12.扉

 おびえた馬が小さくいなないて歩みを止める。神経質に鼻を上下に振るその背の上で、テュエンも束の間、息を止めていた。

 相乗りした後ろのダナンシーの反応はもっと露骨だった。修行を積んだ魔術師には、テュエンの感じた余韻のような波動よりも、はっきりした衝撃波として捉えられたにちがいない。鳥たちが騒ぎながら頭上を逃げ去っていく。何かの巨大な魔術が崩壊した余波は、ただ一度きりで空を彼方へ渡っていった。

 遺跡探査に名乗りを上げた渉猟兵たちと街を発ち、小走りで二時間も進んでいない路上だった。あたりはまだ山地に入らず、底の開けたのどかな谷間だ。南へ下る〈大公の道〉沿いに、畑地のある緩やかな丘陵地帯が続いている。

 平穏なリシュヌー地方らしい風景だが、確かに最前までとは何かが変化したのをテュエンは感じとっていた。前後に連なる渉猟兵たちが歩みを止めないなか、脇を小走りしていたアレックスとスヴェルグは仲間のようすをよく見ていた。

「なんだ、二人とも。どうかしたかい?」

「近くで魔術が壊れたわ」ダナンシーが、どこか遠い眼差しで西方を見渡した。「とても強大な魔法。人間に扱えるものではない。ひどく古びた封じの魔術よ」

「あれは……?」

 ダナンシーが注視した先をテュエンも見やり、額に手をかざして眉を寄せた。

 畑地の向こうには小さな森が始まっている。それを越えた先に、丘陵地と山地を分ける垂直の断崖があった。森の向こうにそそり立つ、淡いクリーム色の崖面に、テュエンは明らかに人工的な曲線を見いだしていた。

 夏の旺盛な樹冠の上。頂点の尖ったアーチ状の黒影が、細くだが明確に岩壁に刻まれている。それは異常に巨大な扉の上部構造に見えなくもなかった。

 スヴェルグが身軽に走り、先頭を進んでいた騎兵を呼び戻してきた。

「どうした、急ぐのだ。止まっている時間はない」

「あそこを見てください」テュエンが指さした。「あれは遺跡ではないですか?」

「何を言う。こんな街の近辺に遺跡など――」ない、と言いかけた口をそのままに、騎兵はじっと崖を睨んだ。「あれは何だ? 全隊止まれ!」

 最後尾についていた衛士を呼び寄せ、様子見に出そうとする。だがその必要はなかった。木立のほうから農夫が一人、半狂乱で駆けてくると、こちらを見つけるや吊り上がったまなじりで叫んだからだ。「巨鬼トロルだ、トロルが出たぞお!」

 渉猟兵の一人を街へ報せに返し、残りは森へ駆けつけた。乗馬のテュエンは人々より突出し、森へ入ったところで後ろからダナが手綱を抑えた。

 暴れ牛の狂ったような物音と唸り、吠え声が木立に響いている。降りると馬は身を翻して逃げ帰り、二人が下草に隠れながら現場に近づくにつれ、垢じみた異臭がはっきり漂ってきた。

 巨鬼トロルという魔物を、テュエンは初めて目にした。巌に似た灰色の肌をして、皮のたるんだ肥満体に毛皮だけを腰に巻き付けている。魔物は二頭もいて、どちらの背丈もゆうに人間の倍以上はあるだろう。そしてその向こう側に、大公の都の近辺になどあるはずのないものが見えていた。トロルの三倍の高さがありそうな、巨大な門扉である。

 崖面の闇深い入り口は内から開かれ、扉の片方はわずかにひしゃげて外れかけていた。その手前で、トロルたちはどういうわけか取っ組み合いの喧嘩をしている――と、そう見えたのも束の間で、互いに離れた魔物は足下の何かをしきりに掴もうとし始めた。

 視界に銀の剣光が閃き、隣のダナンシーがはっと息を飲んだ。恐ろしいことに、たった三人きりの兵士が、化け物二頭を相手に必死の戦いを演じているのだった。そのうち一人の黒髪と顔を見分けるや、思わずテュエンは腰を浮かせた。「クルト?」

「突撃――!」

 背後から喚声。大地を鳴動させて騎馬と渉猟兵の群れが突っ込んだ。

 一頭のトロルがびっくりして大げさに振り向き、拍子に左腕を振り抜いた。真横のクルトが盾で受けたものの、衝撃で強くあおられる。体勢を崩した瞬間を、横からすくい上げたのが別のトロルだった。

 万力の手に締め付けられ、自由な片腕だけでもがこうとするがほとんど無意味だ。ギロチンじみた歯の並ぶ、飢えた大口が涎を引いて開く。クルトが頭から喰われかけたとき、風を巻いて飛んできた片手剣が魔物の横腹に突き立った。

 樹皮並みの硬さを誇るその皮膚に、剣は浅くしか刺さらないように見えた。その刹那、ばりばりと激しい雷轟が弾けて稲妻が散る。剣は自ずから弾け抜け、大叫したトロルは背を仰け反らせて三歩もよろめいた。空中でくるくる回転する剣腹に、鮮やかな漆黒の縞。地面に落ちる寸前に、魔剣を見事に掴み取ったアレックスが哄笑しながら戦塵に突っ込んでいった。

「ひゃっほう――! こりゃ最高だぜテュエン!」

 トロルに放り出されたクルトへ、テュエンは駆け寄った。

 仰向けに転がり頭を振っている友人は、乾いた血泥にまみれた傷だらけの鎧を身につけている。しかしざっと見たところ大怪我はない。ほっとして傍らに片膝突くと、クルトは亡霊にでも会った顔でこちらを見上げた。

「テュエン? 何やってるんだおまえ、こんなところで。いや、どこだここは」

「……何本に見える?」

 思わずテュエンが人差し指を相手の眼前にかざすと、クルトは盛大に顔をしかめた。

「千本だ」

「私は真剣に――」

「腹は減ってるが俺は問題ない。それより、あの遺跡の奥に怪我をした部下がいる。状態が悪い。薬を持ってたら手当を頼む。だがまあ、まずはあのか」

 唸って立ち上がり、戦場にとって返そうとするのを引き留めた。剣を出すよう言い、テュエンは提げていた鞄から濃紫色の小瓶を取り出した。

 水平に持たせた剣の腹、そのなるべく先端あたりへ、慎重に注ぎ口を傾けた。ほんの一滴――琥珀色の錬成漿れんせいしょうは剣に滴るか否かの瞬間、無数の細かな稲妻に分岐して弾けた。生命あるもののように、時おり小閃光を弾かせながら稲妻は長剣を上へ下へと這い回る。

「おい、これは……」クルトが剣から目を離さず言った。「魔法剣か?」

「の、ようなものだよ。しかし私が扱うには本来支障のある品だから、使うのは今回だけで、きみも見なかったことに――」

「やったぜ、さすが錬金術師!」

 バシッとテュエンの腕を叩くと、クルトは嬉々として魔物に向かっていった。危うく瓶を取り落としかけたテュエンは冷や汗をぬぐって一息つく。アレックスといいクルトといい、己の武器のことになるとどうも子供じみる。テュエンは呆れたが、人間たちに攻め立てられたトロルが後ろ歩きに迫るのを見て、慌ててその場を逃れた。

 巨鬼は人型の魔物のなかでも最も巨大で危険な種族の一つだ。幸いにして数は多くなく、この国でも山深い地域で数年に一度、出没するかしないかという程度である。しかし桁外れの膂力りょりょくと食欲のために、人里が襲われたさいには常に目を覆うような被害が出た。

 あばたに覆われた灰色の皮膚は、ぶ厚くて異常に硬い。動きは大ぶりで、体躯のわりに巨大なてのひらに捕まれれば、馬の背骨も折られるという。一方、最大の弱みは赤子並みの知能の低さだ。だから巨鬼討伐では罠を張り、太い木槍を何本も突き立てた落とし穴や、鷲獅子グリフォン用の固定式大弩を使うのが定石だと、以前耳にしたことがあった。

 だが、今はそんな備えはない。我が物顔で暴れまくる二頭の怪物には、話が違うと逃げ出す渉猟兵も出てきた。

「ダナぁ!」奮戦の向こうからアレックスの怒鳴り声。「一頭やれるか!?」

「わかったわ! でも、私に近寄らせないようにね」

 ともに見守っていたダナが近くの岩場へ移動するのに、テュエンはついていった。一応後方支援をするつもりで、炎や風の錬金滴など、多少の目眩ましになる補助具は持参してきている。

 ダナンシーは見晴らしのいい安定した大岩の上に登ると、白楢の杖を手前に、自然体の姿勢で立った。杖は力ある老木から切り出されたものか、装飾のない素地の木目にさえ、見る者の琴線に触れる気品がある。軽くねじれた形の柄の、その先端だけが優美な形の枝ぶりを開いていた。美しい樹木の精ドリアードが祈りの両手を、ゆるく指を開いて重ねたように。

 そこに包み込むように飾られた、大ぶりの緑柱石エメラルドの六角柱に光が灯る。半眼になった魔術師は、微風に似た囁きで詠唱を始めていた。

 戦場にはトロルの咆哮。丸太より太い凶器の腕で、魔物が二人、三人と渉猟兵を薙ぎ倒していくのを、テュエンは気を揉んで見ているしかなかった。人々は、まとまっていた二頭を引き離すのには成功したが、そのぶん味方の戦力も分散されてしまっている。

 雷剣を振るうアレックス、スヴェルグとクルトの三人を魔物たちは明らかに嫌った。だがその暴れようと硬い皮膚に阻まれて、決定的な傷を与えるまでには至っていない。

 気ばかり焦らせたテュエンは、不意に背後で立ち上がった炎に気づかず燃やされそうになった。しかしそれは錯覚で、熱もなく、常人には不可視の炎の奔流は、魔術師ダナンシーが紡ぎつつある破壊的な力の気配だった。

 いつしか唱呪は囁きから、単調な歌になっていた。魔術師の周囲を白銀に燃えさかる幾すじもの炎の帯が、細く太くうねりながら取り巻いている。人間種族の扱える魔術は、古代種ドワーフやエルフの用いたそれとは比較にならないほど弱々しい。発動するにも長い時間がかかるものなのだが、それにしてはダナの創出する魔の力には目を瞠るものがあった。しかも強く、速く、さらに育つ気配がある。

 半ば恐れて力の範囲からテュエンが後じさる裏で、ようやくトロルたちも危険の兆候に気づいたようだった。二頭がそれぞれにこちらへ向かう姿勢をみせる。一頭をクルトと、彼と巧みに連携する二人の兵士が押しとどめる一方、岩場の麓に素早く集合して強力な盾になったのがアレックスとスヴェルグだった。

 双剣を自在に踊らせるアレックス。小雷を弾けさせながら魔物の周囲を駆け回ると、彼女に翻弄された魔物が苛立って両拳を組んだ。頭上に高く振り上げた隙を逃さず、背後からスヴェルグが大斧を叩き込む。トロルは苦痛と憤怒に大咆哮し、それも気にもならぬほど、そのころ魔術師の詠唱は天を轟かすほどになっていた。

 細身の女性の喉から発されているとはとても信じがたい、幾重にも絡まった多重唱が一帯には響き渡っていた。雷神の太い吠え声があり、風の女王の烈しい叫びがある。音響はすでに人々を骨まで震わし、人間を含めたすべての生物が畏怖を感じずにはいられない――その絶頂で、沈黙は唐突に訪れた。

 張り詰めた緊張。申し合わせたように、アレックスとスヴェルグがトロルからさっと跳び退く。両目を翠に燃え上がらせた魔術師が魔物を見据え、トンと軽く杖を突いた。

 世界を割る雷撃が天高くから轟き落ちた。轟音を従えて激しく大地を撃ち砕いた次の瞬間、白炎の火柱が立ち上がる。静寂の中、炭と化したトロルの残骸が膝を折って崩れおちた。一拍置いて、兵たちの大歓声が上がった。

 ゆらりと倒れかけたダナンシーに駆け寄り、テュエンは腕を差し伸べた。魔術師の身体は一回りも薄くなったように思える。額にびっしり汗を浮かべたダナンシーは、乾いた唇から掠れ声を漏らした。

「三年かけて、力を溜めたの」手が白くなるほど握りしめた杖の先端で、緑柱石エメラルドの六角柱が砂となって風に砕けた。「やはり、役に立ったわ。古代種族の研究から、私が錬成した補助晶石よ」

「魔術師は錬金術を認めない。古代種族が滅びたのは、大戦争で魔術錬金を乱用したせいだという伝承があるから」楽な体勢に整えてやりながら、テュエンは尋ねた。「しかし、あなたは違うようですね。私は錬金術師ですが、先ほどの魔術を見ると、正直恐ろしいと感じました」

「錬金術はすでにあり、人の欲望には底がない――いつか古代種族と同じ過ちを、人間も犯すわ」疲れ切ってはいるが、断固とした口調で魔術師は囁いた。「破滅を避けるには、さらにその先を目指すしかないのよ。いっとき後戻りできたとしても、また繰り返すだけなのだから……」

「…………」

 眠るように両目を閉じた魔術師を、テュエンはじっと見つめた。

 新しい歓声が聞こえてきた。視線をやると、遺跡の中から騎兵と思われる一団が突然に現れ、援軍に加わったところだった。半白の老騎士とクルトが呼び交わしている。知り合いのようだ。そして森の向こうから馬蹄の音も響いてきた。吹き鳴らされる角笛は、報せを受けてリシュヌーの街から駆けつけた近衛隊の一軍と思われた。

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