2-3 call at midnight

 フランス時間、一九時。



 眠ってしまっている、半分。まだ起きている、半分。

 そんなガバガバの予測で、緑の真円通話ボタンを押した俺──柳田善一は、相当迷惑な大人だという自覚はある。あるんだけど、どうしてもなんだか声が聴きたくて、たまらなくて。

 今頃日本は真夜中の二時。七時間の時差は、こんな時にもっとも歯痒い。


 呼び出し音が、一回、二回、三回。一回毎に、心臓が四回はバクバク言うから、えっと……あーもうなんでもいいや。出て、くれるわけないかっ。真夜中だもんな。うん。耳から離して赤い真円切断ボタンをタップす──。

『もっ、もしもしっ?』

 見開く双眸そうぼう。耳に戻すスマートフォン。

「っ、やあ、Signorina! 真夜中にごめんね」

 危ね……切るとこだった。笑声えごえは間一髪セーフ。

『どっ、どど、どう、なさったんですか? よ、よよ、夜中っ、えとっ』

「いやあ、ずっと我慢してたんだけど、どうしても声聴きたくなっちゃって。我慢限界ってやつ」

『えっ?! こっ、聴きっ我ま、げ?』

「フフフっ、電波おかしいやつみたいだけど、平気? 聴こえてる?」

『き、聴こえて、ますっ!』

「そ? よかった!」

 この反応から、まぁほぼほぼ彼女が好意的に想ってくれていることはわかるんだけど、なんだろう、確実に踏み込み行くには、何か不安要素がまだ残るというかなんというか。

 まぁそもそも、一七才未成年者二五才って、世間的には三年くらい待たないと駄目なやつでは?

 って考え至っているがために、俺は関係を進めることが出来ないでおります。

「ちゃんと元気にしてる?」

『は、はいっ。柳田さんも、お元気ですか?』

「うん、元気だよ。あと『YOSSYさん』ね」

『よかったです。サムくんも、エニちゃんも、お元気ですか?』

「うん、元気元気。今二人はバスタイムです」

『そうなんですか。えっと、そっちは今……』

「夜の七時。キミは? こんな時間まで起きてたの?」

『は、はい。ちょっと小テストがあって、詰め込み作業を……』

「フフフ、そっかそっか。どっちみち邪魔してごめん」

『いえ。眠っちゃいそうだったので、起こしてくださって、ありがとうございますです』

 ほにゃん、と甘い彼女の声。実に破壊的だ。はー、なごむなごむ。

「あーのさ、えっと。来週末、帰るからね、日本に」

 座っていたソファから立ち上がって、壁に貼ってあるポスター様のカレンダーの前に立つ俺。

『そっ、そうなんですね?! えっと、あと一〇日もない、くらいですね』

「そだね」

 つつつ、と指でなぞるカレンダーの数字。

『来年の今頃は、進路とか、もう決まってるのかなって、思うことも増えました』

「そっか。いい変革だね」

『柳田さんの、お陰です』

「そんなことないよ。キミの切り拓く力の賜物だ。まぁあと『YOSSYさん』だけどね」

 いや、こういうことが言いたかったわけじゃなく。頭を一度ブンと振って、「じゃなくて」と前置き。

「あのさ。俺たちが帰る日、っていうか、帰ったその日以降。放課後になにも予定無い日ってある?」

『予定の無い日、ですか? そう、ですね……お帰りのその日なら、一七時半までなら、大丈夫かなと』

 なんの疑いもなく教えてくれる彼女の純真さに俺、いつか浄化されて無くなるんじゃないかなって思うことがある。

 目を瞑って、深呼吸をひとつ。

「じゃあその日、学校終わってから時間くれない?」

『えっ』

「いや、その日がアレなら別日でも休日でも、いいっていうか」

 右掌でうっかり口元を隠していた俺。誰が見てるわけじゃないのに、今の顔は絶対にむちゃくちゃ恥ずかしい。

『…………』

「…………」

 う、この沈黙は、俺の言葉を待ってるやつだ。

 もう一回深呼吸して、カレンダーにコツン、とひたいを預ける。

「えっと、カッコつけンのやめると、あの……どうしても二人だけで会いたいんだ、キミと」

『ふぇ?!』

「帰って一番に、蜜葉ちゃんの顔が見たいって、思ってるんだけど。俺が」

『は、はぅ』

「ちょっとだけでも、ダメ?」

 あーうわ、待って。今ポロッと言っちゃったけど、二五才成人男性が言うには幼稚すぎやしませんか、今の? 甘え感出すとかどうなの、俺的に。あくまでも、柳田善一的にという面で!

 ハァ、マジで格好つかねぇ……うう、撤回したくなってきた。

『わっ、わだむっ』

 ん?

 な、なに、「わだむ」?

 電話の向こうでそんな風に声をひっくり返して、彼女はわたわたと応えてくる。

『わわわわたしっもっ、わたしもお話、したいです。やなやや柳田さんと、その、かっおか、顔、お顔を見ながら、お話……」

 尻すぼみの彼女の声。

 さっきのは噛んだのか、とさとって、吹き出したくなるのを抑える俺──のはずが、そんなことよりも「わたしも」とか言われちゃったのが嬉しいあまりに、顔面がぐんにゃりゆるゆるになっていく。クソ、止まらない。

 寄り掛けていた壁にそのままデコをゴンゴンゴンとぶつけて、花畑色に染まりかけた脳内を正常に戻そうと努める。もういろいろとトドメを刺された感覚。

『ど、大丈夫ですか?! ごつごつって、何か、あのっ』

「ご、ごめん。ちょっと、こっちのあれです」

 喉の奥の調子を整えて、深呼吸、二回。ていうか俺はこの電話の間に何度深呼吸したらいいの。まぁそのくらいスハスハして、いつもの笑声えごえを用意。

「じゃ、じゃあ、どっか行きたいところある? 買い物したいとか、何か食べたいとか、遊びたいとか。あ、カフェでまったりでも構わない。キミのやりたいことしよ、二人で」

『フフッ、柳田さん。言い方が、サムくんみたいです』

 確かに。

 カアッと耳が熱くなるのがわかった。恥ずかし、俺……。

「ま、まぁ息子だし、似ちゃってもしゃあないっていうか、とっ、とにかくっ」

 なんとなくカレンダーに向かって、声を発する俺。

「日本に着いたら、こっちからもう一回電話するよ。よかったらそれまでに考えておいて?」

『はい。あの、柳田さんも、ご希望あれば、是非に』

「アハハ、はい」

 脈打つ早さを、まさか愛おしいと思えるなんて。


 さっき、サムとエニーがひとつの壁を乗り越えた姿を見ていたら、なんだかちょっとだけ寂しくもなったんだ。寂しく想ったら、急に彼女の声が聴きたくなって、たまらなくなって。

 甘え先を探す子どもと同じだ、俺は。

 彼女の声を聴いて、安心して、満たされて、でももっと欲しくなっていく貪欲の俺。


 きっと彼女には、スマートクールでスタイリッシュな大人だと思われている。

 そのイメージを壊してしまうかもしれないけど、壊してまでも彼女に踏み込んでいって、かわされ続けるその態度を、まるっきりこっちへ向けさせたい──。


「あっ、『YOSSYさん』だってば」


 ──なんて。



        ♧



「ヨォーッシイー?」

 ねっとり、と重なるふたつの声に、思わずドキリと体を硬直させた善一。切ったばかりのスマートフォンを左手に恐る恐る振り返り見れば、バスルームから出てきたサムとエニーが、仲良く善一を眺めていた。満面の笑みを貼り、柔く丸い紅潮した頬をつややかに持ち上げて。

「見たことないくらい、楽しそうだったね?」

 口角の上がったままのエニーは、そうして首をちょんと傾げる。まだ乾ききっていない濡れ髪は、タオルで巻いてある。

「いやー、楽しそうっていうか、幸せそうっていうか。ねぇヨッシー、結構ドキドキしてるでしょ? 今」

 同じく口角を上げ、しかしまなざしがスンと据わっているサムの笑み。手にはドライヤーが握られている。

「どっ、ドキドキって、別にその」

「いつの間に、日本で恋人コイビト、作ったの?」

「こォっ?!」

 ずきん、胸が痛む善一。

 二人の含みのあるジト目に言葉が詰まる。わずか一秒が長く感じたものの、その間に返す言葉を模索し、提示。

「い、いやいや、蜜葉ちゃんだよ。単純に、うん」

「蜜葉?」

「ふぅーん?」

 さも何でもないように、にっこりの善一。しかし止まない二人のジト目。

 嘘ではないとさとられつつも、未だ明示されない真実を求めている二人の瞳に、罪悪感がビシビシと迫る。

「なら、別にそんなにこそこそしなくたっていいじゃん」

「うん。身内同然、だもん」

「で? 蜜葉とどこに遊びに行くことになったの?」

「あれ、買い物、だったっけ?」

「カフェでまったりってのも聞こえたよ、ボク」

「なんかそれって、思いっきり……」

 顔を見合わせる幼い双子。

「『デート』だよねぇ?」

 重なる双子の声。くるりと見上げられる、深い灰緑色の双眸そうぼう

 遂に善一の鉄仮面に、ピシィとヒビが入る音がした。

「ゆっくり詳しく、お話聞かせていただけませんか。my DADお父さま?」

「ちゃあーんと、『子どもにもわかりやすく』、ご説明願えますこと?」

 今夜は逃げられそうにない──生唾を呑んだ善一が「わかったよ」とうなだれるまで、あと五秒。


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