拙者売ります(その3)

「見事に、何もないな」

岡埜が驚いたように、『拙者売ります』の牢人者の三畳ひと間には、寝具も、衣類も家財道具も何もなかった。

一年ほど前、元高崎藩士・安島幸之丞という名で源太郎長屋を借りに現れた、と大家は言った。

半年前からわずかな家賃も滞り、傘張りなどの内職をするでもなく、ただ部屋でぽつねんと座っているだけだった。

浮多郎は、煤だらけの神棚で、黒い布にくるまれた本を見つけた。

手に取ると、『論語』というのは表紙だけで、中身はびっしり干支と数字が手書きされた帳簿のようなものだった。

「これは、・・・大福帳から引き写したものか?」

岡埜はしきりに首をひねったが、それをふところにねじり込み、

「甚吉とふたりで手分けして、上野あたりを聞き込みに回れ」

と命じ、奉行所に引き上げていった。

―質屋の並びの三軒先の仏具店の主人の爺さんが質屋のことをよく知っている上に、おしゃべりときているので、聞き出す手間はいらなかった。

「質屋の亭主は入り婿で、からだは細いが律儀な働き者でさ。朝からくるくるとよく働くのに、家付き娘のお内儀は芝居見物やら、熱海の名湯めぐりやらに血道を上げる道楽者さ。その上、大の男好きときたもんだ。ご亭主は、嫁にやり殺された、ともっぱらの噂で・・・」

おおかた、そんな噂を流した元締めは、この仏具店の爺さんだろう・・・。

「ああ、亡くなったのは三年ほど前さ。お内儀が若い手代を使ってけっこううまくやっていたが・・・。安い給金でこき使い、挙句夜伽までさせるんで、手代がなかなかいつかない」

これも、口からでまかせではないのか?

「直近の手代が辞めたのは、いつごろで」

「ああ、つい半月前さ。半次郎とかいったな」

「その半次郎とはうまく手が切れたので?」

「けっこう気の荒いやつだった。・・・それで意趣返しに泥棒に入った」

「半次郎が?」

「おそらくそうだろう。蔵に入ろうと錠前を壊そうとした。それも二度も。いや、半次郎にちがいねえ」

「おかしいですね」

「何が?」

じぶんの見立てにけちをつけられた、と爺さんは思ったのか、ニタニタ笑っていたのが、一転不機嫌な顔になった。

「半月前まで手代をしていたのなら、蔵の鍵がどこにあるかぐらいは分かりそうなもんでしょうよ」

爺さんは黙り込んでしまった。

―泪橋にもどった浮多郎は、腹ばいになって貸本の黄表紙を読んでいる養父の政五郎に、事件のあらましを話した。

「黒門町の見立ては、とんだお門違いさ。殺された質屋の後家は夜伽のために、その安島とかいう牢人者を買ったんじゃねえ。・・・二度も泥棒に入られたんで、用心棒に雇ったのさ」

政五郎は顔を上げて言った。

「その安島が、押し入り強盗の手引きをした?」

「それだと、仏壇屋の爺さんの与太話と同じになってしまう・・・」

浮多郎は、半月前に手代を辞めた半次郎という男に会ってみよう、と思った。

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