2.箱と錠と鍵
「さて、ここで少し炉から離そう。色の変化に注意して。充分に温度が下がるとわずかに金属光沢が出るから――よし、今だ。中栓を開いて、
やや慌てた感じのレムファクタが、小さな手に力を込めて硝子管の中栓をひねる。傾いて連結したフラスコ瓶から薄紫の卵液が流れ下ると、象牙色に濁っていた下のフラスコ溶液は一瞬、激しく煮えくり返った。次いで魔法のように変化する――赤みを帯びた橙色へ、奇術師のひるがえるマントさながら底の方から裏返って。
「うわあっ、すごい! 成功ですか、師匠?」
「良い色だね。落ち着いたらよく振って、あとは室温で冷ますだけだ」
球胴の硝子瓶を弟子は台に固定し、手帳を探す様子なのでテュエンはペンと一緒に渡してやった。熱心に、忘れないうちにと手順を書き付ける少年のかたわらで、テュエンはフラスコを眺めて錬成品の出来ばえに満足した。
「〈愚者の
「水錠の〈鍵〉のほうね」
「あっ、そうでした。鍵、と……」レムは書き込みながら、「これで今度こそ箱が開くといいですね!」
――はたして、開けてしまって本当にいいのだろうか?
そうだねえと答えつつ、テュエンの首は微妙に傾いていた。結局、例の怪しい依頼を引き受けてしまった翌日のことだった。
昔の帝国錬金術師が最初に創りあげたその箱は、〈哲学者の箱〉あるいは〈異言者の箱〉とも呼ばれている。
先日、品が持ち込まれたさい、テュエンが一目で見分けたのは、箱の蓋と本体のあいだに開いた細い溝のためだった。その溝は、容器が本来持つはずの割れ目を持たない。溶接したように蓋を特殊な合金で継ぎ合わせてあるのが、〈哲学者の箱〉の一貫した特徴なのだ。
箱の形状に決まりはなく、要諦は封印の仕方にある。機械仕掛けで鍵を掛ける通常の錠前とはちがい、箱は錬金術で封じられ、錬金術によってしか開かない。用いられるのは〈水錠〉と名付けられた、二種類で一組の薬液だった。
〈錠〉の薬液は、あらかじめ細工された箱の溝に流し込むと、しばらくの時間をおいて内部で固化、
「なんで〈哲学者の箱〉っていうんですか? あと、もう一つの名前……」
「〈異言者の箱〉」
「それ! いげんしゃって?」
錬成作業前、軽く講義したとき弟子が尋ねたのは、箱の由来に関わるもっともな質問だった。
「異言者というのは、私たちとは異なる言葉を使う者、というほどの意味かな。それはこの場合、千年以上前に絶滅したドワーフ種族を指すんだよ」
テュエンが説明しだすと、何かと物語や劇の種にされる古代種族の名前に、弟子は目を輝かせて身を乗り出したものである。
かつて大陸山地に繁栄し、平地のエルフ族と争っていたドワーフ族は、人間種族より優れた魔術と錬金技術を誇っていた。彼らは多くの地下遺跡を各地に遺したが、もともと〈水錠〉の仕組みを持つ箱は、そうした遺跡の一つから発見された遺物だった。
それは箱というより大きな
どちらが正しいかは知りようもない。ただ学匠は、揶揄された術師たちの遠い後任であったことは事実だ。
「ドワーフの遺した箱は開けられなかったけれど、昔の人は学ぶべきことはきちんと学んだんだ。錬金術の溶液で鍵をかけるという発想をもとに、これまでに何種類かの〈水錠〉が開発されているんだよ」
その一つが〈愚者の水錠〉だ。ちょうど今、二人が作り終えた錬成品である。これも名の由来ははっきりしない。が、酸性の〈鍵〉に〈錠〉が溶かされるさい、プクプクといささか珍妙な音がするせいかもしれない。
開発当時は帝国皇族や一部の術師の秘密だった
自分には技術がないという、依頼を断ろうとした口実は方便だった。店では〈愚者の水錠〉はじめ、〈青い猫の水錠〉と〈冷たい三角の水錠〉を取り扱っている。だが依頼品は、後者の二つとは反応しなかった。店の在庫分を切らしていた〈愚者の水錠〉が、残された可能性なのだが――。
「師匠、けっこう冷めてきましたよ」
片付けを終えるころ、レムファクタがローブの裾を引っ張ってきた。
少年はずっと待ちきれなかったらしく、掃除中にも折に触れてフラスコに立ち寄っては瓶に触れ、あち、あちと一人で大騒ぎしていた。
「本当かい?」
「ほんとですって、今度こそほんと! ほらほら、触っても平気でしょ」
得意げに手のひらを瓶に張りつける弟子に、テュエンも笑って頷き返す。不動態加工した細い金属棒を
作業室中央の大理石の台に、さながら夜気を凍らせたような青硝子の箱は、気品ある佇まいで冷たく輝いている。威厳に満ちた存在感には、雑然とした作業室も貴族の秘蔵の美術品陳列室へ変わってしまったようだ。
無意識に気を引き締めつつ、テュエンは細身の金属棒を構えた。フラスコ瓶の口から差し込み、作ったばかりの〈鍵〉の薬液を棒の先端に一滴取る。
「さてさて、どうかな……」
呟きながら箱と相対した。蓋と本体の狭間に開く、内側への凹みへそっと棒を宛てがう。液滴が錠になじむよう、静かに水平に撫でてみた。――しかし、
「駄目だな。反応なし」
「そんなあ、せっかく作ったのに。〈愚者の水錠〉もハズレなんだ」
「どうやらそのようだね。とすると、この鍵はうちでは開けられないなあ」
背を屈め、目を眇めて観察していた箱からテュエンは上体を起こした。レムファクタは無念そうだが、テュエンは内心ほっとしていた。
公開レシピの水錠は、他にも〈王と王妃の水錠〉や〈七つの金属の水錠〉などがある。だがそれらは錬成に高度な技術、扱いの危険な素材が必要なため、中級免許以上の資格が要求される。初級のテュエンの認可される仕事ではなく、どうやら下手な嘘をつくまでもなく、この困った注文を達成せずに済みそうだった。
厄介ごとから解放されて改めて箱を眺めてみれば、内部に封じられたものが気になる程度に、興味ぶかい依頼品ではあるのだが。
一級品なのは間違いない。あまり芸術には明るくないテュエンでも、一昔前に流行した様式の意匠であることくらいはわかった。
側面は垂直ではなく、やや膨らんだ曲線を持っている。女体の優美さを連想させる曲面には、銀線細工が緻密な
支持体の硝子は夜の藍色。天板には乳白色の不透明硝子が薄く被せられて、手彫りで瑞々しい風景が彫刻されている。湖の空に散って輝くエナメル金彩の星々。夜の女神めいた乙女が一人、
濡れた氷さながら艶めく青硝子は、裏側に凝った細工が施されているらしく、霜ついたように内部を秘密で隠している。レムもそれを惜しく思ったかして、手を伸ばすと箱を取った。
少年は、ためつすがめつ観察する。眉間にしわ寄せて側板の草の装飾を見つめたり、頭上に掲げあげて底を覗き込んでみたり。
「あーあ、何にも見えないや。中に手紙ってほんとかなあ。宝石とか、呪いの錬金薬とかじゃないのかなあ」
「気をつけて。強い衝撃を与えると、中身が台無しになるかもしれないからね」
「絶対落としたりしませんって。おれだって依頼品は大事に扱います」
「そうだろうけれどね。ただ〈哲学者の箱〉には、特殊な仕掛けがある場合があるから。あれ、そのことはレムにも説明したっけ?」
「してませんよ!」弟子は叫び、焦った顔で箱をしずしず台へ下ろした。
ふうっと息を吐いて額を拭い、責める目つきで師匠を振り仰ぐ。背中の矮翼を精いっぱい広げるのは抗議の気持ちだ。ごめんごめんとテュエンは謝り、
「重要なことを教えていなかった。でも、そんなに恐る恐るにならなくても大丈夫だ」
「本当ですかあ? おれ前に広場の劇で見ましたよ。宝箱に罠が仕掛けてあって、開けた瞬間に、
「そんな恐ろしい罠は――」まったくないとは言わないが、「この箱にはないだろう。私が言ったのは〈哲学者の箱〉によくある仕掛けのことだよ。この箱は、わざわざ錬金術で鍵をするくらいだからね、大事な物や人に見せたくない物をしまうために使われる。だけど箱自体はこんなふうに、硝子で作られたりもするだろう。それなら、無理やりに開けられないこともない。レムだったらどうする?」
「えっ……」少年はしばらく沈黙し、やがて冒涜だとでも言わん顔つきで硝子箱を見つめた。「割っちゃう?」
「そう、それが一番手っ取り早い。硝子なら割ってしまえばいいし、木製だったら
「爆発したりするやつですか?」
わくわくして言う弟子に、危険なのが好きだなあとテュエンは苦笑した。
「おまえが言っているのは、箱を開けようとする人を邪魔する罠だね。〈哲学者の箱〉の罠は、方向性が逆なんだ。しまってある物を破壊してしまう仕掛けなんだよ」
「しまってる物を……? そんなことしていいの?」
「正式に開ける資格を持った人以外の手に、絶対に渡さないようにするためだね。だから〈水錠〉のレシピが秘密だった時代には、錬金術の知識そのものが資格であり、鍵だった。今では普通の人だって、工房に頼めば気軽に使えるようになったけれどね」
「ふうん。中身を台無しにする罠って、どんなですか?」
「手紙を弱い酸で溶かしたり、火の錬金滴を仕込んでおいて燃やしたり、かな。最初に遺跡から発掘された〈異言者の箱〉には、魔術の罠が仕掛けられていたそうだ」
そしてその罠のために、箱の中身は永遠の謎となってしまった。
所有者だった帝国皇族が、解錠に手こずる錬金術師に業を煮やして強引にこじ開けたのだという。仕込まれていたのは業炎の魔術。結局ひと山の炭の入った、価値のない黒焦げの箱しか残らなかったという逸話である。
「ドワーフ得意の魔術錬金だ。正しい手順で正しい薬液を使えば、封印の錠と一緒に刻まれた魔術も霧散する仕組みだったんだろう」
説明しながらテュエンは、ふと、己の言葉に別の可能性を発見していた。
――この箱も公開されていないレシピ、つまり独自調合の〈水錠〉かもしれないな……。
しかしその場合、第三者による解錠には非常な努力を要求される。正しい〈鍵〉のレシピを見つけるには、何通りもの薬剤に対する反応を地道に調べていくほかないからだ。
「いや、待てよ。そういえば……」
呟いたのは、箱の講義をしながら思い出したせいだった。
「最初の〈異言者の箱〉は、蓋の装飾にドワーフ文字で〈鍵〉のレシピが暗号で記されていたらしいが……」
「師匠? いま、暗号って言った?」
テュエンは拡大鏡を手に取った。目の前にぴょこんと垂直に立った弟子の翼を――好奇心が刺激されると、レムは翼に感情が出る――両手で納めてから依頼品を引き寄せた。
レンズの汚れを袖で拭き拭き、じっくり観察してみる。だが蓋には、湖畔の端正な風景以外に文字らしきものは見当たらない。
――やっぱり、公開レシピのいずれかかな……。
思っているところにレムファクタの声がした。
「ねえ師匠、暗号があるの? おれ気になってたんですけど、こっちの模様さ、なんか変じゃない? 草が変なふうに絡まってるじゃん。なんか文字っぽくない?」
弟子が指先でつついていたのは側板の銀線細工だった。テュエンは、ただ夜風に吹かれ、たなびいている草原の装飾模様と思っていたが、
「――お手柄だよ、レムファクタ」
驚きに両目をしばたたく。しかし言葉とは裏腹に、声は呻きに近かった。
「ドワーフじゃないな。なんとこれは、エルフ文字だぞ……」
せがむレムファクタに拡大鏡を渡し、テュエンは上体を起こして場所を譲った。首の凝りを軽く揉む。今更ながら、前金の袋を重い響きを立てて置いていった客の真意を知った気がした。
〈水錠〉の処置は安くないが、初級術師でも扱うレシピにあの支払いは大仰すぎた。銅貨ばかりと思っていた革袋には、金貨銀貨入り交じって一財産入っていたのだ。
――この錠は簡単には開けられないと、彼は知っていたに違いない。
虐げられた犬じみた哀れな風情にほだされて、つい依頼を受けてしまった昨日の自分をテュエンは呪いたくなった。店の評判を聞いて来たという、あの言葉は世辞以上の――つまり、テュエンがかつて錬金学府の最高峰で上級免許を取得したのを知っている、という意味ではなかったか。
それに疑惑は他にもある。錬金学で研究されるのは主にドワーフの考古学だ。あまり遺跡を残さなかったエルフ族の知見は少なく、その文字を扱える人間は学匠にも多くない。
――この箱の製作者は何者だろう。どんな由来、いや、いわくがあるんだろう?
単に依頼が不首尾に終わったと、手数料を引いた前金ともども箱を返せばいいと思っていたのに。あとでこっそり衛士の友人に通報したほうがよいのだろうか。
「うーん、この葉っぱにも透かし文字が……。すごく怪しい……」
レムファクタはすっかり夢中になって、秘密を暴こうと拡大鏡を覗いている。
どこで手を引くべきかと、テュエンは軽い頭痛の気配にこめかみを揉みはじめた。
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