3.図書館


 祭と祭のあいだの町は、冷えてきた大気の中にも先の賑わいの酒の残り香と、五日後に迫った冬霊節への期待が入り混じるようだった。

 テュエンは留守番を弟子に頼み、夕暮れ前に店を出て上の街へ向かった。秋も終わりに近づき日足は短くなりつつある。本当は翌日にしたかったのだが、くだんの依頼に早く目処をつけたかったのだ。

 箱に〈水錠すいじょう〉の処方レシピを記していると思われるエルフ文字は、テュエンにも読めない。解読には辞書が必要で、そうした専門書は上の街の講学館へ出向かなければ、とても一介の初級術師が所持できるものではなかった。図書館へ行くのは久々になる。あまり気が進まなかったが、テュエンは仕方なく足を向けた。

 脇道から下町の目抜き通り〈絹織物大通り〉に出ると、やはり人混みだった。火壺で温める金色の蜂蜜酒を売る露店を準備する者たちがいて、隣では一目で旅行客とわかる夫妻が、通りに面したバルコニーを飾る白百合や薔薇に感心している。辻売りの手持ちベルは小腹を満たす香草入り紅鱒べにますパイを賑やかに宣伝し、疲れた顔つきの衛士が路側で何事かを職人に注意していた。危なっかしく街灯へ掛けられた梯子を直させているらしい。普段は灯油を燃やす街灯を、桃色や橙や薄緑、すみれ色などの彩色を放つ冷光ランプ燃料へ差し替えているのだろう。

 大通りは、リシュヌーの都を二分する谷川の大橋まで繋がる。橋を渡ると上の街で、入ってすぐの広場も貴族街の通りも、花と露店と垂れ幕とで美々しく飾られていた。

 街の浮かれた空気に軽くなりかけたテュエンの足取りも、しかし講学館へ近づくにつれ鈍くなってきた。〈沈思小路〉を入ったところにある〈己の尾を咥えた蛇ウロボロス〉の紋章を掲げた学府の門廊は、今日も街の賑わいなど無関心に、厳めしい石造りの口を大きく開いていた。首に提げてきた初級術師の徽章学鎖メダリオンを襟から出し、テュエンは心持ち首をすくめて門を潜った。

 国の支援を得て留学した帝都の錬金大学で、同期学生の罠に嵌められ、汚名を着て戻って以来、母校ともいえる講学館はテュエンにとって気まずい場所だ。今では少ないだろうものの、昔の知人に会う可能性はあり、堂々と歩き回れるほどまだ未練も消えていない。過去は取り返しがつかないもの。けじめをつけたいとは思いつつ、彼が錬金術に見た夢は大きなものだった。

 けれど猫背気味に柱廊を歩いて行った先で、図書館は、いつもは人を拒むように閉ざしている扉を大々的に開け放っていた。学生や職員の術師やらが盛んに出入りもしている。テュエン同様、伝統の灰色ローブを着込んだ学生たちは、眼前までうずたかく書物や巻物を抱え、職員にうるさく指図されつつ懸命に荷を運んでいた。

 ――虫干しをしていたらしい。ちょうど季節だものな……。

 邪魔にならぬよう、テュエンは端を歩いて館内へ足を踏み入れた。思いのほか大勢が、書架のあいだや階段を足早に行き来している。忙しそうな受付に、軽く黒鉄くろがねのメダルを掲げるだけで入れたのはありがたかったが、この様子では今日は施設を利用できないかもしれない。

 講学館に在籍時、テュエンは足繁くここへ通ったものだ。だがエルフ関連の本には縁がなく、どこに収蔵してあるのやら。ためしに一人二人、学生を捕まえて尋ねてみても、彼らは抱えた辞典に雪崩を起こさせないのに必死で、迷惑そうに首を振るだけだった。司書は裳裾を翻して駆け回っているし、声を掛けても学外の初級術師と見るや片手で断られてしまう。

 閉館時間も近いことだ。日暮れて大切な図書が湿気を帯びる前に収蔵しようと、みんな必死なのだろう。人に聞くのは諦めて、テュエンは自分で関連書籍の棚だけでも見つけておこうと歩き出した。

 知識の宮殿という趣のあった帝都オースレンの大図書館とは比ぶべくもないが、この図書館も辺境小国のものにしては立派な規模だった。

 建物はそれ一つで独立しており、地上は二階建て。地下書庫の他に屋根裏もあるそうで、内装建材は落ち着いた色の木造で統一されている。閲覧卓の並ぶ中央大通廊は、二階まで吹き抜けだ。両脇には床や壁と同じ黒樫材の、歳月をへて艶の出た大書棚が整然と聳えている。奥まで続く書棚の作る厳密な区分けは、アーチ型の天井とあわせて室内の遠近感をより強めていた。薄暗い書棚へ分け入る真理の探究者たちへ、その道のりの深さと厳しさについて、蔵書数とともに暗喩するかのように。

 明かりは窓からの自然光と、非燃性の穏やかな錬金ランプだけ。空間全体が白亜の大理石で光り輝くようだった、帝都の〈メルクリウス大図書館〉よりは落ち着いた薄暗さを保っている――そう、好ましく思っていた昔の感慨を、テュエンは久々に思い出した。

 帝都の図書館には、歴代皇帝や神話を題材とした壮麗な彫像が数知れず陳列されていて、その完璧な美と無言の監視には、無意識のうち気圧されていたものだ。一方、こちらは梁や書棚の側面に、素朴な幻獣や精霊の木彫が控えめに森の伝承を演じているだけだ。気持ちを集中させて調べ物ができるはずだったが、まもなくテュエンは心中で白旗を揚げることになった。

 ――エルフ語どころか、関連書籍も見当たらない。あるとすれば閉架書庫の、稀覯本きこうぼんの分類だろうか……。

 その場合、貸し出しは不可能で、閲覧には面倒な申請が必要になる。二階の吹き抜けの手すりから、テュエンは身を乗り出して階下を覗いた。館内中の埃を舞い上げる収蔵作業は、まだまだ終わりそうにない。

「仕方ない。帰るか……」今日のところはこれまでだ。

 諦めてきびすを返し、目の端に後日読みたい本を捉えながら歩いた。それで前方をよく見ていなかったので、テュエンは階段手前で危うく人とぶつかりかけた。その人物も、うつむいて階段を上ってきたのだ。

「ちょっと! 気をつけて――おや、あんたは」

「これはホフリー師。すみません、私の不注意です」

 ずり落ちた瓶底眼鏡を掛け直したのは、ホフリー中級術師だった。

 この講学館の錬成素材倉庫の、管理受付人の一人である。小柄な体躯とつぶらな瞳が、どことなく小肥こぶとりなもぐらを思わせる人物で、テュエンは以前、白鷹草という薬草を探すために助力を得たことがあった。いずれまた世話になる日もあろうかと、念のために名前を聞き知っていたのだ。

「その節はお世話になりました。どうぞ」とテュエンは道を譲った。

 ホフリーが自分に良い印象を抱いていないのは、以前の出会いで知っている。そうした術師は上の街には少なくない――貴族の子弟を出し抜いて帝都へ進学しながら、失敗して戻ってきた僻村の羊飼いの息子のことを、まだ記憶にとどめていて白眼視する者がいるのだ。

 狭量とは思っても、事実だから反論はしない。軽く頭を下げて、テュエンは無難に通り過ぎようとした。しかし、「テュエン師!」そこでホフリーは大げさに相好を崩すと、彼の腕を引っ張って窓際へ連れて行った。

「やあ、お久しぶりですな。本日はこちらへご用だったのですか。この数日は虫干しで、図書館はてんやわんやでしてね。あなた、仕事のほうはいかがですか」

 テュエンは目を瞬いた。偶然会って世間話を始めるほど自分たちは親しくない。

 けれど、ええ、まあ、などと曖昧に言葉を交わすうち、相手の目論見が見えてきた。

 図書館の蔵書数は膨大だ。虫干しも重労働になる。だがそれはホフリーが勤務する素材倉庫も事情は同じで、図書館と倉庫は、おそらく作業日に互いの人員を出して助け合っているのだろう。

 ところがホフリーは、先ほどから腰を後ろ手にさすっている。小脇に抱えた本は薄い紙綴りが数冊ほど。大型書籍を抱えて横を往来する学徒らの剣呑な視線からすると、彼はテュエンと会ったのを幸いに、自主休憩に入ったらしかった。

 こちらに付き合う義理はないが、相手も機を逃すつもりはないらしい。唾を飛ばす勢いで、ぺちゃくちゃ喋りはじめてしまった。

「あなた、下町から歩いてきたんでしょ? まったく世間はお祭ばかりで、始まる前から浮かれ騒いでいるんですから嘆かわしいことこの上ないですよ。しかもその馬鹿騒ぎに一役買っているのが、我々錬金術師ですからねえ」

「はあ……」

「花火だの胃薬だの、他に錬成するものがあるでしょうに。知を究め、術を磨いて世界の神秘を解き明かす、それが我ら錬金学徒の高邁な精神のはずでは? まったく昨今の街の術師の商売主義ときたら、見るにたえないものがあります。そうは思いませんか」

「お怒りはごもっともです。では、私はそろそろ……」

「ところで聞きましたよ、テュエン師。あなたタヴァラン家に薬師として雇われたそうですな。ま、あなたも以前は色々と失敗したのでしょうが、ようやくこれで国もあなたを援助した甲斐があったと――」

「待ってください、ホフリー師。誰からそれを?」

「タヴァラン家お抱えのボッツィ老師ですよ。慣れない製薬作業で腰を痛めたとかで、あなたが代わりに請け負うようになったとか聞きましたが。しかしながらあの御仁、先日も立派にご自分の足でうちの倉庫へおいでになりましたからなあ。本音のところは、もともとお好きな庭仕事だけをやっていたいのでしょう」

「ああ、なるほど……。しかし、は大げさです。私は北望館の使用人のために、一般的な家庭薬をご用立てしているだけですから」

「どうあれ、五名家の一つに出入りを認められたのでしょ。それにしてはあなた、そのローブはだいぶ錬成の染みが多いですなあ。先方に失礼のないよう、普段の身支度にももう少し気を配ってみては?」

「あ、本当に。ご指摘感謝します。すみませんが、私そろそろ……」

「おお! そういえばご存じですかな、夏に巨鬼トロルが出たでしょう。あの屍の解剖が――」

「…………」なんとしてもホフリーは、閉館時間まで休憩していたいらしい。

 通りかかる学生たちと司書の視線が突き刺さる。私も被害者だとテュエンは言いたかったが、ホフリーは帰ろうものなら共に歩き出す気配だし、もう知ったことかと開き直るしかなかった。すると、最前から聞きたいこともある。

「ホフリー師。話の腰を折ってしまって申し訳ないのですが、実を言うと、私が本日ここへ来たのは探している資料がありまして」

「ははあ、そうでしょうねえ」

「本来ならあなたの手を煩わせず、司書に尋ねるべきとは思うのですが」

「いやいや、私でもお役に立てるでしょう。ご覧の通り、素材倉庫と図書館職員は互いに往来が多いのです。それで?」

「エルフ語関連の書籍です。辞書のようなものは存在するでしょうか」

「ドワーフの地底言語なら一階の隅ですが、エルフ語はどうでしたかな。しかし見当はつきますよ。おいでなさい、探してみましょう」

 いそいそ先導するホフリーは、これでズル休みではなくなったと安堵したようだった。テュエンはなんとなく苦笑する気分でついていったが、彼が見逃していた関連書籍の収蔵棚へ、速やかに案内してくれたホフリーはさすがと言えた。

 素材倉庫の管理物の在処を、ほぼ把握しているという彼の特技は知っていた。だが図書館の収蔵物にもなかなか通じているらしい。少々怠惰で厭味いやみなところさえなければなと思いながら、テュエンは本の背表紙をさっそく調べていった。

「それで、またどうしてエルフ語など?」

「商品の装飾に使うつもりなのです。ほら、エルフ語は字面が美しいですから」

「装飾ですかあ」鼻白んで、ホフリー。「私見を申しますと、そうした動機はいかがなものですかな。珍奇なものを、意味もわからずありがたがるのは蒙昧もうまいの輩のすることです」

「そうかもしれません。ただ私は、下町で商う者ですし」盗品を疑われる依頼品の処置に必要なのだとは、口が裂けても言えない。「喜んでもらえたら、それで良いかなと。それに、人々が考古学に興味を持つきっかけにでもなれば、そう悪いことでもありません」

 賛同しかねると言いたげなホフリーの鼻息を背後に聞きつつ、テュエンはめぼしい書籍を引き抜いていった。

『秘術師に関する三つの碑文』、『すべての光の中の光』、『ヒリウィリオー解釈論考』に『永遠なる風の祭司』……。

 だが、いくらかパラパラとページを繰ってみても、どれも充分に役立ちそうになかった。ドワーフ語より未知の多いエルフ語には、そもそも現状で辞書が作れるほど知見の蓄積がないのかもしれない。

「エルフ関連はここだけですか? 閉架書庫には――」

「あるでしょうが、今日は職員以外入れませんよ。受付していませんからね」

「でしょうねえ」

「それほどお急ぎなので?」

「はあ、まあ」

「でしたら――」言いさしてホフリーは、はたしてこの初級術師にそこまで便宜を図ってやる意味があるのかと、疑問を感じた顔になった。ただそこで、通廊奥の大時計の長針がまだ閉館時刻に届かないのに気づくと、結局は手を振った。

「心当たりがあります。私の従兄弟いとこで、上の街に工房を持つ術師がいるのですがね、今ちょうど来ているのですよ。彼の先祖は古代種研究にも足跡を残した偉大な宮廷錬金術師でした。書籍も多く持っていたはずですよ。こちらです」

 それはありがたい。しかし大公に仕えた宮廷術師の血すじというと、矜持きょうじの高いつきあいにくい人物だったら困る。

 しかもホフリーの親戚というのは――と、期待半分、心配半分でついていったところ、一階奥の南の棚へホフリーが軽く手を上げた。

 あそこにと示された先には、ほっそりした背中が佇んでいる。なるほど、ローブは上等の毛織り布。深い臙脂色に黒糸と緑糸で縫い取りをした、趣味のいい身拵えをしている。

「エルネスト」

 しかしホフリーの呼びかけに男が振り向く少し前から、テュエンはその人物になんとなく既視感を覚えていた。

 痩せて尖った肩の形、青白い首筋にぼさぼさの薄い金髪。向こうの本棚が透けて見えそうなほど頼りない体躯が振り返ると、一拍の間を置いて、相手の立派な鼻の下で、色の悪い唇が驚愕にわなないていた。

「ああっ、あなた……」

 蚊の鳴くような悲鳴。手にしていた本がぱさりと落ちる。

 固まってしまった従兄弟を不審げに見やったものの、ホフリーは優秀な親戚を自慢できる喜びが勝ったらしい。小肥りの上体を反らして顎を上げ、

「テュエン師、ご紹介しましょう」

 眼鏡の位置をちょっぴり直し、彼は大いに笑みを浮かべた。

「私の母方の従兄弟、エルネスト・ヴィルヌーヴです。上の街に工房を持つ上級術師で、お城の貴族にもちょっとは名を知られた男ですよ。エルフ関連の書籍について尋ねてみたらよろしいでしょう。彼の曾祖母はかの有名な、アルナーダ・ヴィルヌーヴですから」

「……こんにちは、エルネスト師」

 テュエンは、初めましてとは言えなかった。

 昨日、店に怪しい箱を持ち込んできた依頼人は、気の毒なほど青ざめて、酸欠に陥った魚のごとく口をぱくぱく開閉した。

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