3.レムファクタ

 蒸留瓶を連結するガラス細管内部を、翡翠色の液体がゆっくり水平移動していく。

 半地下の作業場は薄暗く、熱がこもっている。街水路の水力で駆動する換気扇の勢いはよかったが、まる四日、錬金反射炉で燃えつづける炎熱を逃がすにはすこし威力が足りない。時折り額から落ちかかる汗をぬぐいつつ、それでもテュエンは微動もせずに、ガラス管内を断続的にのろのろ動く液を注視していた。

 一般住宅の水場を改造した、錬金作業部屋。中央には冷温を保つ大理石の作業台があり、熱を防ぐ厚い岩壁ぎわに小型反射炉、その竈鍋かまどなべから真横へと連結蒸留装置ランビキが連なっている。奥の書棚には隙間にまでぎっちり書冊が詰めこまれ、入りきらない文献や紙綴かみとじは床に乱雑に山積みされるか、雪崩を起こしていた。

 古い依頼書、配合率のメモ書きなどで、他の壁も埋まっている。床はさらに足の踏み場もないありさまだ。薬草の束がほどけて広がり、不燃布の上に鉱石、乾燥種子、いびつな骨片が無造作に散らばっている。

 ラベルの変色した遮光瓶、黒光りする蛇や、蜥蜴とかげ革の小袋の数々。混沌と散らかった部屋を、テュエンは器用に跳び歩いて横切った。冷却箱の上からぶ厚い紙綴じを取りのけ、雪苔を掴み出す。霜を指で弾きながら蒸留装置に戻ると、防熱手袋をはめて大フラスコを竈から遠ざける。

 蒸留瓶とそれを繋ぐガラス管は、奇怪な魔獣の消化管さながら曲がりくねり、複雑に絡みあっている。五番目の中フラスコから次へ繋がる管のコックを絞り、テュエンは濾過装置をそっと外した。薄手の断熱手袋にはめかえて、装置内の茶色く劣化したずたぼろの塊をすばやく取りのぞく。そこに片手で圧縮した雪苔を新しく詰めなおすと、指先で念入りに押しこみ、今度は逆の手順で装置をもとに戻した。

 加熱と加圧の過程が再開し、翡翠色の溶液はまもなく濾過装置に到達した。端から澄んだ青緑の液体がぽつぽつと浸みでてくると、テュエンはほっと息を吐いた。後ずさりして作業台に軽く腰掛け、手の甲でまた流れた額の汗をぬぐう。

 作っているのは風信鳥の核となる錬金滴れんきんてきだった。

 風の魔力を翼に宿す魔鳥がいる。どんな種でもかまわないが、その鳥の羽根を酸で溶かし、熱して蒸留し、濾過して上澄みの油だけを利用する。定着鉱晶の融けたものに潜らせてまた熱し、最後は蒸留水の中に落として凝固させる。

 過程だけいえば単純でも、加熱温度や時間、火のムラにも依存してできあがりの品質が変わるため、作業には熟練の腕を要した。もちろん、もととなる魔鳥の羽根の質も完成品の効力を左右する。

 以前同じものを作ったときは時間もなく、材料も安価なコカトリスの腹毛を用いたため、仕上がった鳥の寿命は短かった。だが今回テュエンは、より大型の魔鳥フラカン、それも上等な風切り羽を使っている。核への魔術の定着度を増すため、熱溶解した鉱晶には宿り木の灰もひと掴み混ぜた。錬金過程にかけたのは、じっくりひと晩だ。

 今、溶液は濾過装置からガラス管を下り、融けた銀色の鉱晶液に淡い碧光の波を伝わせつつ溶けこんでいくところだった。自分の貧弱な魔術でも、これなら風信鳥の精度は格段に上がるだろう。

 ――でも、最初の実験は失敗した……。

 女楽師の依頼を受けてから、核を錬成するのはこれで二度目となる。最初の核が完成したのは、一昨日の夜だった。

 楽師の訪問を受けた当夜から、テュエンは作業にかかっていた。依頼は、すでに発動ずみの魔術の命を永らえさせること――魔法の小鳥が記憶した声を何度も聞けるように変えることだが、テュエンはそうした魔術錬成品の後日改術を行った経験がなかった。そこでまず、新しく風信鳥を作り、思いついた処置が可能かどうか実験することにしたのだ。

 しかし最初の実験――鳥の声をまた別の鳥に聞かせ、伝言ゲームの要領で封じた人声を保存できないかという試みは、風信鳥自体が持つ風の雑音が邪魔になり、伝言を繰り返すうち声が劣化する結果になってしまった。

 依頼で預かった鳥は古く、音声はもとから明瞭でないはず。最初の一度の伝言にも耐えられないかもしれず、テュエンはこの案を諦めた。

 次には、風信鳥の核に魔力を補充し、とにもかくにも鳥の寿命を延ばす案を考えた。この処置で鳥の声が永遠になるわけではないが、そのための手段を模索する時間を稼ぐことはできる。

「しかしやはり、うまくはいかないだろうな……」

 独りごちて、テュエンは咳きこんだ。気づけば何時間も喋っておらず、口内が乾ききっている。作業台のどこかにおいたカップを探しだしてのぞきこめば、明けがた淹れたコーヒーが底にすこしだけ残っている。一口で飲みくだすと、冷たく、ひどく苦かった。

 思い返すのは、あの女楽師の思い詰めた表情だ――五日目の明日には、鳥籠を返すと約束している。すべての試みが失敗したと、告げねばならないのは憂鬱だった。

「だが、はじめから不可能だとわかっていたことだ……」

 なんとか依頼を果たせたら、よかったのだけれど。

「どうあがいたところで、結局、私には何もできそうにないな……」

 ――レムファクタの翼を癒やせぬように。大学への帰還が果たせぬように……。

 頭痛を感じはじめたこめかみを、テュエンは溜息を吐きながら揉んだ。結論づけると、なじみの灰色の無力感が全身を覆ってきたようだった。

 水音に目をやれば、ようやく錬金溶液が最後のフラスコに滴りはじめていた。あとは蒸留水の中で丸く結晶化するのを待つだけだ。液滴がつぎつぎ瓶底を転がって小さな塊を作るのを確認すると、テュエンは億劫おっくうげに立ちあがり、炉以外の火を落としてすこし休憩することにした。

 だが、それから二時間あまり経ったころだろうか――。

 階下で響いたものすごい音に、曖昧な眠りからテュエンはびくっと跳ね起きた。かすむ目で時計を見るとちょうど正午を回った時刻だ。疲れのとれない身体を、ソファから無理に引き起こして階段を降りると、先ほどの騒音が悪夢ではなかったとテュエンは知った。彼は呆然と、作業部屋の入り口に立ち尽くした。

 部屋は大雑把に片付けられていた。それはよいが、蒸留装置から大フラスコがひとつ外されて、床に無残な姿をさらしている。大きな水溜まりと、そこに割れて散らばる厚手のガラス片の残骸。途方に暮れたレムファクタの小さな背中が、惨状のかたわらに佇んでいた。

「レム……、何をした?」

 呆然として近寄ると、少年は両翼を跳ねさせて振り向いた。

 血の気のない、泣き出す寸前の顔つきで、レムはテュエンに一歩を踏み出し、けれど足元に鳴ったガラス片の硬い音を怖れて凍りついた。

 床に屈みこみ、テュエンは水溜まりに手を伸ばす。少々歪みのある楕円、銀に翡翠のしまの入った錬金滴が無造作に散らばっている。小指の先ほどの豆に似た形で凝固した結晶は、軽く摘まみ上げただけで音もなく砕け散った。

 テュエンは深い溜息を吐いた。

「怪我はなかったかい?」

「あ、ありません……」

「レムファクタ。私の錬金道具に触ってはいけないと、何度も言ってきたはずだね」

「すみません、師匠、おれ……」

「この錬金滴を作るために、私がどれだけ時間をかけていたか知っているだろう」

「はい。でも師匠、おれ……」

「作業中は部屋の片付けも必要ないと言ってきたはずだ。勝手に物を動かされると困るんだよ、レム」

「でも手伝いたかったんです、おれ!」

「邪魔にしかなっていない」

「……割れたガラス、片付けます」

「いいから。危ないから私がやる。おまえは二階にでも行っていなさい。いいかい、作業場には来るんじゃない。それから私が居ないとき、勝手に店番するのも駄目だ」

「…………」

 テュエンはレムファクタが大人しく去るのを待ったが、少年は動かなかった。両拳を握り、唇を噛みしめてその場に突っ立っている。

 いったい、何と言ってほしいというんだ――言い過ぎているのを感じつつ、連日の睡眠不足と疲れのせいか、苛立ちを抑えることができなかった。

「錬金術で使う素材の中には――」テュエンは雑巾を探しながら諭した。「危険な物も多いんだ。素人が不用意に扱ってはいけない。何度も注意したね? このフラスコに入っていたのが水だったから良かったものの、強酸や溶けた金属だった可能性もあるんだよ。前から言っているのに、どうしてわからないんだろう」

「…………」

「それに、連結瓶の配置にも動かしちゃいけない理由がある。おまえにはフラスコがぜんぶ同じに見えるかもしれないけれど、ひとつひとつの瓶にも癖があるんだ。長いあいだ使ううちに、一番良い配置や角度が見つけてあるんだよ」

「…………」

「それを不用意に変えられてしまうと、また一から配置場所を探らなくちゃいけなくなる。どれだけ余計な苦労になるか、そろそろわかってくれないか」

「師匠が……、師匠が悪いんですよ」

「私が? どうして?」

「おれに錬金術をぜんぜん教えてくれないから」

 眉間にしわを刻んで、テュエンは床を拭く手に力をこめた。

「それも何度も言ったよ、レム。この国の学舎は、有翼人を受け入れない。認可証を貰えなければ、錬金術師にはなれないだろう? おまえのせいじゃないけれど、現実はそうなっている。だから」

「おれ、別に大学に行きたいわけじゃないもん」

「他のことを学ぶべきなんだ、レム。おまえのためだ。たとえばパン屋の見習いとか――」

「パン屋なんかやらない! 錬金術がいいって言ってるのに!」

 ふいていた水溜まりにボタボタと滴が落ちて、見上げると少年が大粒の涙を流していた。しまったと思っても、一度口にした言葉は戻せない。流された血を、痛む身体に戻すことができないように。

「師匠なんか嫌いだ!」

 さっと踵を返すと、レムファクタは泣きじゃくりながら作業部屋から出て行った。母屋へのぼる階段を駆けあがる足音が耳に痛い。テュエンはしばらく手を止めて少年の行方を眺めたが、やがて首を振りながら掃除を再開した。

 昼食はパンと焼いたベーコン、チーズと牛乳で簡単にすませた。レムファクタのぶんも作ったが、上階の寝室にいくら呼びかけても返事はなく、食事皿に布巾をかぶせてテュエンは階下に戻った。

 いつものように足音荒くクルトが訪問してきたのは、午後三時を過ぎた頃だった。

「調子はどうだ」

 武人の友人は常にどんな状況だろうと、颯爽としてこだわりない態度をみせる。それに多少救われたような気になりつつ、テュエンは無言で部屋のすみに片付けたバケツを指さした。眉を跳ねあげ、クルトはバケツ内の割れたフラスコをのぞきこんだ。

「どうやら俺は、かなり厄介な依頼を持ちこんじまったようだな」

「わかっていたくせに。本当に困るんだよ、クルト。いつの日か、私はもぐり営業のかどで手が後ろに回ってしまう」

「そのときおまえを連行するのは衛士の俺だ。途中で逃がしてやるから心配するな」

 軽口を叩きながら、そういえばとクルトは天井を見上げた。

「レム少年が屋根の上で膝かかえてたぞ。おまえら、また喧嘩したな」

「屋根の上だって?」テュエンは驚き、見透かせる道理もないのにつられて天井を見た。「あの子はまたそういう、危ないところに――」

「なんだ、知らんのか。あいつはしょっちゅう屋根に登ってるぞ。有翼人だし、高い場所が好きなんじゃないか」

「落ちたらどうするんだ。目眩めまいでも起こしたりしたら」

「有翼人だぞ」苦笑して、クルト。「すっかり親だな、テュエン。心配しすぎだ。落ちたところでベランダだろう。たいした怪我はしないだろうよ。俺だってあのくらいの年頃にはよく屋根だの木だのに登ったもんで……」

「誰もが、きみのようにできるわけじゃない。有翼人は体重が軽い。鳥みたいに、骨が人間よりもろかったらどうするんだ」

 言い捨ててテュエンは慌てて上階へいったが、しばらくのち、戻ってきたときには案の定、肩を落としていた。クルトが勝手にコーヒーを淹れ、飲みながら決めつけた。

「当ててやる。錬金術の件でモメたんだろう。学びたいと言ってるんだから、教えてやればいいのに」

「きみまで……。いくら学んでも、あの子は錬金術師になれない。免許を取得するどころか、まず亜人種は入学試験すら受けられないんだから」

「今現在は、の話だろ。十年後には認められるようになってるかもしれんぜ」

「まさか。公的な学府は貴族支配だ。差別と偏見と腐敗しかない。ありえないね」

「帝都の大学は駄目でも、この国の講学館なら田舎だし」

「同じだよ、クルト。どこの仕組みも帝大をまねて作られてるんだ。内情は一緒だよ。どこも腐っている――わざわざ説明させないでくれ」

 失笑するテュエンにクルトが黙って目を細める。テュエンが大学を追われた理由は、クルトも知っていた。端的にいえば冤罪えんざいだった。テュエンの人柄を知る学友、師の誰もが彼の無実を悟っていたが、相手が悪かったのだ。

 大陸に広く影響力を持つ帝都の大学は門戸が開かれており、試験に合格し、学費さえ支払えれば入学者の身分は問われない。テュエンはリシュヌーに近い村落生まれの平民だが、通っていた学館で非常な秀才ぶりを示したために国の援助を得て進学していた。

 乾いた良土が水を吸うように、彼はよく勉強した。席次はつねに上位にあり、世の常として、そのぶん他の学徒の妬みを買った。多くは、自らの欠点を自分の外部に理由づける、甘やかされた貴族の子弟たちの妬みを。

 ある重要な試験の後日、学内で大きな騒ぎが起きた。厳重に保管されていた希少な錬金素材の盗難が発覚したのだ。テュエンが罠にはめられたことに気づいたのは、学匠会議に出頭を命じられたずっと後だった。下宿部屋の彼のベッドの下から、盗まれた素材の欠片が見つけられていたのだった。

 密告者は相部屋の学友で、のちに問い詰めてわかったことは、テュエンをライバル視する人物――本物の犯人に彼が脅されていたこと、そして盗難素材は真犯人がテュエンに試験で勝つために無断で使用し、失敗して始末を押しつけたものらしいということだった。

 学匠たちの半数以上は、テュエンの無実を知っていたはずだ――問答のあいまに、そうした口調を滲ませていたので。けれど彼らはテュエンの学籍を抹消する決議で合意した。彼ら学匠たちの研究室を経済的に大きく支援していたのは、テュエンの敵対者を含む貴族たちの寄付金だったからだ。

 平民のテュエンに擁護者ようごしゃはいない。国からの援助も当然打ち切られ、彼は汚名を得て帰還した。この店をテュエンに与えたのは、彼が大学で師事していた学匠だが、せめてもの償いというつもりだったのだろう。本心では撥ねつけたくても、テュエンは黙って譲り受けた。

 すべての情熱と努力を捧げた天性の道を断たれたとして、人生は続いていた。自分で食いぶちを稼ぎ、生活していかねばならなかった。

「最低限の資格だけは剥奪されずにすんだから、私はなんとか暮らしていける。けれどレムには先がない。この半世紀、錬金学において何か画期的な発明があったかい? あるわけがない。どこの学府も、財布を握る貴族の傀儡かいらいに成り下がっているんだから。連中の保守主義については、きみのほうが詳しいはずじゃないか、クルト?」

「まあな。だが俺は下町でのびのび育ったんだ。義兄上あにうえ殿が当主になるまで、自分の血なんぞ知りもしなかった。どうせ親父はろくでもない飲んだくれで、くだらん喧嘩でとっくに死んだと勝手に思っていたからな」

「つまり、何が言いたい? 楽天的に生きていれば物事うまくいくと?」

「怒るな。そうじゃない」クルトは苦笑して、友人の眼前に指を突きつけた。「その顔だ、テュエン。そういう暗い顔しているから、レム少年も不安がるんだぜ。そろそろ昔のことは忘れろよ。おまえはいつも余計に考えすぎる」

「考えなしにやってきた結果が私だ。レムに同じ轍は踏ませたくない」

「そこが考えすぎだと言ってる。俺が思うに、あいつはただおまえを手伝いたいだけだぞ」

「じゅうぶん手伝ってくれているよ。掃除も洗濯も、商品の配達とか」

「そのうえ錬金作業も手伝いたいんだろう」

「どうして?」

「おまえの役に立ちたいから? おまえが好きだから、家族だからさ」

「預かっている子だ。客分みたいなものだよ。本当の家族は別にいる」

「秘密主義の部族がな。地上をけがれだとか何とか言って、空から降りてこないおかしな連中じゃないか。それとも、何年かごしに迎えに来るとでも約束したか?」

「したよ――いや、嘘だ。そうじゃない。約束したのは私のほうだ」

「なんだ? どういうことだ」

「いや、うん……。まったく、馬鹿なことを――」

 呻いてテュエンは額に手を当てた。なぜこんな話になっているのかわからない。この三日ほど、まともに眠っていないせいだろうか。

 両肩に急激な疲労を感じて、彼は床に座りこんだ。持っていた革手袋を遠くに放る。思い出したくない記憶ばかりが、ひどく疲れているときに限って次々頭に浮かんでくるのはなぜなのだろう。

「あの子を預けられた日……」テュエンは呻くように呟いた。「泣きやまないあの子を何とかしようと、馬鹿なことを言った。おまえは病気の翼を治すために、薬師の私へ預けられたのだと。病が癒えて飛べるようになれば、家に帰れると言ってしまった。やっと泣きやんでくれてほっとしたさ――望みのない期待など、抱かせるべきじゃなかったのに。若かったんだな。つい口走ってしまった。結局あの約束は果たせそうにない」

「やっぱり、おまえの腕でも難しいのか」

「生まれつきの異常なんだ。傷を癒やすようにはいかない。レムの肉体自身が、正常な形を知らないことには……。だというのに、五年も経っても、あの子は一途いちずに私を信じているらしい。しかしね、クルト――私にはどう頑張ってもそんな霊薬は作れそうにないよ」

 溜息が自嘲の笑いに変わる。閉じたまぶたの裏側に、先ほど見たレムファクタが――大粒の涙を流し、ひどく傷ついた表情のレムが現れた。それはすぐ、波打つ美しい金髪を持つ、悲壮な瞳の女性に変わる。

「――あのリュート楽師も、期待させたぶん落胆は激しいだろうな。この四日、それなりに努力してみたが……。みんな初めから、私を頼るべきじゃなかったんだ。まったく、私は何もかも駄目だよ」

「やっと本音を吐いたな」

 頭を抱え、うなだれている親友の隣に、クルトもどかりと腰を落とした。

 そのまま彼はテュエンに飲みかけのコーヒーを勧めてきたので、思わず苦笑して断る。天井近くの細い明かり窓の外に、街路で遊ぶ近所の子らの声が近づいては遠のいた。

 壁時計の秒針がチクタク穏やかに時を刻む。クルトは落ちていた薬草くずを拾って、指先でもてあそびながら言った。

「故郷にいれば、部族の掟でレムは殺されていたんだろ? 奇形でも生きてられるのは、おまえのおかげじゃないか。傍目に見ても良い子に育ってると思うぜ。もし俺が預かってたら、娼館のなじみに世話を丸投げするか、わがまま放題のガキ大将に仕上げるのがやっとだったろうからな」

「…………」

「一応言っておくがなぁ、俺はおまえが戻ってから何度も助けられてるんだぞ。それに近所の連中だって、この店にはかなり感謝してる。それは間違いない。とくに主婦連中がな」

「……氷冷結晶か」うつむいたまま、テュエンは思い当たってすこし笑む。「あれは一般家庭にも手が届くよう、安く製作できるよう工夫したからね」

「そうそう、それだ。おかげで野菜や菓子なんぞの保存がきいて大助かりだと、魅力的な中年女性たちがよく井戸端会議で喋っておられる」

「衛士の仕事は暇なのかい? 納税者はこっちだ。真面目に働いてくれ」

 大きく笑ってクルトはテュエンの肩を叩いた。叩かれたほうはウッと呻き、肩をさすりながらまた嘆息する。だがその息は先ほどまでの重苦しさが消え、諦観まじりの軽さがあった。眉尻を下げて、テュエンはぼやいた。

「けれどね、あの楽師の依頼には本当にまいってる。恨むよ、クルト。先日のあのようすじゃあ、風信鳥を失ったとき彼女は自殺さえしかねない。それに鳥の持つ伝言だって、もしも悲惨な内容だったりしたら……」

「そのあたりは心配するな。俺がなんとかする」

「……へえ?」

 考えるよりも先に身体を動かす傾向の強い友人だ。あまりに自信満々に答えたので、テュエンは「そうかい?」不審げに隣をうかがった。

「大丈夫、大丈夫。本人だって難しいのはわかってると言っていたし、軽率なことをする年齢でもないだろう。鳥籠の修復がうまくいかなくても、俺は彼女に感謝のキスをされそこなうだろうが、おまえの気にするところじゃない」

「……いや、やはり私には、きみは楽天的すぎると思えるけれど」

「俺を信じろって。任せとけ」

 クルトはもう一度強く保証し、壁時計を見上げてオッと驚いた。残りのコーヒーをひと息に流しこんで立ちあがる。油を売りすぎたらしかった。

「とにかくおまえはできる範囲の処置をしてやってくれ。彼女に必要なのは、恋人のためにやるだけやったという実感なのさ。あの人の恋人だった作曲家は、たいした男だったよ」

「恋人を知っているのか? クルト、きみは……」言い方に引っかかりを覚え、テュエンは親友に目をすがめる。「彼女にも私にも、何か言っていないことがあるのかな?」

「まあな。だから余計に考えすぎず、おまえは仕事してろ」

 クルトは肩越しに片目をつむり、壁に立てかけていた剣帯を慣れた動作で腰に巻きつける。たったの三歩の大股で、ドアを開けて去って行った。

 風が衛士の名残を追っている。腑に落ちず、テュエンはつかのま考えを巡らせてみたが、やがて首を振って立ちあがった。腰を伸ばしてローブのほこりを払い落とす。

 二階に上がると、狭い居間のテーブルで、レムの昼食がまだ手つかずで残っていた。冷めたベーコンとチーズをサンドイッチに作りかえ、熱い紅茶をポットに入れる。目についたこぶりの林檎ふたつも共にバスケットへ放りこみ、三階の寝室へ向かった。

 屋根に開いた天窓のむこう、空っぽの青空を背景に小さな影が背中を丸めている。テュエンはバスケットを抱えなおすと、頭上に軽く声をかけた。それから紅茶をこぼさぬように、一段ずつ慎重に梯子はしごを登っていった。

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