70.勇者は風邪を引く
一段落する……それはとても素晴らしい事だ。人はどんなに辛い事があっても、それに終わりが来るが分かっていれば、それに向かって日々を頑張れる。
だけど、終わりが見えないこともある。そんな日々でも人は頑張らなければならないが……頑張ることが絶え間なく続いてしまっては身体も心も消耗して、それは頑張りではなく無理になってしまうことがよくあるのだ。この頑張りと無理の境界線は、他人から見ても気づかない場合が多く中々に難しい。
無理をしている時の見分け方は、日々の消耗に回復が追い付かないという状況と言うのが俺の中での考え方なのだが……その消耗に気付かないことの方が多いのが実情だ。せめてこの世界が体力や魔力の消耗を数値で認識できれば便利なのだが、そう言うものは無いのが残念だ。どこかで研究している研究者もいると聞いたことはあるが、実用しているという話は聞いたことが無い。
話を戻す……日々の消耗を自覚できずに、自身が無理をしていたんだなと思い知るのは……大体がその「一段落」をしてホッと一息ついた時になる。
今までやっていたことが終わり、気が緩んだために疲れをやっと自覚するからなのか、それとも身体が自己防衛として一段落するまでは無理が表面化しないようにしてくれているのか……。俺はベッドの上でそんなことをぼんやりと考えていた。
そんな、ぼんやりとした俺の耳に女性の声が聞こえてくる。
「今日は一日、大人しく寝ていてくださいね。それにしてもディさんもやっぱり人の子なんですね……まぁ、体調を崩すなんて普通の事ですけど逆に安心しました……」
「そういえば、旅の間では一度も見た事ありませんでしたわね、ディ様のこういう姿……。怪我をして寝込む時は痛ましくて見てられませんでしたが、風邪を引いて弱っている姿と言うのはなんとも可愛ら……いえ、なんでもありません」
俺の寝ているベッドのすぐ脇には、ルーとリムがいる。俺は彼女達に寝たままの姿勢で首だけを僅かに動かして視線を送った。彼女達の表情は俺の事を心配そうに見てはいるのだが、心なしかどこか安堵したようにも見える。特にリムはなんだかソワソワしているようにも見えた。
きっと、俺の弱った姿が珍しいのだろう……。俺もこんな姿を人に見せるのは久しぶりだ。少なくとも、旅に出てからは初めてだ。旅の最中は風邪なんて引かなかったからな……。兵士時代はたまに風邪を引くことはあってもサボるわけにはいかずに仕事に出て……上司や同僚に怒られたっけ……。
そう思うと、このような形で迷惑をかけることを心苦しく思ってしまう。おれは今、ルーとリムが作ってくれた朝食を口にして、言われるままに大人しくベッドに寝ている状態だ。
「いやー……まさか体調崩すなんてなぁ……二人とも……心配かけてすまない」
「……大事無くて良かったですよ。本当、部屋に入った時は何事かと思いました……」
「たぶん、今までの疲労が一気に来たのかと思いますけど……。もしかしたら、魔王討伐の旅をしていた時の分の疲労も気が緩んだことで一気に来たのかもしれませんね」
本当に……二人に心配をかけたこともそうだが、部屋に入ってきた二人を驚かせてしまったことを思うと、改めて申し訳なく思ってしまう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
俺が体調を崩したのは、ちょうど今朝の事だ。
……勇者として旅をしていた時と比べても、その日々に勝るとも劣らないほどにここ最近は激動の連続だった。気持ち的にも身体的にもゆっくりする間が一切なく、絶え間なく常に何かが起こっていた。旅をしていた間にもこんなに連続して何かがあったことは無かったんじゃないだろうかと思えるくらい……本当にここ最近は色々あった。
この激動の日々のきっかけは、騎士団長と王女の事を知ってしまった事だろう。あれから世界が一変した気がする。そして、倒すはずの魔王と一緒に旅をして……魔王の別荘のような屋敷へと辿り着いて、魔王の遺産を悪用していていた三人と戦った。
アルオムの町に到着してからも色々な事があった。自身の行動に対する責任の再認識や、人に何かを教えることの難しさを知ったし……。ルーともお互いの認識の齟齬を埋めることができた。
何よりも大きかったのはリムとの再会だろう……。聖女になってしまったというのも驚いたが、まさかそのリムと戦うことになるとは思わなかった。
あれはあれで自分への罰だと思うことで納得している。彼女の気持ちを受け止めて全てハイ終わりとはいかないが、一つのケジメは付けられたと思いたい。
これからもしもクロとプルに会った時にも……もしかして戦うことになるんだろうか? クロの気性を考えると戦うことは確実だろうな……。それがいつかは分からないが……少しはお手柔らかに願いたいものだ。
少し考えが逸れたので、考えを戻そう。……そんな忙しい日々だったからか、胸の中心には何かがつかえたような違和感が常につきまとっていた。とても弱い力で何かに締め付けられ続けているような、心臓の周りから緩い痛みが全身に広がるような……何とも言えない嫌な感覚がずっと存在していたのだ。
その感覚に一度でも身を任せてしまえば、嫌な気分に飲み込まれてしまい、飲み込まれたが最後何もやる気が起きなくなってしまいそうで……これまでずっと気を張りながら生活をしていた気がする。
それがやっと、気を張らなくても良くなったと言える状況になった。気分がホッとして、胸のつかえがとれて……本当に、心の底からやっと……「あぁ、一段落したんだなぁ……」と実感した。
昨晩はそれを実感すると同時に身体からは力が抜けて、ベッドの上に大の字に寝転がった……。何もしたくないのではなく、何もしなくてもいいんだという事実に心の底から安心して、張り詰めた気分をゆっくりと解きほぐしていった。
溜め息のような大きな深呼吸をして……そうして気を緩めてしまった結果……俺はそのまま眠ってしまった。毛布も掛けずに、無防備に何の準備もせずに寝てしまったのだ。
大の字になって寝転がっていたベッドの上でいつの間にか眠ってしまっていた俺は、浅い眠りから覚醒した時に喉の奥に違和感を覚える。痛くは無いのだが、何か変なザラザラしたような感覚がある。ここ最近は無かったその感覚が良くわからずに、俺はそのままベッドの上で改めて二度寝する。
毛布が体にかかっていなかったので、今度は毛布を体に巻き付けるようにして寝たのだが……朝起きると喉の違和感は完全な痛みに変わってしまっていた。
「あー……うーん……」
確かめるように自分の口から言葉を出すと、明らかにいつもの自分の声とは異なっていた。かすれたようなしゃがれたような、まるで他人の声色の様な自分の言葉を聞いていた。完全に油断した……俺は風邪を引いてしまったのだ……風邪を引くなんて何年ぶりだろうか。
ベッドから上半身を起き上がらせると全身に寒気が走る。その寒気に全身が震えてしまったため、改めて毛布をかぶり直すが……いや、これはまだ風邪の初期状態なのだから、気の持ちようで何とかなるのではないかと一気に起き上がった。それが良くなかった。
勢いを付けたまま立ち上がり、飛び降りるようにベッドから下りたところで……急激な動きからか眩暈を起こしてしまい、運悪くそのまま足を滑らせ……うつ伏せの状態で倒れてしまう。
風邪なんて久しぶり過ぎて、自分で思っているよりも体調が悪い事に気付けていなかったようだった。
そのタイミングで……俺の部屋の扉が開かれた。
「ディさん、おはようございます。起きてます……か……」
「ディ様……お目覚めで……しょう……か……」
可愛らしい寝間着に身を包んだ二人が部屋に入ってくるなり見たのは、ベッドの傍で倒れている俺の姿だった。その光景を見た二人が、息を呑むのが伝わってくる。いや、単に足を滑らせただけなのだが、二人は大慌てで俺の傍によると俺を抱きかかえながら起こしてきた。
「ディさん!? 何があったんですか?! 敵ですか?! 敵に襲われたんですか?! って言うか敵って誰ですか?!」
「ルーちゃん落ち着いて!! 外傷はありません!! もしかして何か重篤な病では?! その土地特有の特殊な病気かもしれません、ディ様が倒れるなんてよっぽどの病気ですわ!!」
二人は有無を言わせずに協力して俺をベッドの上へと戻すと、俺が何かを言うよりも動き出していた。
まずはリムがストゥリさんを呼んでくると言い出して部屋から大急ぎで出ていった。そして、次の瞬間にはルーはパイトンさんの元へと俺が倒れたという事を伝えるべく部屋から出ていった。通信用の簡易魔道具があることを忘れていることから、よっぽど慌てていたのだろう。
……倒れたのは単に足を滑らせたと言い出しづらくなってしまう。あっという間に二人のいなくなった部屋で、動くのも億劫になってしまった俺は俺はそのまま大人しく寝て二人の帰りを待つことにした。確かに体調は悪いので、俺はそのままベッドの上にごろんと寝転がる。
そのまましばらく二人を寝て待っているのだが、中々二人は戻ってこなかった。逆に何かあったのではないだろうかと……上半身だけを起こして探しに行こうかと考えていた矢先に部屋の扉が勢いよく開く。
そして部屋にはリムに連れられたストゥリさんが、ルーに連れられたパイトンさんが来てくれた。全員が深刻な顔をして俺の方を見ていた。二人とも、どんな説明をしたのだろうか。
ストゥリさんはその手に医療道具を大量に抱えており、パイトンさんは寝間着姿のままだった。本当に申し訳ない。確かに体調は悪いんですが、倒れてたのは滑って転んだだけなんです……余計に言い出しにくいが、言わないわけにはいかないだろう……。
「ふん……倒れたと聞いて飛んできたぞ……どれ、診察してやろう……」
「……朝早くからすみません、ストゥリさん」
「ふん、気にするな。儂は医者の本文を全うするだけじゃ。どれ、見させてもらうぞ」
ストゥリさんはそう言うとベッドの上の俺を診察し始めてくれた。医療器具と言うのは初めて見たが、魔法の道具とかもあるのだろうが? 様々な見た事もない器具を使っての検査を彼は俺にしてくれた。
念入りな検査をしてくれた結果……ストゥリさんが出した結論は、俺は深刻な病気では無いというものだ。当然と言えば当然なのだが、俺もその診察結果にホッとした。
「ふん……たぶん過労じゃろう……顔色も良くない。張り詰めた緊張が解けたことで一気に疲労を自覚したのだろうな……今日だけじゃなく、数日は栄養のある食べ物を取って大人しく寝ていると良い。幸い、時間はたっぷりあるんだ、無理をする必要は無いわ」
その言葉に、周囲の者達はホッとした表情を浮かべていた。リムとルーは俺が倒れていたことをストゥリさんに告げて何か重篤な病気ではないかと詰め寄るのだが……深刻な病気の初期症状は見て取れないことから、ストゥリさんは問題ない事を二人に伝える。
なかなか納得しない二人ではあったが、専門家の意見に合わせて、俺がただ単に眩暈がして足を滑らせただけだという事を告げると渋々ながら納得してくれた……。しかし、今日は一日ずっと寝ているように二人からはきつく言われてしまった。
その後、ストゥリさんは何かあればすぐに来るからいつでも呼んでくれて構わないとだけ言い残して、自分の家へと戻って行った。朝から急に呼んでしまい本当に申し訳ない……。今度、体調が治ったらお礼に伺います。
パイトンさんもただの過労だという事から安心したように笑顔を浮かべると、自分達のために無理をさせてすまないと俺に対して謝罪をしてくる。これは疲労の蓄積俺の自己管理の問題なのだが……それでもとパイトンさんは俺に頭を下げてきた。
そのタイミングで、身体の調子は悪いが、食欲はそこまで落ちていないのか……ちょうど俺の腹が少しだけ鳴った。その音を聞いたパイトンさんは、頭を上げて朝食を用意させようと笑いながら部屋から出ようとしたタイミングで……ルーがパイトンさんに声をかけた。
「ディさんの朝食、私に作らせてくれませんか? 私も良く作ってもらった病人食を作ってあげたいんです」
その言葉を聞いたパイトンさんは喜んで了承してくれたのだが……その言葉に驚きの声を上げる者がいた……リムである。
「ルーちゃん……料理……できるんですの?」
その表情はリムの綺麗な顔立ちからは想像もつかないほどに驚愕に彩られており、目を見開いてルーの方を凝視している。ルーは何故そのような事を聞いてくるのかわからずに首を傾げるのだが……俺にはその理由が分かった。
端的に言うとリムは料理ができない……。いや、正確には料理はできるのだが……世間一般から見るとかなり下手な部類に入る。それを下手と言って良いのかは躊躇われる部分もあるのだが、旅の最中は料理をすることは俺やクロの担当としたくらいだ。
ちなみにプルは料理をする気が全くないので、手伝いくらいしかしてこなかった。あれはあれで潔い対応だと思う。
「できますけど……マーちゃん……もしかして……料理できないんですか? できそうなのに……」
「……いえ……私も料理はできるんですよ……できるんです……できるはずなんです……」
後半に行くほどにリムの言葉は小さくなっていく。確かに彼女は料理はできるのだが……何と言うか、倹約の精神を料理でいかんなく発揮してしまうのだ。それは彼女の今までの生活習慣からなのか、それとも彼女自身の気質なのかはわからないが、とにかく彼女は料理に対してはいまいち的が外れてしまっている。
例えば食材なら……普通ならば捨てる場所も料理に使おうとする、食べられない様な部位も何とか食べようとする、火を通せば食べられるだろうととにかく火を強く入れる……。食材に関しては、そのように形で一欠けらも余すことなく使おうとする。
逆に調味料に関しては、貴重と言う事もあるのか極限まで使用する量を削る。とにかく削る……。時には、これは塩を一切使っていないのではないのかと言うくらい薄味にする。食材は使えない部位まで余すところなく使おうとするくせに、調味料に関してはその真逆を行ってしまうのだ。だから相乗効果で食材の味と調味料の味のバランスがおかしくなる。
彼女は別にわざと不味いものを作ろうとしているわけでは無い。そういう意識を持っているわけでは無いのだが……どうしても料理に対してはそう言う精神が働いてしまい、結果として……少し気の使った言い方をするとあまり美味しくない料理が出来上がる。
だから俺達は心を痛めながらも……料理については俺かクロが作ることを旅の最中に告げた。……その事を告げた時のリムの哀しそうな顔をと言ったら無かった。いや、彼女の料理の欠点も一緒に告げたのだけれども……どうしても自分の料理の作り方を変えることができないのだとか。
だから彼女は、料理が作れなくなることを残念がりながらも、俺達の提案を飲んだのだ。
「じゃあ、一緒に作りましょうか。ディさんの為の料理」
そのことを知らないルーは、リムを料理に誘う。その言葉にリムは満面の笑みを浮かべて、声を出さずに何度も頷いていた。久しぶりの料理を作るという事に喜んでいるのか、それとも料理を作ることに誘われたこと自体に喜んでいるのかはわからなかった。
そして、そんなリムの満面の笑みを見て……俺は何も言えなくなってしまった。
「ディさん、少し待っていてくださいね。美味しいの作ってきますから」
そう言うとルーはリムと共に部屋から居なくなる。俺はその後姿を、ただ黙って見守るしかなかった。ルーに対して何も忠告する間もなく、二人が部屋から出ていってしまったのもあるのだが……あんなに嬉しそうな顔をするリムに対して、水を差すようなことを言えなかったのだ。
「……すまん、ルー」
しゃがれた声で俺はルーに静かに謝罪する。
それから俺は作ってくれるという朝食を待ちながらベッドの上で休んでいた。何を作っているかは知らないが……かなりの長い間、二人は戻ってこなかった。なぜ戻ってこないのか……理由には想像がついていたので俺は黙ってベッドの上で二人を待っていた。
それから更に時間が経ち……部屋の扉がゆっくりと開かれると、憔悴した表情のルーと、満面の笑みを浮かべたリムが入ってきた。ルーの持っているトレイの上には、湯気を立たせたスープの入った器と、食べやすい大きさに切り分けられた果物が乗って皿が置かれていた。
「ディさん……お待たせしました」
疲れ切った顔をしているルーは、俺に対して食事を渡してくれる。リムの方は鼻歌を歌って非常に上機嫌である。久しぶりに料理を作ったという事実がかなり嬉しかったのだろう。俺はルーに労いと感謝の言葉を伝えると、スープを口にする。
数々の細かく刻まれた野菜が煮込まれたスープで、溶いた卵がほんの少しだけ加えられていた。スプーンを入れて口にすると、優しい味わいが口いっぱいに広がり……嚥下すると温かい液体が食道を通り、空腹状態の胃を満たしていくのが認識できた。
「美味いよ、ルー、リム……ありがとう」
俺は二人に礼の言葉を言うと、二人とも嬉しそうな笑みを返してくれた。特にリムは、俺から美味いという言葉を聞いたのが久しぶりだったためかかなり大声は出さないがかなりの喜びようだった。
そんな喜ぶリムを尻目に、ルーは俺にそっと耳打ちしてくる……。
「マーちゃんと一緒に料理するの……凄い大変でした……野菜を切ったりとかは問題ないんですけど……捨てようとした野菜クズも変なタイミングで鍋に入れようとするし……調味料も塩加減を妙に少なくするし……卵なんて殻を砕いて入れようとするしで……」
……どうやら料理をしている際に妙な攻防が行われており、それがルーの消耗の原因だったようだった。リムの料理に対する姿勢は相変わらずの様だった。
「……良かったらでいいんだが、今後も一緒に料理をしてやってくれ」
「……善処します」
二人で喜びはしゃぐリムを見ながら、そっと呟いた俺の言葉に対してルーは力なく頷いたのだった。
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