第64話二人の距離
「さて、どうするか?」
俺はアリスに視線をやった。無論アリスの方も分かっているだろう。ここで糸鬼を駆逐しても根本的な解決には至らない。古洞さんの自責の念が有る限り、何度でも憂き世に顕現してしまうのだ。そこをどうするか……と云う話になると綾花の方が得意なのだろうが、今は居ないしな。であれば後刻聞いた方が良いのか?
「そっか。工藤さんは……死んだのか……」
ポツリ。古洞さんが呟いた。死んだ。そうだ。確かに死んだ。干渉の出来ないところまで言った。別にソレは憂うべき事柄でも無い。涙は流しても、その悲しさが当人の価値だろう。さて、そこでソロバンを弾くわけだが、
「観柱ヨハネくん?」
「何か?」
「アレは私の鏡で、傷つけはするけど殺しはしないんだよね?」
「仮説の段階だが……そう相成るな」
「そか」
何を納得したお前? すこし怪訝に眉をひそめる。けれども古洞さんの表情には悲哀の色が薄れていた。代わりに増した色合いを、人は何と呼ぶのだろう。
「なら、大丈夫。私がケリを付けるよ」
「痛いぞ?」
糸鬼の斬撃だって、古洞さんの自責の念の分だけ、彼女を傷つける。しかも暗示を伴って。そこまで分かっていない……はずもないか。散々受けた糸であろうしな。
「死ね……死ね……死ね……」
パシュッ。パシュッ。パシュッ。
糸が古洞さんを襲う。けれど決定打には至らず。そうならないように甘えているのだから、ごく自然の理ではある。自責の思念と自殺の願望は、必ずしも並列しない。
「本当に……殺せないんだよね」
こと俺やアリスなら普通に殺害レベルの糸を放つが、古洞さんには掠める様にしか攻撃をしないのだ。表面上は血だらけだが、それでも怪我以上の物ではない。
「…………っ」
げぇ、と古洞さんが胃液を吐く。すでに胃には何も残っていないらしい。単なる胃酸だけが、吐き気によって逆流していた。
「じゃあ。行ってくる」
古洞さんはソレだけを言って、糸鬼に歩み出した。力強い一歩。そこからさらに踏み込む。一歩。また一歩。嘔吐きながら、ソレでも進む。糸は更に古洞さんを切り刻み、自責の念を暗示に乗せて叩きのめすも、なお古洞さんは止まらない。
「今更ながら遠い距離だよね」
誰と。何が。ソレは言われずとも分かる。
「死ね……死ね……死ね……」
糸鬼の糸は、殺し能わず。言葉と行動の乖離性は、ある種のアンビバレンツだろう。
「はは。鬼になっても我が身が可愛いんだね……私は」
苦い声が、結界内に響いた。
「誰に対する慰めなのか。なのにこんなにも詭弁で。だからきっと、これが私の私たる本質……でもあるのかな?」
そうだな。自慰行為でも最上級だろう。別に悪いとは言っていない。誰だって我が身可愛さを持て余している。あくまで古洞さんの場合は極端に奔りすぎただけで、普通に誰しもやっていることだ。その間隙に、鬼は住まうのだ。
「死ね……」
「死にたくないよ」
鬼の言葉を真っ向から否定する。いや、正確には否定した気になっていた……が正しい。確かに其処に在る以上、糸鬼は古洞さんの心そのものだ。自分で自分を乗り越える……といえば聞こえは良いが、要するに防衛機制だろう。その辺は……まぁわりかし俺やアリスにも分からないじゃない。
「死ね……」
「死なない」
パシュッ。パシュッ。パシュッ。
暗示。思念。自責。
嘔吐く古洞さん。けれど足は止まらなかった。血涙を流す虚空の瞳は何を見ているのか。工藤さんの皮を被った自責願望は何を思っているのか。本当の意味で分かっているのは……やはり古洞さん以外に居はしない。
「ごめんね私」
そして零距離。古洞さんは糸鬼を抱きしめた。
「こんなにも辛い思いを残して。きっとソレだけ工藤さんとの距離が遠すぎたんだね」
ギュッと。力強く。
「死ね……死ね……死ね……」
「うん。死のう。心は殺せないけど、罪深い私を殺そう」
「――――――――」
糸鬼は、脱力した。それが何に起因するか。それは俺には分からない。
「工藤さんとの距離は遠いけど、私との距離は何時でも一緒」
だから、と古洞さんは言う。
「私は私を殺す。自殺じゃないよ? 私の中の泣き虫を殺す」
血涙。そう。何時だって糸鬼は泣いていた。
「だから大丈夫。本当に私が私を罰する必要は無い。だって貴方も私なんだから」
糸が止まった。完全に静止した。
「いい子いい子」
その糸鬼の……頭を撫でる。まるで幼子をあやす様に。けれど全ては自分一人で完結し、だから全ては工藤さんの遺した産物でもあった。
「許せないよね。工藤さんを奪った鬼が。状況が。運命が。世界が」
「死ね……死ね……」
「だから一緒に願おう。死して尚、安らかでありますように、と。私が思う様に、貴方も工藤さんを思っているのだから」
――だって私たちは一緒だし。
そうポツリと付け加えた。
「死ね……死ね……死ね……けれど……」
血涙。
「死にたくない……」
「うん。私も」
結局のところ他に結論はなくて。失ったものは涙で補填するしかなくて。だから泣いていたのだろう。古洞さんも。糸鬼も。心が悲鳴を上げる……の典型例。そうあるからこそ、工藤さんとやらは冥福を祈られる。祈ることが出来る。
「大丈夫。私が私を罰しなくても、私は私を罰せる。能うよ。保証する」
「死にたくない……死にたくない……死にたくない……」
「うん。うん。うん」
きっとソレが本音で。それ故に工藤さんを殺されて今まで逃げ続けたわけで、だからこれはそんなお話。今もまだ死者の工藤さんから、古洞さんは逃げ続けているのだろう。その魔の手から振り切る様に。これは一朝一夕では解決出来る問題ではない。これからも古洞さんは逃げ続けなければならない。けれど自分を傷つける事だけはしない。そんなことに意味は無いんだから。だから糸鬼の顕現もコレで終わり。
「本当に……?」
「うん。一緒に悩もう。一緒に逃げよう。そしていつか受け入れられる様になったら……工藤さんのお墓に会いに行こう。二人の距離はとても遠いけど、人は死んで名を残す」
ソレも事実だ。
「うん……そうだね……」
そして糸鬼は薄れていった。安堵の声を、ただ遺して。ヒュッと風が吹いた。夏を思わせる風だった。
「大丈夫か?」
「平気。きっと……観柱くんが思ってるよりは傷ついていないよ。だってアレは私だったんだから。だから大丈夫。あの工藤さんの死に顔を忘れることは一生ないけど……それが重荷になってもしょうがないし」
そういう古洞さんの顔は晴れやかだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます