第62話鬼の糸
コレで全てが終わった。そう観柱ヨハネくんは言った。実際に工藤さんの鬼は駆逐された。そこに救いを求めるのか。未練を露わにするのか。私としては冥福を祈りたい。けれど鬼は確かに工藤さんで。なら私こと古洞は、ソに相対する結末を迎えるべきだったのか。分からないことだらけだ。もっとも分かりようもないのだけど。
裂傷は少しずつ癒えていた。浅く傷つけられただけ。血も止まったし、痕にもならないそうだ。それでも切り裂かれたときの思惑はあまりに過激だった。
「死ね……死ね……死ね……」
そんな意図が溢れ出すかの様。どこか心に刺さる斬撃。
「工藤さん……か」
何を残したのか。何を遺したのか。ソレすら分からなかった。空洞の瞳から有毒廃液の様に流れ出す血涙を思い出すと背筋が凍える。それほどまでに圧倒的だった。
曰く、「鬼」と言うらしい。
観柱くんや死袴さんによると。別に秘密にしなくても良いらしいが、「友達が減るぞ?」とは忠告された。まぁ理屈は分かる。実際に死者に襲われたなんて話したら、どう考えても黄色い救急車の出番だ。南無三。
「鬼……ね」
夏風が吹いた。気温もやや高くなり、それなりに暑さ対策を講じる日々。別段ソレ自体は良くとも、どこか風には寒さがあった。ヒュッと体感温度が下がる。
「――――――――」
夏の風……と思うには別の心当たりが大きすぎた。
「――――――――」
ルオ……と血風が吹く。鉄の匂いが鼻腔を刺激した。血。その香り。
「まさか」
気付けば時間は夕方。観柱くんが言っていた。夕暮れの時期は逢魔時と呼ばれ、人の世と鬼の世が交錯する時間帯だと。天狗にさらわれる……とは日本古来の言い方。だからこそ日が暮れる前に子どもは家に帰るものだ。まるで淀んだ空気。気付けば音は静寂へと切り替わり、人の営みを感じない。何かが変だとは思う前に、
「――――――――」
呪詛を吐き出す言葉が勝った。
「死ね……死ね……死ね……」
工藤さんが……そこに居た。
「なん……で……?」
困惑。他の思考は選べなかった。無明の瞳から血涙を流し、工藤さんはこちらに殺意を向ける。
「ひ――――!」
逃げようと反射的に背を向ける。そこに絡まる様に糸が拘束する。転げて擦り傷を作る。
「死ね……」
糸が奔った。パシュッと頬に切れ目が入る。糸の斬撃。細い面積による摩擦の現象。
「死ね……」
ドクンと言葉が染み入る。工藤さんを見捨てて逃げた自分とか。工藤さんを生け贄に生き汚く存在する自分とか。死者に涙するばかりで償いを行なえない自分とか。そんな後ろ向きの……必死に目を逸らしていた感情がわき上がる。
「憎んでる……の?」
「死ね……」
工藤さんを模した鬼は、やはり殺意以外にとれるところはなくて。
「工藤さんは死んだはずだよ!」
実物として死んでいる。そして鬼となって迷ってからも殺されたはずだ。では此処に居る工藤さんは一体何某か?
「――――――――」
ヒュッと工藤さんの指先が振るわれる。パシュッと更に裂傷が出来た。
「死ね……」
「そんなにも恨んでいたの? 世界に背理しても……私に復讐したいの?」
パシュッ。パシュッ。さらに切り傷が付けられる。その度に自己嫌悪が強烈に働いて、私は嘔吐した。本当に……なんて無様。
「お前は死ぬべきだ……」
「死ぬべきだ……」
「死ね……」
ヘドロの様な感情が糸からもたらされる。裂傷自体は大したことがないけれど、そこから何故か最悪の思想が流れ込んでくる。死ぬしか無いのか。それでしか工藤さんにお悔やみ申し上げられないのか。贖罪を自分の命で支払わなければならないのか。
「う……えぇ……」
胃液が逆流する。吐瀉物は道路を汚した。けれどそれ以上に思考が混濁している。濁りきってとても正視できる物じゃない。
死ね……死ね……死ね……。
まるで憎悪が流入する様に、催眠術かと疑うほどに、私の心を侵食する。
「死にたくない……死にたくない……いや……だよ」
死ね……死ね……死ね……。
けれども。ああ。死ぬことだけが工藤さんのためになるなら。
「これは罰なのかな?」
斬撃。斬撃。斬撃。
「痛い……」
チクリと刺す様な斬撃。嬲るつもりか。それにしても殺意と並列しないのだけど。
「死ね……」
グイと首もとに糸が奔った。ギュッと締め付けられる。
「えぇ……ぇえ……」
嘔吐く私。あまりの心的負荷は、それだけで思考を不明瞭にする。貧血にも似た酩酊感。グイと首を糸が絞める。そこから流れ込む鬼の意図。
――死ね。
さっきから工藤さんはソレしか言っていない。ソレだけが行動原理で、ソレだけが存在意義なのだろうか?
――死ね?
――でもどうやって?
「殺しては……くれないのね……」
「――――――――」
殺意に満ちた吐息。けれど事ここに於いて尚、工藤さんは私を殺し能わず。
――それが何か?
を悟るより早く、
「やっぱりこうなったか」
別の声が聞こえた。私でない。工藤さんでもない。けれど聞いたことの在る声。
「……っ……えぇ……」
嘔吐しながら、そちらを見やる。大層な美少年が居た。ついでに美少女も。
「――ウォータージェット――」
糸が断ち切られる。それだけで心が軽くなった気がした。
「観柱……くん……?」
「御苦労なこってすな」
観柱ヨハネくんはこっちに苦笑を混じらせて微笑んだ。それがとても力強く、また慈愛に満ちていた。まるで……ではなく……真面目にデウスエクスマキナだった。
「死ね……」
ヒュンと工藤さんが糸を飛ばす。それは観柱くんに絡まって、
「――――――――」
キュイッと引かれるも、
「ま、意味は無いわな」
糸の斬撃は観柱くんを傷つけ能わず。
「にしても……苦労人だねお前様。工藤さんとやらもあの世で号泣しているだろうよ」
その工藤さんが此処に居るんだけど。私を殺そうとしているんだけど。鬼になって浮世に彷徨っているんだけど。生け贄を求めているんだけど。
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