたら、あの子を独り占めできなかったかもしれないことを思えば、返って好都合だった。
小学校に入って、某音楽教室は辞めて個人の先生につくようになり。好きな曲を弾かせてもらえたのだが、選曲をするのはいつもあの子だった。もちろん、音楽教室について来てはいないのだが、曲が仕上がりそうになると、あの子が「次はこれにしなよ」と言うのだ。僕はその通り先生に伝えた。そうして、いつもあの子が好きな曲ばかりを弾いていた。
段々と成長するにつれて、あの子が世界のすべてだというわけにはいかなくなってきても、あの子は依然として僕の中心だった。つきあいで他の友達と遊んでいても、五時を過ぎた頃にはさっとあの家に帰った。あの子は手作りのおやつを用意してくれていて、あの弾きにくいキーボードで練習した後、一緒に食べた。
何かが違ってしまったと思ったのは、中学校に入った頃だっただろうか。僕は他の楽器もやってみたくて、吹奏楽部に入った。あの子も同じ部活だったら楽しいなあと思っていたが、彼女があまり音楽を演奏することに興味がなかったので無理に誘わなかった。テニス部に入ったようで、確かに、吹奏楽よりは似合っているなと思ったくらいだった。
それでも、あの子は毎年開催されるピアノの発表会は観に来てくれた。プログラムを渡しに行くときに、観にこなかったらどうしようと思って、つい「必ず観に来いよ」と命令口調になってしまったけど、あの子はいつもちゃんと観に来てくれた。
それが、中三の秋のこと。いつものようにプログラムを渡しに行くと、あの子は冷めた目をして、
「いつまでもこんなことしてるなんて、余裕だね」
と言った。そういえば、親が「ユウちゃんは最近、受験勉強でいらいらしてるらしいわよ。あんた大丈夫なの?」とか言ってたことを思い出す。ユウは、たまにこういうことがあった。なんだか妙な言いがかりをつけて、勝手に一人でいらいらするのだ。だからあまり下手に刺激しない方がいいと思って、適当に交わしてしまった。きっとそれがよくなかったんだ。何が気に入らないのか、何に対して怒っているのか、ちゃんと訊けばよかった。今でも、あの時ユウが何にそんなに腹を立てていたのかわからないが、きっと一時的なものではなく、何か積もり積もった思いがあったのだろう。後からだったらいくらでも言えるけど。
あの子は、発表会に来なかった。僕がピアノを習い始めてから初めてのことだった。
ロビーをうろうろしても、休憩時間にホールの中を歩き回っても、外の広場みたいなとこへ行っても、あの子はどこにもいない。でも、あの子が来ないなんて信じられない。どこかで事故に遭っているのではないか、誘拐されていやしないか、電車が止まっているのだろうか…そんなわけない、きっと来たくないから来ないんだ。僕のピアノなんてどうでもいいから、彼女はここにいないんだ。
もう三人前まで来ていて、控室に入る。先生がいて、毎年発表会のときにだけ会う、同じ教室の生徒がいて、少し落ち着く。今日弾く曲のことだけに意識を集中することにする。
演奏する予定なのは、亜麻色の髪の乙女という曲だった。先生は「もっと華やかに、革命のエチュードとか弾いちゃったら?」と言っていた。その方が目立つし、会場も湧くだろうと思った。でも僕は、どうしても亜麻色の髪の乙女を弾きたかった。あの子が来年は遠くへ引っ越してしまうから、もうこうして発表会を観に来るのも最後かもしれない。もしかしたら、あの子に聴かせることは当分ないのかもしれない、と思うと、この曲が自然と頭に浮かんだのだ。
でも、あの子はいない。もうこの曲を弾く意味はない、と思う。
そんなの関係ないだろう、ここは発表会なんだから、演奏することに意味がある。誰のためになんて今はどうこう言っている場合ではない。
しかし、自分で思うよりも激しく動揺していたのか、いつもならあり得ないことが起きた。曲の途中で止まってしまったのだ。
出だしは上手くいっていて、意外とちゃんと曲に集中できて、指はすべるように動いて、出したい音がいい具合に出ていて……しかしそれは、単にあの子のことを思い浮かべないようにしていただけだったのかもしれない。ピアノからフォルテに、どんどんクレシェンドしていって、一番はずしてはいけない和音が、ばーんと鍵盤を抑えると、出たのは不協和音だった。誰よりも一番びっくりしたのは自分だった。どうしていいのかわからない、どうしよう、どうしよう…。
どうやって再開したのかは覚えていないけれども、気が付くとどうにか終わりの和音を弾いていた。
その発表会を最後に、しばらくピアノを休むことにした。受験のことをいい訳にしたけれども、失敗したことが応えたのが原因だった。
「あんなの、気にすることないわよ。ちゃんと持ち直したじゃない。誰だって、緊張するんだから」
と軽く気休めを言われたけれども。本当に緊張して失敗しただけだったらそこまで気にしなかっただろうけれども。
魔法が解けてしまったのだ。
子供の頃に読んだ漫画で、あったストーリー。親同士の再婚で兄弟になった他人同士の男の子と女の子がいて、二人で一緒にいると魔法が使えるのだ。そうして、次々とふりかかる事件を解決していく。僕も、あの子がいたときだけは魔法が使えた。あの子がいたから、男くせにと馬鹿にされながらもピアノを始め、あの子が見張ってくれるから毎日練習ができて、あの子が喜んでくれるから少しでも上手になろうと日々励み……本当にそうだったのだろうか? 自分の実力なんてたかが知れている。今日のが、僕の通常の状態なのだ、きっと。これまで、一緒にいたから魔法が使えたかのように実力以上のものが発揮してこれただけだったのだ。
あの子が聴いてくれないのなら、もう魔法はかからない。自分の力だけでできるほど、音楽の才能があるわけではない。それにもう、ピアノに触る気すら起きないのだった。
しかし、そんなことを言いながらも、音楽にはまだ未練があったようだった。
高校の音楽の時間に、突然隣の席に座っていたクラスメイトに「フォークソング部に来いよ」と誘われたときに、そのことを知った。
音楽と関わりを持つのは正直言って怖かったが、奴があまりに強引なのをいいことに、断りきれなかったという言い訳を抱えてのこのこ部室へついて行った。
「ギター弾いたことあるか?」
「ないよ」
「じゃあ、簡単に説明するから」
「俺、ギター持ってないんだけど」
「しばらく俺の使えよ。何本か家にあるから」
ピアノには、もう数か月間触れていなかった。高校に受かってからも、ピアノ教室には行っていなかったのだ。
ギターを触ったことはなかったけれども、恐る恐る弦を弾いてみると、当然ながら楽器の音がした。指先から音がこぼれる懐かしさに、目が潤んでくる。
彼からコードの簡単な説明を受けて、コード表を見ながらかき鳴らしてみる。Cがドミソで、Fがドファラで、Gがシレソで……。
すっかり夢中になって、「そろそろ閉めるけど」と言われた時には、辺りは暗くなっていた。
「やっぱりほかの楽器やってたから、呑み込みが早いんだな。よかったよかった」
そうして、太郎という名のその同級生と一緒に、音楽活動を開始することになった。
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