第12話 鈴木②

 

 彼が私のアパートに寄って行ったときに、読みかけの文庫本を忘れていった。私も読みたいと思っていた本だったので、手にとってみる。本を開けると、あるページが自然と開いた。しおり代わりに挟んである、写真のせいだった。古い写真で、ちょっと見にくいけれども、二人の子供が写っている。男の子のほうは、どうやら須永君のようだ。もう一人女の子は知らない子だけれど、彼女は彼に花束を渡している。背景にはグランドピアノが写っている。ピアノの発表会か何かなのだろう。

 何なの? これは。もしかして、これが彼の忘れられない人ということなのか。

 もっと、高校の同級生が地方の大学へ行ってしまったくらいに考えていたのに、こんなに幼いころからの付き合いがある子のことだったのか。こんなに長い間のことだっただなんて……、この子はもしかして、もう他界してしまったのかもしれない。生き別れになってしまったのかもしれない。それでも心の隅にとどめておかずにはいられないということなのか。まあ、仕方ない。こういうこともあるだろうけど、今こうして隣にいるのは私なんだから。あまり深く考えないように気をつけながら、その本を読み続けようとしたけど、内容なんて全く頭に入ってこなかった。

 しかし、それからしばらく経ったある日、私はその子を見つけてしまった。


 二人で、学生会館のロビーで座って話していたときだった、ふと彼が険しい視線をしていたのに気がついた。

 彼の視線を追ってみると、そこにはあの子がいた。赤いマフラーを巻いて、薄いベージュのコートを着て、一人で座っている。どうしてわかったんだろう、あんな昔の写真をちらっと見ただけだったのに。それはもしかすると、彰の視線のせいだったのかもしれない。いつもの彼は、あんな真剣な目で何かをみたりはしない。いつも彼は一枚ガラスを通して世の中を見ている様子で、あんな風に何かを直視したりする人ではないはずだ、……私が知っている限りでは。

「彰君、コーヒー買ってこようか」

 と言うと、

「ああ、じゃあ」

 我に返ったように呟いた。

 コーヒーが飲みたかったんじゃなくて、彼女を近くで見ようと思って、自動販売機まで歩いて行くための口実が欲しかっただけなのだけど。

 それから、何回彼女を見かけた。彼女がじっと彰のことを見つめているのに私が先に気づいてしまうこともあった。ある日、彰が席を外しているときに、あの文庫本があるか鞄の中を見てみたら、やっぱりあった。あの写真もまだ入っていたので、私はこっそり写真を抜き取った。やっぱり、あの子に違いない。

 何か言われるかな、きっと言われるだろうな、と思った。そうしたら、問い詰めてやろう。あの子は何なの、なんでずっとこんな写真を持っているのか、と。

 しかし、彰君は何も言ってこなかった。


 ある日のこと、図書館へ雑誌を観に行ったときに、手を伸ばした雑誌にもう一つの手が伸びてきた。

「あ」

 相手も私をみて驚いたようだった。それは、あの子だった。

 彼女は手をひっこめると、その場を去ろうとする。

「あの、待って」

 と呼びかけると、びくっとしたように肩を震わせる。

「あの、訊きたいことがあるんですけど」

「なんですか?」

「須長彰君のお友達ですか」

 彼女はゆっくりと頷いた。

「私、須長君とおつき合いしている、鈴木といいます」

 彼女は軽く頷く。

「ごめんなさい、突然声をかけてしまって。でも……あなた彰君の何なの?」

「べつに……ただの古い知り合いですけど」

 ああ、やっぱり。古い知り合い、ね。

 それまで、彼女は遠目に見たことはあっても、そばで見たり話したことはなかったから、まるでテレビの向こうの人みたいな存在だったけれども、会って話してしまったことによって、生々しい現実の人になってしまった。

 近くでみると、遠くから見ていたときよりも、可愛らしく感じられる。目が細くて、おっとりしていて、ちょっと怒るとキッとキツイ雰囲気になるけれど、そこがまた芯が強そうで魅力的なのかもしれない。短い綺麗な黒髪に、アラン模様のマフラーがよく似合っている。私みたいに、レースや花柄のついた服はあまり好きじゃなさそう、と何となく思う。


 それから一月くらい経った頃だろうか。食堂が比較的混んでいる日があって、席を取らないでいたら、トレイを抱えたままうろうろするはめになってしまった。しかも、うどんの汁がいつになく多めで、こぼしそうでどうしようかと思いながら戸惑っていると、

「ここ、どうぞ」

 と声がする。そこにいたのは、あの子だった。

「じゃあ、すみません、相席で」

 と断り、座る。汁だくのうどんを持ち運ばなくて済んだのでほっとするが、なんだか気まずいなと思っていたけれども、彼女のご飯はもうほとんどなくなっているようだったので、多分すぐ去るつもりなんだろう、と思う。彼女は突然、

「今度、須長君留学するみたいですね」

 と言った。

「ああ、そうですね」

 多分、あの二週間語学留学するとか言ってたやつだろう。なんだ、私が見ていないところでは、ちゃっかり二人で話していた、ということだろうか。

 バイト代が結構たまったみたいで、人生初の海外旅行だと浮かれていたことを思い出す。別に一緒に行くわけじゃないから相談してもらう必要もないのかもしれないけれど、日程が決まって料金を振り込んでからの事後報告だったので、あまりいい気はしなかった。別に何があるわけではないけれど、少しは私の予定を訊いて、一緒に過ごせる日を考慮して、とかしてくれればいいのに。

 それに、そんなに貯金があるなら、私に指輪を買ってくれるだとか、一緒に旅行に行こうだとか、そういう発想はないのだろうか。それだけでも、あまり思われていないのは明らかなのではないか。

 なにが気になるのか、自分から別れようとは言えないのだ。あるいは、私が早く愛想を尽かして振ってくれないかとでも思っているのだろうか。あるいは不在になる間に自然消滅するのを狙っているのか。

「何年くらい向こうに行くんですか? 最低半年くらいは行くもんなんですかね? 留学って、やっぱり」

 それを訊いてちょっと安心する。彰は、彼女に自分で留学のことを話したわけではなさそうだった。人づてに聞いたくらいのものなんだろう。

「まあ、一年くらいじゃない?」

 と適当に答えておく。知ったもんか、勝手に誤解していればいいんだ。

 急いで食べたせいか、私の方が先に食べ終わってしまって、「お先に」と言って席を立つ。どうせ生協の本屋には売ってないだろうなと思って、ちょっと離れた本屋へ行ってみる。

 占いコーナーで、タロットの本を手にとってみる。忘れもしない、「悪魔」のカードの解説を読んでみる。


――二人がつながれている鎖は緩いものの、この世界に浸かり、逃げようとしません。それだけこの「悪魔」の世界には、多くの誘惑が潜んでいるのです。


 そんな文章が目に入り、バンっと本を閉じる。

 あの時机をたたいた、バンッという音が再びよみがえる。私は、あの音みたいに勢いをつけて、断ち切らないといけない時期なのかもしれない。

 でも、そんなの嫌だ。嫌がってるのを無理やりつなぎとめてるわけじゃなくて、彰君が別れたいと言ったら私はいつだって別れるんだから。別れる時期まで私に決めろだなんて、あまりに勝手なんじゃないか。

「愚かだ」

 と呟いてみる。それが誰に対しての言葉なのかは自分でもわからなかった。

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