第3話 魔法剣
1.不穏の足音
顔を仰向けたまま魔術師は、瞑目していた瞳を開いた。
頬を撫でゆく涼風は、
「――腐臭がするわ」
「腐臭だって? おい、なんか臭うか?」
アレックスは傍らに立つ大男に意見を求めた。己同様、唐突に足を止めた魔術師を見守っていたスヴェルグは、
「家畜の死骸とかじゃねえか、ダナ? 街道のそばだ、谷川に落ちた羊とかさ」
そうは言いつつアレックスも、しばらく周囲の気配に耳を澄ませた。
時刻は早朝だった。仄かに青い夜霧の名残が、街道沿いに旺盛に茂る白樺やトネリコの木立のそこかしこにまだ漂っている。空間を満たす優しいせせらぎは近い渓流のもの。川から立ちのぼる飛沫の粒は、爽やかな森気を含んで、腐臭どころか活き活きと匂い立っていた。高山からおりた夏鳥たちの、ちいちいと鳴き交わす澄んだ声。
あたりは静かなものだ。南部に開けた扇状地から、谷川沿いをずっと北東へ登っていくサントラジェ公国の主街道も、この付近は左右から岩肌の迫る山道になっている。時刻が進めば交易馬車や通行人も多い道なのだが、今は彼ら三人のほかに人通りはなかった。
「――行こうぜ。例の噂もある。一応、用心しつつな」
二人はうなずき、アレックスについて歩き出す。
魔術師であるダナは、アレックスよりも十五歳近く年上だ。人と自然の橋渡しをする調停者として、人生の多くを旅に費やしてきた彼女をアレックスは内心尊敬していたし、実際その研ぎ澄まされた感覚には幾度も助けられてきた。けれど三人の旅人たちは、それだけでなく慎重になるべき情報を耳にしていたのだ。
――どうやら、あの話は本当だったらしい。
峠を越えたとき、アレックスの足は速まっていた。警告するまでもなく、うしろの二人も気づいている。
前方、木立の向こう側から喚声と剣戟、馬蹄の音。垢じみた獣臭はすでに強く嗅ぎ取れるほどになっていた。密な樹木の葉むらまで震わすのは、甲高い叫びと金切り声だ。耳障りなその声音は明らかに人のものではなかった。
歩みはいつしか駆け足となり、木立を回り込んだとたん、目前に兵士が背中から倒れ込んできた。恐怖に叫ぶ彼の腹に、一匹の魔物が躍りあがる。血に汚れた歯を剥きだして、ケタケタ嗤う異形の矮躯。刃毀れした短剣を振りかぶった亜人へ向かい、雌雄双剣を引き抜くまもなくアレックスは突っ込んだ。
肩を入れて吹っ飛ばす。叫んでもんどりうった悪鬼へ、立ち直るのを許さず抜き打ちの一閃。驚愕の表情を凍らせた首級が飛び、さらに奥から突進してきた新手の胸へ半身をひねった右剣のひと突き。
背後ではダナが負傷兵を助け起こしていた。スヴェルグも身の丈ほどある大斧を振り回し、雄叫びをあげて魔物を二匹同時に薙ぎ倒している。
思わぬ援軍を得た兵士たちは、勢いを盛り返して喚声を上げた。悪鬼は三十匹近い群れのようだ。しかし足並みを揃えなおした騎兵の反撃、そしてアレックスとスヴェルグの火のような猛攻の前に、数で押すだけの魔物たちはまもなく算を乱しはじめた。
「――助勢を感謝する。おまえたち、
戦闘後、アレックスは兵の一団を率いていた隊長に声をかけられていた。
うつ伏せの魔物を長靴の爪先でひっくり返し、息の根を確認していた彼女は顔を上げる。目の覚めるような群青のマントを羽織った初老の男が、栗毛の騎馬の手綱を引いて立っていた。拍車には金の鍍金。この国の騎士らしい。
脇当ての紋章は青地に金の〈六翼の
慣れない態度ではない。ぞんざいな仕草で、彼女は親指で背後を指し示した。
「渉猟免許なら荷物ん中だけど」
「いや、いいのだ。確認をしようというのではない。我らの任務は巡視と討伐なのでな――もっとも、おまえたちが無法の猟兵であるというなら話は別だが」
苦笑する男の口調は騎士にしては気安げだった。アレックスが片眉を跳ねて応じると、彼は視線をダナへ移す。魔術師がさっそく負傷兵の傷に薬草をあて、消毒布を巻いているのに目を細めて言った。
「ありがたい。あの魔術師は旅の連れか?」
「いや、あたしらの仲間だよ。渉猟免許も持ってるよ。あの人はちょっと変わり者でね――といったって、魔術師ってのはみんな風変わりなんだろうけど」
なるほどと騎士は頷く。しかし顔を戻した男の表情を読めば、彼の関心はどちらかというとアレックスにあるようだった。もの珍しげなふぜいで、騎士は何かを言いよどんでいる。
ま、このくらいはお上品なほうだろう――と、彼女は胸中したり顔を浮かべた。
初対面で、アレックスに驚かない人間はいない。なにしろ彼女は容姿も態度も普通とはほど遠いところがある。
背は体格の優れた男と並んでも遜色ない高身長だし、鍛えた全身には使いこんだ革鎧を隙なく装備している。そのうえ豊かな長髪は、たとえ百フォート先からでも目立つ燃えるような赤色なのだ。
己の押し出しをじゅうぶん意識しながら、アレックスは尖った八重歯を見せつけた。わざと威嚇的な笑みを浮かべてみせた。
「女の渉猟兵も珍しいって? あたしは特別な人間なのさ」
「失礼した。そうではない。見事な二刀流だったので、隊に誘えんものかと考えていた」
思いがけない冗談に、大笑いしたのはアレックスのほうだった。
第一印象どおり、騎士にしては話の通じそうな人物だった。ゴブリンの屍体を集めていた兵たちが、びっくりまなこで彼女を見やっている。この相手なら多少この場にとどまって、情報交換するのもいいだろう。
後ろ頭でひとつに括った赤毛を振り立て、アレックスは屍体の小山をあごでしゃくった。
「あれ燃やすんだろ? うちの魔術師にやらせていいかい? きっとやりたがると思うんだ、浄化と還元の炎ってやつを」
「そうしてもらえるなら、むしろ嬉しい。部下たちも疲れていてな……。今の戦いに少しでも意義を感じられれば、士気も戻ってくるだろう。――今度の襲撃では、正直なところ犠牲も覚悟していたのだ。本当に助かったのだよ」
「噂は聞いてたよ。じゃ、本当なんだね? ゴブリンがどっかで湧いてるって」
「はぐれであればと願っていたが、どうやらそうではない。我が公国には、ドワーフの遺跡穴が多いのだ」
ひとつ溜め息を吐く老騎士自身、薄汚れた鎧や肌の色に濃い疲労が滲みでていた。束の間、黙った口髭の脇に深いしわが刻まれる。けれど彼は、「ところで……」そこで腕組みをとくと、年相応に世故たけた、どこかひょうきんな笑みをアレックスに向けた。
「そういう事情でな、現在公国は腕に覚えのある者を歓迎している。リシュヌーまで行けば、おまえたちの組合で悪鬼討伐の依頼を見つけられるはずだ。もし仕事を探しているのなら、どうだろうな?」
「ハハ、ありがとよ。だけどあたしは用があって、この国に来たもんでさ。ただ目的地はリシュヌーだし、用があんのはあたしだけ。スヴェルグ――あっちの北国人とダナは暇するだろうから、賞金稼ぎもいいかもね」
「ぜひ検討してほしい。リシュヌーには何をしに? ワインの初出にはまだ早いぞ」
「あたしは
「ふむ。鍛冶職人かね」
「いんや、錬金術師」
「驚いた。それは魔法剣だったかな?」
「前はね。調子が悪いと言ったろ? 今はただの剣になっちまってるよ」
アレックスは両腰に下げた剣のうち、左の剣鞘を軽く叩いた。そこで、じっと彼女を見つめていたダナに気がつくと、親指を立てて合図してやった。
悪鬼の屍体を焼くために、魔術師の穏やかな詠唱が始まる。鼻歌とも古謡ともつかない不思議な韻律を持つその声を聞きながら、アレックスは懐かしげに小首を傾げた。
「じかに顔合わせるのはあたしも久しぶりさ。腕のいいやつでねえ。頭は固いけど。――ちゃんと飯食ってんのかしらね、テュエンのやつは」
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