74.……は猫になる

 現在、私の目の前にはわけの分からない光景が広がっております。きっと、これをカオスな光景と言うのでしょう。でも、どうしてこうなったかとは私には言えません。えぇ、言う事ができません。言う資格が無いのです。


「にゃ~? うにゃ?」


「あぁ……あぁぁ……あああぁぁぁぁぁ……!! 良い!! 良いですわ!! 何なんですのこの感情は?! 良すぎて鼻血が出そうですわ!!」


「にゃッ?!」


「あぁ、ごめんなさいごめんなさい、驚かせてしまいましたね……怖くないですわよー、ほーら、撫でてあげますわよー」


 その決して小さいと言えない身体を内側に丸めて、まるで猫の様に目を瞑り、クシクシと片手で顔をかいているのは……何を隠そうディさんです……。元勇者です。その面影はどこにもありません。


 そしてそのディさんを無理矢理に膝の上に乗せてご満悦なのはマーちゃんです……。恍惚とした表情を浮かべて、今にも宣言通り鼻血を吹き出しそうです。


 最初はディさんの重さにプルプル震えていたんですけど、今は身体強化魔法を使ってまで膝の上に乗せて耐えています。……まぁ、気持ちは分からないでも無いですが。


 そしてその周囲では、嫉妬にかられた魔狼三匹さんがマーちゃんの周りをグルグル回っています。特にマディなんかは、露骨にディさんに敵意を剥き出しにして、マーちゃんの膝の上の取り合いをしています。


「にゃっ!!」


「ぎゃうっ!!」


 かつての勇者が魔狼の子供と膝の取り合いをしています。困った様な笑顔を浮かべるマーちゃんですが……実際には全然困ってませんね……。喜んでます。


 とりあえず、あとちょっとで交代なのでそれまでは彼女の好きにさせて私はこの光景を眺めるだけに止めます。


 当然、私もディさんを膝に乗せる気満々ですよ?


 いや……どうしてこんなカオスな光景になったのかと言いますと……まぁ、私が原因なんですよね。でも、私は悪くないです。悪くないと言い張ります。


 ディさんは今、催眠魔法にかかっています。それも「猫になる」催眠魔法です。


 なんでこうなったかと言いますと……ディさんのある一言がきっかけでした。


『そういえばさ、催眠魔法ってかかったらどんな感じなんだろうな、意識はあっても制御できないとか?』


『試してみます? 私、使えますから。試すなら無害なやつにしときますよ』


『そうだな……今後もしも使える奴が出てきたら……対抗手段を考えておく必要があるし、どういうのが催眠の感覚なのか知っておいた方が良いかもな……やってみてくれ』


 こういう流れで、私はディさんに『あなたは猫になります』と言う催眠をかけたわけです。


 ね? 私は悪くないですよね。ディさんから提案してきたんですから。うん、私は悪くない。目を合わせて魔力を練って増幅して、今の私にできる最大限の出力で催眠をかけてみましたけど、私は悪くないです。


 ディさんも最初は抵抗していたんですけど、抵抗虚しく今はあの通りです。


『負けない……俺は負けないぞぉぉぉぉ!! 負けない……にゃあ!!』


 流石、元勇者と言うべきか……あっさりと催眠にかかることは無くかなりの抵抗はしておりましたが、おそらく初めての催眠魔法と言う事で抵抗しきれなかったんでしょう。ディさんの想像する猫の姿になりきってしまっています。


 最初は私に飛び掛かってすりすりと頬ずりをしてきたわけです。どうやらディさんの考える猫像は人に甘える猫と言う事の様で、いや、ほんとに焦りました……いきなりあの身体でのしかかられて……マーちゃんが居なかったらどうなっていたか……。


 このディさんを外に出すわけにはいかず、とりあえず催眠魔法が解けるまでは私達は今日は部屋に籠ることに決めたわけです。たぶん、今の私の催眠魔法なら……一日は効果が持続するでしょう。


 だから私とマーちゃんはこの状態をいっそ楽しんじゃうことにしたわけです。普段は絶対に見せない全力で甘えてくるディさんを全力で甘やかす……それを交代で行っているわけです。


「堪能しましたわー……ルーちゃん、お次どうぞ」


 心なしか顔を艶々とさせ、満面の笑みを浮かべたマーちゃんが膝に乗せたディさんを両手で抱えていました。本当に猫を抱えているようです。私はディさんを受け取ると、同じように膝に乗せます。


「にゃあ」


 ディさんは一声だけ鳴くと大人しく私の膝の上で丸くなります。とりあえず、私も全力で身体強化魔法を使います。たぶん、世界で一番無駄な身体強化魔法の使い方だと思います。

 猫になりきった男性を撫でるためだけに使う強化とか、やるのは私達くらいでしょう。


 マーちゃんは魔狼さん達を構っています。特にマディは勝ち誇ったような顔をして膝の上に陣取っていました。交代の時間になれば、また攻防が発生することでしょう。


「ディさーん、気持ちいいですかー?」


 とりあえず、私はディさんを撫でるとディさんは喉を鳴らす代わりに気持ちよさそうな顔をして目を瞑っています。

 ディさんの身体は……傷が多いです。肌を直接撫でているわけでは無いので分かりませんが、肌の服の上からでも引っ掛かりを感じます。回復魔法を使っても跡が残ってしまった古傷なのでしょう。


 上半身裸だったときは恥ずかしくてはっきり見ることができませんでしたが、触れるだけで痛々しい気がします。その古傷の部分に回復魔法を使いますが、何も変わりません。


「無茶しすぎなんですよディさんは……これからは、もうちょっと私達にも甘えてくださいね」


 私が眉を顰めながら優しく撫でていると、ディさんが不意に顔を上げました。少し撫で方を間違えてしまったでしょうか? それとも、古傷を触ったことで痛みが発生してしまったのでしょうか?

 いや、痛みならもうちょっと反応が激しいはずです……。彼は首を傾げながら私の顔に自身の顔を近づけてきて……って近い近い近い!!


 ゆっくりですが、確実にディさんは私に顔を近づけてきています。そして……よく見るとディさんは舌を出していて……。


 これもしかしてあれですか、猫が飼い主の頬をペロッと舐めるってやつですか?


 ちょっと待って!! 心の準備ができて無いしここにはマーちゃんがいるし!? マーちゃんは気づいて……いないですね、魔狼さん達につきっきりです。

 ……じゃあ……ちょっとだけ、ちょっとだけならいいんですかね……? 抜け駆けになりませんかね?


 声を出そうとしても出せずにいる私に、ゆっくり少しずつ……顔が近づいてきて私の頬にディさんの舌が……。思わず私は目を瞑ります。頬と耳が熱く、たぶん私の顔は真っ赤になっていることでしょう。

 両手を握りしめて肩をいからせて目を瞑り……私は覚悟を決めてその瞬間を待ちます……。


 ……待ちます……待っているのですが……いつまで経っても何も起きません。


 しかし、息遣いだけは近い事が分かります……そして……。


「うがあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 解いたぞおぉぉぉぉぉ!!」


「きゃあああああぁぁぁぁぁぁぁぁ?!」


「な……なんですの?!」


 私の耳元でディさんの大声が響き渡ります。そのあまりの大声に思わず私も悲鳴を上げてしまいます。耳の中でキーンと言う音が鳴り響き、思考がグルグルと回ります。えっ?! 解いたって……催眠魔法を?!

 マーちゃんもその大きな声に驚いて、私の方を見ています。私は目を開き、声の主……ディさんに視線を移しました。


 彼は先ほどまで丸まっていたのが嘘のように私の目の前で仁王立ちしています。


 突然の叫び声により驚いた私もマーちゃんも、そして魔狼さん達も目を丸くしてこっちを見ています。


「どうだぁ!! ルー!! リム!! 自力で催眠を解けたぞ!! 滅茶苦茶に体力も魔力も消耗したけどな……いや、疲れるなこれ……」


 その言葉と同時に全身から汗を吹き出したディさんはその場に座り込んでしまいます。肩で息を切り、息も絶え絶えになってしまいました。

 ……驚きました……まさか私の催眠魔法をこんなに短時間で解除するなんて……催眠をかけてから半日程度しか経過していないのに破られるとは予想外です。


「凄いですディさん、まさか私の魔法がこんなに早く破られるなんて……」


「ディ様凄いですわ!! 本音を言えばもうちょっとあの状態でいて欲しかったですが、それでも半日堪能できたので私は満足ですわ!!」


 マーちゃん、欲望が洩れすぎです。でも私もちょっとだけ惜しかったですね。まぁ、あの状態の記憶はディさんには無いでしょうけど……もうちょっと甘えててほしかったです……。


 そう考えていたら……ディさんが露骨に私達から顔を反らしています。


「ディさん……?」


「ディ様……?」


 そのまま部屋の隅にディさんは這うように移動すると、膝を抱えて座り込みます。私達からはそっぽを向いたままで。私達は不思議に思いながらも、彼のその動作を見守ります。


「……まさか……ディさん……さっきまでの自分の行動……全部覚えています?」


 よくよく考えたら私……ディさんに猫になるって催眠をかけたんですけど……その時に細かい設定はしていなかったんですよね……催眠の時の事は覚えていないって、してなかったかもしれません。

 マーちゃんは私の方とディさんの方を交互に見ています。そして……ディさんは顔だけを私達の方へと向けると、一言だけぽつりと呟きます。


「……さっきまでの俺の行動は全部、忘れてくれ……」


 そしてまた、プイとそっぽを向いてしまいます。その姿を見て私とマーちゃんはお互いに顔を見合わせて……ニタリとした笑顔をお互いに浮かべます。


「ディ~さ~ん、ほら、今は私の番だから来てくださいよ~。お膝開いてますよ~?」


「ディ様~、あんな風に甘えてくださるならいつでもいいんですよの~? ほら、私の方も開いて……開いてはいませんがこっちいいらしでもいいのですのよ~?」


 揶揄う様に周囲に纏わりつく私達に対して、真っ赤になったディさんは振り払うことも無く憮然とした表情を浮かべるのみでした。たぶん、催眠魔法を解除するのに全魔力と体力を使い果たして動けない今、彼にできるのは表情で抗議することだけなのでしょう。


 でも、甘えていいというのは本心なんですけどね。私もマーちゃんも…。それが分かっているから、ディさんも強くは出られないのでしょう。


 しばらく私達の揶揄いは続きますが、やがて体力がある程度回復したディさんは勢いよく立ち上がります。拳を握りプルプルと震えている様から、流石に揶揄いすぎたかと焦る私達に、予想外の一言を言いました。


「もっと力を付けて、催眠が効かないようにしないとな……解除するのにここまで魔力と体力を消耗するのは、敗北と一緒だ」


 ちょっと誤魔化し感を感じないでもありませんが、ディさんが考えていたのは催眠魔法の解除についてでした。条件が厳しい魔法ですから警戒しすぎの様な気がしますが……まぁ、言っていることは同意です。


「ルー、明日からこの特訓も加えたい。理想は催眠魔法が効かなくなるようになるまでだな……」


 その一言に、マーちゃんの瞳が輝きます。


「じゃあ!! 明日以降も猫になったディ様を見られるのですね?!」


「いや、明日からは動けなくなる催眠で頼む……あと、リムも念のために一緒に訓練しよう」


「……そうですか」


 がっかりした表情を浮かべるマーちゃんですが、私もちょっと残念です。猫ディさんはしばらくはお預けのようです。……こっそりかければバレないですかね?


「わかりました、猫になる催眠じゃなくて動けなくなる催眠にしときますね……」


「……もうやらないからな」


 私の言葉に嘘を感じたのか、ディさんは私に釘を刺してきました。そう言えば、嘘は分かるんでしたねディさんは……ここは大人しく動けなくなる催眠だけにしておきましょうか。


 結局この後、猫になるディさんを見ることはできないのでした……まぁ、催眠魔法はあまり好きじゃないので、一回だけでもあのように甘えてくるディさんを見られたということで、私とマーちゃんは満足することにしました。


 でも、たまには見たいからディさん、たまにやりません? ……あ、やっぱり駄目ですか、嫌ですか……そうですか……わかりました……諦めます。

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