1-3 complexion is so-so

 下階のコンビニで、良二の缶コーヒーを六本購入し、事務所へ戻ってきた若菜と蜜葉。

 階段を上がり、辿り着いた事務所のアルミ扉の前で、若菜は過呼吸まがいの深呼吸を散々繰り返した。果てに、自らの頬をパチーンと挟み叩き『雑念』を押し隠す。その一部始終を見て、蜜葉は密かにぎょっとしていた。

「も、戻りましたぁーっ」

「失礼、します」

「あー」

 バダンと開けられたアルミ扉。若菜の力加減のミス。

 次いで良二の姿を探せば、『務』の窓に近い本棚の前にて、ファイリングしてある書類をいくつか取り出し眺めているところで。

 まだ酷く心臓をバクバクさせている若菜。本心を圧し殺すことは慣れていたはずなのに、と口腔内をひと噛みし、強制的に切り替えを成す。

「おかえりなさい。すみません、居なくて」

「いい、別に」

 忙しなくページをめくり、止まったかと思えばまた捲りを繰り返している良二は、入口付近の若菜と蜜葉へ一瞥いちべつもくれない。

 若菜は蜜葉を応接ソファへ促す。

「柳田さん、蜜葉よこしてくれてありがとうございました」

「あー。ここでただ待ってられたって迷惑だからな」

「JKにじっと見られてたら恥ずかしくて仕事にならないって」

「おいコラ、妙な解釈すんな」

 ようやく向けられる、良二の視線。かち合っては、ぶわ、と若菜の体温が上がる。


 若菜は、一〇分前の蜜葉との会話で、自らの気持ちの変化とその意味に気が付いてしまった。

 初めてともいえるこの『好転的感情変化』は、二〇才ハタチを過ぎてから経験するにはもて余すほどにもろく、幼く、柔らかく。


「そそそそれはそうとっ」

 若菜から視線を切ると、良二も再びファイルへと集中を戻していく。

「こ、コーヒー買ってきましたよ。あと、てんちょからいつもの花貰いました」

「あー、デスク置いとけ」

 言われたとおりに、ビニル袋を静かに事務机へ置く若菜。わずかにぎこちなく、ケトルに水を汲み入れる。

「資料見返すなんて、調べ物ですか?」

「まーな。あと三分でまた出る」

「え、また?」

「あー。今日は戻らねぇ、張り込みだ」

 ペラペラと紙をめくる音と共に、淡々と告げる良二。眉を上げた若菜は、ケトルを火にかけて「あんれまぁ」と振り返った。

「明日の昼過ぎには戻る。それまでいつもみてぇに裏の掃除しとけ」

「はぁい」

「明日は俺も寝るし、また臨時休にすっからよ」

「そうですか」

 来客用カップを手にし、カタンと狭い作業台へ置く若菜。

「じゃあ貰った花たち、しおれないようにしとかないとですよね?」

「あー」

「私、退勤出勤はいつもどおりでいいんですか?」

「あー」

「じゃあ退勤まで蜜葉とここに居ていいですか?」

「あー」

「買ってきたコーヒーたちは持っていきますか?」

「あー」

「……意外とこのやり取り楽しいですね」

「あー──だっ、バぁカ! 楽しかねーよ、ちったァだぁってろ!」

 紙から顔を上げる良二。ギュウと鼻筋から眉からシワを寄せて、耳を真っ赤に染め振り返る。

 静観していた蜜葉が、顔を逸らして静かに肩を震わせ笑うので、若菜的には「してやったり」。良二は強く大きめの舌打ちをひとつすると、ファイルを勢いよくバチンと閉じた。

「上行く」

 持っていた資料ファイルと、近くに避けてあった数冊のファイルを手にし、良二はかかとをいつものようにガスガスと鳴らし歩き、事務机までやってきた。

「戸締り火元漏電その他、しっかり確認してから帰れ、いいな」

「はぁーい」

「怠ったら罰金と退去な」

「はぁーい」

「げ、花。これ多すぎんだろ……」

 甘い舌打ちと共に、花の入っているビニル袋を右手で持ち上げる。

「それはてんちょに言ってください。私はおつかいを頼まれただけです」

 フン、と鼻息を漏らして、良二は持ち上げたビニル袋を逆さにした。若菜の「あーっ?!」が、キンと事務所内に響く。

「何すんですか、もー」

「ウルセェでけぇ声出すな」

「自分で片付けないクセに散らかすのだけはやるんだから」

 卓上にバラバラと散らかる花々。若菜が眉を寄せかき集める様を見て、蜜葉も駆け寄り手を貸す。

 傍らで、めぼしいものをいくつか摘まみ上げていく良二。胸ポケット、ジャケット内ポケット、袖口を中心に花々をしまえば、タネの仕込みが同時に完了したようで。

「あとはオマエらにやる」

「え」

「こんなあっても困んだよ。あとは好きに持って帰れ」

 スラックスポケットにゴソ、と花々を突っ込んで、良二の眠たげな双眸そうぼうが若菜へゆらりと向けられる。

「ありがとう、ございます?」

「ん」

 見合うかたちになってしまった、良二と若菜。良二のまばたきひとつしないまなざしが、深く若菜をひと突きにする。

「…………」

「…………」

 見つめられている意図が読み取れない若菜は、眉を寄せ、怪訝に顎を引いていく。なぜか視線が逸らせないものの、嫌な気はしない自分にも驚いて。

「明日には、戻るしな」

「え。あ、さっ、さっき聞きましたよ」

「ん」

 ようやく刺し続けてくるまなざしから解放されて、緊張も同時に抜けた若菜。良二はふらりとアルミ扉へ向かう。

「上に荷物取りに行ったら、そのまま出る。緊急の場合だけメールで連絡すんのを許可する」

「わかりました」

「若菜さん、コーヒー」

 そっと後方から耳打つ蜜葉。ハッと背筋を伸ばして、六本が入ったビニル袋をさらい、良二を追う。

「やっ、なぎ田さん、忘れてます」

「ん、あーワリ」

 突き出す若菜の右手。良二の長い中指と薬指がわずかに右手の甲をかすめる。

 ソワワ、と背筋が波打てば、否応なく頬が染まってしまう。連鎖的に、その若菜の反応に良二の眉間がぎゅん、と寄るわけで。

「じゃ、じゃあ、よ」

「うぃっ、いってら、さい。お気を付けて」

 珍しく静かに扉が開けられ、パタムと閉まる。かかとを擦る音がいつもよりも小さい。


 ほふぁ。

 力んでいた肩の力を抜く若菜。がくんと上半身がしおれるように曲がる。

 良二を目の前に、温度の違う緊張をしてしまうとは──若菜は自らの気持ちを持てあましていた。


「わ、か、な、さん」

「ふぎっ」

 ゆらりと振り返れば、事務机前で蜜葉がいやにニコニコと笑んでいた。両手を後ろ手に、顎を引き、嫌味のない上目遣いが、珍しくネットリと若菜を標的とし絡めている。

「いろいろ、訊かせてくださいね、お話」

 フフフ、と漏れた蜜葉の笑みからは、どうやら今日は逃れられそうにない──そうさとったと同時に、ケトルがフヒィーと甲高く哭いた。


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