3.白鷹草を求めて

「お問い合わせの植物は、こちらにはありませんですね」

 上の街にある国立講学館。その錬金素材管理室の受付にいた中年男は、そっけなくそう言うと、テュエンの存在を無視したように書類仕事を再開した。

 ついてきていたクルトがうしろで鼻白んだように失笑する。テュエンは、子供たち二人を鍋の番に残してきてよかったと思った。彼らがこの場にいたら、とたんに受付へ喧嘩をしかけて敷地外へ叩き出されかねなかっただろう。

 講学館は、王城正面の広場に隣接する形で建ち並ぶ、国で最大の学府だ。この国には、一時衰退しかけた経済を宮廷錬金術師が立てなおしたという歴史がある。それで現在でも錬金学は手厚く支援され、辺境の小国にしては規模の大きな学び舎が設けられていた。

 学府の門は広場から小路地へ入ったところに開かれており、錬金学の象徴である〈己の尾を咥えた蛇ウロボロス〉の紋をかかげた門廊が開いている。光と闇の円環図や、過去の偉大な錬金術師の像の立ち並んだ門廊を抜けた先が広い中庭で、建物は正方形の緑の芝生を囲むロの字型になっていた。古風な柱廊ポルチコをそなえた同じ建築様式で、ひと回り小さな中庭を持つ学舎が奥にもつづいて見える。

 学府の規模にあわせ、術師が錬成に使用する種々の素材を保管した管理庫もまた充実したものだった。柱廊に面したマホガニーの大扉、それを押し開けて入った室内はかなり奥行きがあり、磨かれた白石の敷かれた先、一段高くなった中央正面に大理石の立派なカウンターが鎮座していた。

 建築の基礎は石造りだ。だが壁は、これも大理石粉末を利用した漆喰しっくいで美しく塗り固められている。空気は涼しく乾燥し、部屋の照明は薄暗い。温湿度や太陽光による素材の劣化を防ぐための処置で、部屋の壁には一定の間隔をあけて、非燃性の翠炎を揺らす冷光ランプが灯されていた。壁にほかの装飾はない。カウンター受付に座る男の背後に三つだけ、天井まで届く細長い採光窓が無機質な光を差し入れていた。

 訪問者の無視を決めこむ受付の前で、テュエンは身分証として久々に首に掛けてきた徽章学鎖メダリオンをローブの襟にしまい入れた。眠たげに頬杖をつく受付の胸元には白銅のメダルが下がっている。細かい傷で曇りのついた鋼色のメダルの印象は〈流れる水に囲まれた炎〉。テュエンの黒鉄のメダル〈一つ目の異形の不死鳥〉よりも、ひとつ上の位である中級錬金術師の身分を示していた。

 だからといって受付が、来訪者を粗略に扱っていい理由にはならないのだが、錬金術師には――ことに、学府に務める術師には偏屈で高慢な人間も多かった。けれどテュエンは、目の前の瓶底眼鏡びんぞこめがねの男に、もっとべつの侮蔑の気配を感じとっていた。

 おそらく彼は、テュエンの過去を知っているのだろう。若年の頃この講学館で学び、支援者を得て錬金学府の最高峰、帝都大学へ進学したこと。にも関わらず、汚名を得て落ちぶれて戻ってきた経緯を。

 溜息をこらえ、テュエンは羽根ペンを走らせつづける男に、しんぼう強く声をかけた。

「白鷹草というのは地元の呼び名で、もしかすると正式な学術名称が別にあるかもしれません。念のため、目録だけでも見せていただくことはできませんか」

「素材目録の閲覧には当学府の教授者、あるいは学生資格か、事務部で発行される許可証が必要になります。それに申しましたとおり、お尋ねの薬草はこちらにはございませんよ。私は上級位こそいただいていないものの、この仕事を十年から務めておりましてね。倉庫内の品物はすべて把握しておるつもりです」

「しかし……」

「たしかなことですよ。なお私をお疑いか?」

「いいえ、そういうわけでは……」

 かすかな舌打ちがして、しびれを切らしたクルトが背後で動く気配がした。

 だが、剣柄に片腕を引っかけたクルトが前へ出るよりも先に、右手奥から重々しい声がかかった。

「店主殿か」

 見やると、脇の階段の暗がりから一人の術師が上がってきたところだった。

 しみの多い濃い灰色のローブ、右手には厳重に封印された黒檀の箱を抱えている。地下に保管されていた何かの素材を取りにきたと思われる初老の男は、顎髭あごひげを短く刈りこんだ厳しい顔つきをテュエンに向けた。首に赤みを帯びた金色の徽章学鎖メダリオンが掛かっている。彫られた印象は〈太陽を咥えた獅子〉の紋だ。

 帝国領内でも限られた大学府でしか発行されない、錬金学の最上位の証だった。そのいかにも学者然とした威厳のある人物に、テュエンは軽く会釈をした。今年の春、たまたまテュエンの店を訪れてから、二度ほど素材の仕入れ依頼を請けたことのある学匠がくしょうだった。

「これはユーリス学匠、こんにちは。お世話になっています」

「うむ」

 講学館でも高位の術師である彼は、一拍ほどテュエンと受付を見比べた。

「当学府の錬金素材の仕入れを、請け負うようになられたか?」

「いえ。本日は、少々特殊な素材について問い合わせに来たのですが……」

「ほう。どのような」

「特殊などと、とんでもない」意外にも学匠が興味を示したことに焦り、感心しないという顔つきで受付が手を振った。「錬金素材ではありません。薬効の薄い雑草ですよ。講学館で扱うような物ではありませんので、こちらに備蓄はないとお伝えしたところです」

「おい。さっきは、そうは言ってなかったようだが?」

 苦々しげに口を挟んだクルトに目をやり、学匠は事態をすばやく把握したようだった。その場から動かず受付を見つめ、「目録を」と命じる。

 しぶしぶの風情で、受付はカウンター下に屈みこんだ。さも重たげに持ちあげた厚く巨大な帳面を卓上に置くと、勢いでかび臭い香りと埃が舞い上がった。

 受付と学匠、双方に礼を述べてテュエンは目録に手を伸ばした。しかし彼が古びた表紙をめくるより早く受付が手で制すると、ページを一気に塊ごとめくり、挑戦するかのようにちらりとテュエンを上目で見た。

 眼鏡の位置を片手で直し、彼は指を舐めて紙をめくる。目的の植物名が載ったページとそのらんを、たちまち見つけて指さした。

「こちらでしょ」

 革の表紙は古びているが、紙はさほどいたんでいない。細かい斜体がびっしり並んだ中にたしかに『モーリュ;地方名称、白鷹草』とあるのを認め、テュエンは若干驚いた気分で受付に首肯した。

「おそらく、これですね。在庫は……」

「ありませんよ。あったとしても、標本用に押されたものくらいです。ちなみに標本は当然ながら学外への持出し禁止となっています」

「念のため、確認してまいれ」

 学匠の言葉に受付はあからさまに憮然としたが、「ただいま」と言いながら席を立った。

「管理倉庫の主のような男だ」

 受付が上階へと姿を消すのを見送ってから、ユーリス学匠が言った。

「彼が無いというのなら、本当に無いのかもしれぬ。ただ、多少怠惰なところがあるようなのでな」

「どうやらお助けいただいたようです。感謝します」

「いや」

 と言ったきり、学匠は沈黙している。

 錬金術が学問としてさかんになる前、術師は己のたずさわる研究やその成果を病的なまでに隠匿いんとくする慣習を持っていた。独自の暗号まで使い錬成レシピを隠すほどで、もし重要な研究内容が盗まれでもした場合、かつては殺人沙汰になることも珍しくなかったという。

 錬成法の一貫したさまざまなレシピが公開されている現代でも、個人で工房を持つ術師には、独自の研究をしている者も多い。学匠はテュエンに遠慮して、白鷹草について何も聞かずにいてくれていると思われた。

 しかしテュエンとしては、別段隠すことではない。むしろ知恵があれば借りたいほどだったので、「実は」と自分から切り出した。持ってきた民間伝承の紙綴かみとじを出して、学匠に経緯を説明する。

「興味ぶかい。氷霊も人に憑くか」

「他の例をご存知でしたか?」

「風霊の症例を耳にしたことがある。しかし、属性が違えば風魔ジンの薬は効くまい。私が東方で耳にした調合薬は、風性を弱める鉱石を用いた頓服薬とんぷくやくだった」

「では、白鷹草――モーリュの花には、氷性を抑える魔効があるのでしょうか」

「わからぬ。素材として管理庫に記録がある以上、なにがしかの効能を報告されているとは思うが。しかし話の出所が民間伝承であるなら、迷信のおそれも多分にあるな」

「そのときは仕方ありません。風魔ジンの薬に倣って、氷性を抑えるような効果を持つ既知の調合薬を試してみるしかないですね……」

 二人の錬金術師が難しい顔で黙ったところで、受付の男が戻ってきた。

 持ってきたのは古びた植物標本で、やはり押し花にされたものしかなかったという。

「上の街の工房を片っ端から当たってみるか?」

 クルトが言ったが、意外にも、提言したのは受付の術師だった。

「もしやすると、タヴァラン家の植物園には、その雑草があるかもしれませんよ」

「本当に?」

「もしかすると、です。というのも去年の秋だかに、タヴァラン家のボッツィ老師から問い合わせがありましてな。例の白鷹草について、錬金素材としての価値を」

 あの家の奥方がいろいろと野草の気に入ったのを育てているようでして、と彼は言った。

「土地の花で白鷹草というのを育てているが、何か面白い効能があったりしないかと。私が調べましたところ、冬場に風邪予防として家畜に食わせることはあるようですが、他に用途はないとお答えしました。その後、栽培されているかはわかりませんな」

「ボッツィ老師なら面識がある」ユーリス学匠が言った。「あのお人は錬金術師というよりは植物学者のむきが強い。白鷹草について、知られざる薬効があるかもしれぬという話であれば喜んで聞くだろう。もし行くのなら、私の紹介だと言うがいい」

「ありがとうございます」

 テュエンは明るい気分になって二人に感謝した。

 しかしそのうしろでは、クルトが浮かない顔でそっと呟いていた。

「タヴァランか……。爺さんが留守ならいいんだが」

 

 講学館を出ると、時刻は遅い昼だった。

 店を出る前、昼食の支度はしておいたので子供たちの心配はなく、テュエンはクルトと上の街で軽く食事をった。宿の食堂に入るのも面倒だったし、ちょうど広場に市の立つ日だったから、露天に開かれたパン屋や肉屋に寄って適当に品物を見繕みつくろった。

 塩気のあるチーズと生ハムを、朝焼きのパンに挟んでもらう。それを庶民の酸っぱい安ワインで流しこむのは、意欲に満ちていた学生時代に戻ったようでテュエンは少々複雑だった。

 クルトのほうは、どうやら今でも日常茶飯事らしい。やたらと堅いバゲットサンドをあっというまに平らげると、露店の農婦に冗談など言いながらワインのおかわりまでしている。戻ってきてテュエンの隣、石灰岩のベンチに腰をおろし、ワインをひと息に飲み干してから衛士は言った。

「まずい話を聞いた。タヴァランの隠居が今、北望館に来てるらしい」

 タヴァラン家はクルトの一族、フィガリーサ家と同格の伯爵位で、由緒正しい国の五名家のひとつだ。下町の初級錬金術師であるテュエンには縁がなく、名前程度しか知識がない。

「なにか問題があるのかい?」

だ。あそこのジジイはガチガチの頑固頭で、法や騎士道に反するのを蛇蝎のごとく嫌うたちだ。つまり庶子しょしの俺なんぞは、館に入るのも我慢ならんってやつさ。持病の悪化でわりに早く務めを引退したんだが、狩りだの大公の話し相手だので、ちょこちょこ所領から戻ってくるらしくてな。どうも間が悪かった」

「けれど、私たちが訪ねるのは家付きの錬金術師だ。ユーリス学匠の話しぶりでは難しい人物ではなさそうだし、裏口からこっそり行って、老師と話をする程度なら許されるんじゃないかな」

「どうかねえ」クルトは鼻にしわを寄せて笑った。「裏口から行くのは賛成だ」

「もう隠居なんだろう。そんなに厄介?」

「仕切り屋なのさ。フィガリーサの前に国の騎士団をまとめてたのがあの爺さんだ。南の国境問題を片付けて、国中の山賊どもを根絶やしにした男だぜ。いまだに俺ら衛士隊のやり方にくちばしを挟んでくることがある。清く正しいお貴族様にとっちゃ、おかげで平和になったんだろうが」

 とにかく行ってみようぜ、とクルトは立ち上がりかけ、テュエンの手元にまだ半分ほど残るサンドイッチを見て止まる。食わないならよこせとてのひらを差し出してくるのを、テュエンは無言で叩いてパンをかじった。

 なみの貴族屋敷は、頑丈な石造りの城壁に囲まれた上の街の内にある。だがタヴァラン家の館は壁の外、都を出て北に丘陵を登った見晴らしのいい高台に建てられていた。

 もとは北部から来る山賊や魔物に対する守りのため、監視塔として築かれた砦のひとつだったらしい。リシュヌーの街が拡大し、新しい砦が別に造られたので、古い物見はタヴァラン家に首都での居留宅として大公から貸与たいよされた。改築によって館らしい外観にはなったものの、今でも小高い丘に建つ高い塔のある屋敷には、かつて騎士たちが屯営所として詰めていた無骨な風情が残っている――というのがクルトの話だった。

 五月の午後の天候はよく、綿雲を浮かべた青空を、残雪の峰々が稜線でギザギザと縁取っていた。丘の斜面は緑の絨毯にやわらかく覆い尽くされている。蜜蜂や蝶が遅咲きの春の花々に群れて舞い、空高くには忙しげに鳴くヒバリの姿。北望館へ至るこぎれいな舗装路をクルトが肩で風切って歩くうしろで、テュエンは大地に白鷹草を探しながら進んだ。

 やがて視界をさえぎらない程度の低い石垣が現れた。立派な錬鉄の透かし門の脇に守衛が二人立っている。クルトが話をつけ、中へ入ると整えられた庭園が広がっていた。きっちりと刈り込まれた芝生、潔癖なほど対象に並んだ樹木と鮮やかな花壇。それらを迂回する小径こみちをたどり、二人は館の側面へ移動する。そして正面玄関ファサードを右に見ながら裏へ回りこむ途中で、テュエンは奥の木立にその瀟洒しょうしゃな建築物を見つけた。

「あれは温室だね、クルト。保管庫の受付が言っていた植物園は、観葉植物温室オランジェリーだったのか」

 砦の面影を残す館とは正反対の印象の、純白の壁に大きなガラス窓をもつ建物だった。

 形は古風に円形で、壁一面に張られたアーチ窓は白い枠格子がアクセントになっている。全体として貴婦人のレース飾りを思わせる装飾が美しく、驚いたことに屋根は半球ドーム型の曲面ガラス仕上げになっていた。磨きあげられたガラス板に、五月の清々しい陽光が反射している。

 さんさんと陽がそそぐ内部には、珍しげな樹影が見える。旺盛な葉叢はむらの濃い緑と、オレンジや赤の果実の色彩。そもそも過ぎてきた庭園の一角にも立派な薬草菜園があったので、この館の奥方――現当主の妻君は亡くなっているため、次期当主の妻――の草木趣味は、なかなかのものだとテュエンは感心した。

 ――それに、もし白鷹草をあの温室で育てているなら、夏の花と遜色そんじょくない薬効が期待できるにちがいない。

 テュエンが気にしていたのはその点だった。

 タヴァラン家に白鷹草があるとしても、露地栽培ならひと束ほどもらったところでたいした意味はない。それなら、クルトがいうには難物そうな大貴族に関わることなく、野辺で花を探したほうが厄介事は少ないだろう。しかし、温室栽培となると話は別だ。

 テュエンは視線を温室へ向けたまま親友に呼びかけた。

「クルト。お屋敷を訪ねる前に、あそこをちょっと覗いてきてもいいかな。できれば先に確認したいことがあるんだけれど――クルト?」

 衛士からの返事はなかった。振り向くと、クルトは館正面の庭を注視していた。

 視線を追えば、前庭に駆け出してきた子供がいる。どこからかはしゃいだ声と犬の吠え声が聞こえると思っていたが、それは五、六歳くらいの男の子で、あとからチョコレート色の猟犬と慌てたようすの侍女が一人、追いかけている。

「お坊ちゃま、駄目ですよ。転んでしまいますよ」

 どうやらタヴァラン家の子息のようだ。テュエンが単純にそう考える横で、クルトのほうは侍女に関心があるようだった。

「ああ、この家のメイドだったか……」

「おや、知り合いかい?」

「おまえのな。俺のじゃない。午前中、店で会ったろう。俺がミルレットを連れて行ったときにすれ違ったご婦人だ。どこかで見たと思ったが、この家の使用人だったか」

 驚いて目を向けると、子供と侍女はすでに館の影に入って見えなかった。ただ子供が軽く咳込む声と、女性の心配する声だけが聞こえてくる。

「あら、お兄様から風邪が移ってしまったのかしら。さあ、おうちに入りましょう。もしもお熱が出たら、お兄様みたいにずっとお部屋で寝ていなくちゃならないですよ」

 ――ひょっとすると、あの糖衣薬……。

 この家の子息のために買っていったものだったのか。

 自分は確認できなかったが、クルトの目は信頼できる。テュエンは急に、腑に落ちた気がした。侍女はたしかに糖衣薬を大量購入していく例の客なのだろう。

 以前から不思議に思ってはいたのだ。どうみても庶民の女性が、毎回こともなげに薬をまとめ買いしていくことを。安価に抑えてあるとはいえ、糖衣薬は通常よりも割高だ。それも実は、タヴァランのような大貴族の用向きだったという事情なら納得できる。

 貴族には体面がある。下町の初級錬金術師の店を利用していると、人には知られたくないために、館の主は侍女に命じていつわって購入していたのだろう。

 ――だとしても、買いこむ量が尋常じゃないが……。でもともかく、それなら頭の痛かった甜菜糖てんさいとうの備蓄問題も解決するかもしれないな。

 客の資金に余裕があるなら、糖衣薬に使う砂糖の質を上げられるかもしれない。白砂糖や蜂蜜を使えるなら、テュエンが汗だくになって甜菜糖を作る手間は省けるのだ。それに多少えぐ味が残ってしまう甜菜糖を使うより、味も上等にできる。次回の来店時、それとなく相談を持ちかけてみようとテュエンは思った。

 思わぬところで仕事上の収穫が得られたようだった。店にこもっているだけでは駄目だなと、気持ちを軽くしてテュエンはクルトと裏口に向かった。

 出てきた使用人に学匠の名前を出し、ボッツィ老師を呼んでもらう。老師は腰の曲がりかけた白髯はくぜん好々爺こうこうやで、テュエンが白鷹草の話をすると興味ぶかげに耳を傾けてくれた。

 まさに温室でその草を育てているという、もっとも欲しかった情報が手に入ったとき、しかしテュエンの幸運もそこで終わった。

「フィガリーサのお家の方が、なにゆえ先触さきぶれもなく当家の錬金術師と裏口にて面会を持とうとなさるのでしょうか」

 屋敷奥から足早に現れたのは、礼服をきっちり着こなした使用人の男だった。黒髪を後ろに撫でつけ、感情を抑えた落ち着いた眼差しは執事の見本といった感じ。当主からのお言葉ですと前置きしてから、彼は容赦なく二人を追い出しにかかった。

 クルトの懸念けねんどおり、どうやら噂の鬼隠居テオドルド・タヴァランが在宅していたらしい。しかも運悪く、隠居は前庭を横切る二人を窓から見かけたうえ、その距離からクルトの顔を見分けたようだ。

「シヴォー家の小作人に関わる用件であるなら、まずシヴォー家から使者を立てるのが、しかるべき順序というものでございましょう」

 窮したテュエンがうっかり事の次第を漏らすと、とりつくしまもなくなった。うしろで頭を抱えたクルトには、隠居じきじきの辛辣な嫌味まで伝えられる始末だ。

「平民の模範となるべき現衛士隊長ともあろう者が、下町のうろんな者どもと広くよしみを通じていると聞いている、とのこと。生まれが私生児であれ、家名を負うのならばふさわしく振る舞うのがサントラジェの騎士の分別であろう、とのお言伝でございます」

 消沈して下町の月蝋通げつろうどおりを帰るころ、時刻はまだ夕暮れ前だった。

 〈閉店〉の看板が下がる表扉を開けると、待ちかねたような軽い足音が二人ぶん、駆けつけてくる。気が引いてやや足取りを鈍らせたテュエンの背中を、狭い玄関でうしろにつかえたクルトがはたいて気合いを入れた。

「師匠! クルトさんもお帰りなさい!」

 真っ先に笑顔を見せたのはレムファクタだった。大鍋の番をきちんとこなしていたらしく、金の巻き毛を汗で額に張りつかせている。午前中の師匠の真似なのか、首にはてぬぐいを巻いていた。「鍋は無事です!」

「薬草、もらえた?」

 続くミルレットの期待に満ちた眼差しに、一瞬テュエンは負けそうになった。だがこらえると、笑みを作って子供らに向かい合う。結果は残念でも、むやみに不安にさせたくはなかった。

「レム、ご苦労だったね。ミルレットもありがとう。残念なのだけど、講学館には薬草の保管はなかったよ」

「えっ、でも、ずいぶん遅かったから……」

「保管庫の奥まで探してもらっていたからね。だけれども、心配しなくていい。今日すぐには薬は作れなくなってしまったけど、明日、みんなで白鷹草を摘んでこよう」

「街の北側の丘にたくさん咲いてるのを、テュエンが見つけてな」

 クルトが不敵に口角を上げ、親指で自分の胸を突いてみせる。

「俺が三人くらい人手を連れてくるから、必要ぶんはすぐ集まるだろう。昨日の晩、酔っ払って赤煉瓦あかれんが通りの標識をぶっ壊したやつらがいてな。適当な懲罰ちょうばつを考えてたところだ。ちょうどいいから働かせてやる」

「ええ、酔っ払い? クルトさん、大丈夫なの?」

「なに、普段は気のいい連中さ、レム。ちょっと飲み過ぎただけだろうぜ。なにしろあいつら、標識に向かって喧嘩売ってたんだからな」

「標識に……? お酒って、酔うと標識と喧嘩をしたくなるの?」

 理解不能といった顔のレムを面白そうに相手するクルトを置いて、テュエンはミルレットを手招きすると店の奥へ連れていった。

 カウンター前に少女を待たせ、裏の棚から丸薬入りの小袋をひとつ、水薬入りの中瓶をひとつ取り出す。小袋はそのまま、水薬は一滴ずつ滴下できる小瓶に移し替え、ミルレットの前に並べて言った。

「今日のところは、この薬を持って帰りなさい。こちらの茶色い丸薬は、冬の山道を歩く旅人が飲む防寒薬で、毎食後――つまり、食事を食べたあとに一粒飲む。こっちの菫色の水薬は夜眠る前、カップ一杯の白湯に三滴たらして妹に飲ませること。よく眠れる薬だ」

「ええと、こっちが一粒ずつ……」

「紙に書いてあげよう。お父さんやお母さんは、文字が読めるかな?」

「ううん……」

「じゃあ、絵で描けば大丈夫だね」

 こっくりうなずき、ミルレットは羽根ペンを動かすテュエンの長い指先を黙って見つめた。それから、小さく言った。

「お金、あんまり持ってない」

「そうかい? この薬のお代は、ルサ青銅貨五つでどうかな」

 ミルレットは眉を寄せてテュエンを見上げる。

「そんなの、ます一匹買えない値段だ」

「うん。友達だから特別にね。他の人には内緒だよ」

「留守番してるあいだ、レムがあんたの――術師様のことをいろいろ教えてくれた。いい人だって。でもなんであたしにもよくしてくれる?」

「うーん。クルトの頼みだからね」

「母ちゃんが、やけに親切にしてくる大人には気をつけろって」

「賢明なお母さんだ」

 苦笑してテュエンはペンを止めた。描き終えた処方箋を薬と一緒に端布はぎれに包み、器用に持ち手を作りながら唸る。

「私もここへ来るまでに、多くの人に助けられてきたからね。私を後援してくれた方や、この国の支援のおかげで錬金学を学べたんだ。これは恩返しのひとつだよ」

「ふうん……」

「それでも納得できないなら、こう言おう。実は今日きみが来てくれたおかげで、私を悩ませていたある問題を解決する糸口がつかめた。薬の値段は、それを差し引きしたぶんだ。これでどうかな?」

 ミルレットは分かったような分からないような顔をしたが、結局うんとうなずいた。薬の包みを素直に受け取り、じっと見つめる目には、朝に見かけた疑いぶかい野良猫じみた光は消えている。

 テュエンは微笑み、カウンターを出て少女をうながした。

「じゃあ、早く帰って妹さんを看病してあげなさい。明日はみんなで薬草摘みだ。ミルレットも来てくれるね?」

「朝起きたら、走ってくる」

「今日の帰りは、クルトの部下が家まで送ってくれるそうだよ」

 私も明日までに他の文献を当たってみよう。言いながら店内を入口へ戻り、ミルレットを送り出す。

 少女はレムファクタに手を振ってから、一瞬テュエンをかえりみた。お下げ髪を跳ねさせて、ぴょこんとすばやくお辞儀をすると、クルトと共に出て行った。

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