21.二人の決着
勇者が叩きつけられた壁が一部崩れ落ち、その影響で周囲には砂埃が舞う中、勇者は壁に体重を預けて座ってはいたものの、意識だけは手放していなかった。
(クソッ……まともに喰らったか……。身体の状態は……)
身体を打ち付けた影響か足が動かなかったが、指先と腕は辛うじて動くような状態だった。怪我自体は多数あるが、これらは回復魔法をかければ徐々に回復するだろうと、勇者は自身の身体に回復魔法をかける。
完全に動けるようになるまでは、まだ時間がかかりそうだが、魔王はそれまで待ってくれないだろうと考えていると、目の前に聖剣を持った魔王が立っていた。
「勇者さん、私の勝ちです」
「まだ……勝負はついてねえよ……。俺は、負けてない」
強がりを言っていることはわかっていたが、それでも勇者は負けを認めない。負けを認めてしまえばすべてが終わるから、ここは意地でも認めることはできなかった。
しかし、その気持ちと裏腹に身体は動かなかった。まだ動くようになるまでは多少の時間がかかりそうだった。
魔王は肩で息をしながら、聖剣を勇者の目の前の地面へと突き刺した。当然のことながら、剣でこちらに止めを刺す気はなさそうだ。魔王の方も疲労は隠せず、顔中から汗が噴き出していた。
「……もう動けないじゃないですか。負けを認めてくれたら回復してあげます。それから、私を殺してください」
「回復してくれたら……約束を反故にして俺が勝負を続けるとは思わないのか?」
「思いませんよ。そんな人が勇者になるわけがないですから」
随分と買いかぶられていることに苦笑を浮かべるが、確かに負けを認めたうえで約束を反故にすることは、勇者にとっては忌避すべき行いだった。だからこそ、負けを認めるわけにはいかないという思いが強い。
だからこそ、今は自身の残り少ない魔力で回復をして、一刻も早く動けるようになることが先決だった。
動けない癖に意地でも負けを認めない勇者を、魔王は困惑の目で見ていた。そして……何故ここまで負けを認めないのかを疑問に思う。疑問に思った瞬間、ほとんど反射的にその疑問が口をついていた。
「……なんでそこまで負けを認めないんですか? さっき言ってた国に帰りたくないって……貴方に何があったんですか?」
目の前で座り込んでいる勇者に、魔王は問いかける。先ほど帰りたくないと言っていたが、その詳しい事情を聞いていないことに思い至り、何があれば勇者が帰りたくないなどと言い出すのか、それを知りたくなった。
上がってきた報告では、勇者は魔王を倒して帰国し、王女様と結婚することを目的としていたはずだった。それなのに、ここにきて自身の死を偽装してまで国に帰りたくないという理由は何なのか。
それを知らないままで、この戦いに決着をつけてはいけない気がしていた。
「貴方、王女様と結婚するんでしょ? だったら私を殺して帰ればいいじゃないですか。帰国したくないって、何があればそんな考えに至るんですか。答えてくださいよ」
勇者は、そこまで言われても黙ったままだった。勇者の中では勝負は終わっていないが、魔王の中では決着が着いているのだろう。だから、こうやって答えを求めてくる。
先ほどの戦闘前にその事を聞かれても、勇者は誤魔化して曖昧にしか答えなかった。言いにくかったのもそうだが、甘いかもしれないが魔王には知られたくないという気持ちが働いたのも事実だった。
でも、ここまで来ればそうも言っていられない。立てるように回復するまでは、話を継続して時間を稼ぐしかないと考えた勇者は、自身がその考えに至った経緯を説明しようとする。
「それは……」
魔王は黙って勇者の言葉に耳を傾けるが、勇者は口から言葉がなかなか出てこない自身を不思議に思った。考えてみれば、あの二人のことが発覚してからこのことを誰にも言ってこなかったのだ、話し始めれば否応なしにあの時の記憶は甦るし、そもそも、どう説明したものかも整理しきれていないのだ。
だから、勇者は経緯の説明よりもまず先に結論だけを話すことにした。それだけが整理しきれている内容だったからというのもあるし、それくらいしか口にしたくないという思いも会った。
「結婚するはずだった王女様な……俺の国の騎士団長と懇ろになってたんだよ……」
「えと……すいません、懇ろってどういう意味です……?」
「あぁ、言い方が古風すぎたか……戦士のが移ったかな……俺が不在の間にその二人が男と女の関係になってたんだよ……。その情事の最中を、俺は目撃しちゃってね……」
「……は?」
俯きながら言葉を口にしたため、魔王の表情は直接見られていないのだが、その言葉は今までで一番困惑の色に満ちていた。魔王の動揺が空気として伝わってくるようで、いったい自分はどんな顔をさせてしまっているのだろうかと怖くなり、まともに顔を見る気になれなかった。
「貴方が……魔王討伐の旅に出ている間に……王女が他の男性と?」
「……あぁ、残念ながらね」
「それを……貴方は知ってしまったのですか……?」
「ちょっと前に……偶然ね。本当に、偶然知ったんだよ」
「好きに……なっていたんですか……? 王女様のことは……?」
「俺は好きだったよ……だけど……向こうは俺の事は好きじゃ無かったみたいで……」
「……だから……貴方は帰りたくないと……?」
「帰っても他の男と一緒になっている女性だよ……だから、俺が居なくなるのが一番良いんだよ」
「…………そんな」
ぽつりぽつりと口にする魔王の質問に答えるたびに、勇者の脳裏にはあの時の光景が再生されていく。思い出したくない記憶なのに口にすると再生されてしまうのは非常に厄介だった。
初めて当事者とは無関係の第三者に内容を口にすると、一瞬、何もかもをぶちまけたくなる衝動も襲い掛かってくるがそれは何とか自制した。酒が入っていたら危なかったろうなと内心で独り言ちた。
回復が遅々として進まない状況で嫌な記憶を掘り起こしてしまい、その場で何もかもを投げ出してしまいたくもなるが、そうも言ってられない。次に魔王の言葉は何なのかと待っているのだが、最後の言葉から魔王は何も言ってこなかった。
そのまま少しだけ、二人の間に沈黙が流れる。
てっきり、矢継ぎ早に質問が来るかと思っていた勇者は少しだけ不審に思うが、こちらからは特に口は開かずに沈黙を続ける。しかし、その直後に沈黙は破られる。
最初は、勇者に耳に何らかの水音のようなものが聞こえてきた。小さいがそれは徐々に大きくなっていき、しゃくり上げるような声が聞こえてきた時に、勇者はそれが嗚咽であると気がついた。気付いた勇者は、勢いよく顔を上げて魔王の顔を直視する。
魔王が泣いていた。
その時、勇者は初めて魔王の顔を真正面から視界に映した。戦闘中に何回も見ているのに、その時が顔を初めて見た気分になる。
少し目尻が下がった垂れぎみな目は青い瞳をしており、その綺麗な青い双眸から溢れ出る涙を拭うこともせずそのままにしていた。濡れている瞳が光って綺麗な宝石のようだと勇者は柄にもない感想を抱く。
人よりもほんの少しだけ尖った魔族特有の耳が、肩まで伸びた蜂蜜のような金色の髪から覗いているのだが、その耳は感情が高ぶっているせいなのかほんの少し赤色に染まっており、顔にも少し赤みがかっている。
口元はへの字に曲げて歯を食いしばり、しゃくり上げて鼻を啜りながら、必死に大きな声を上げない様に堪えているようだった。大声を出してしまえば止まらないのだろう。
勇者が驚愕と困惑を同時に感じ、呆けるように口を半開きにして魔王を見つめ返す。
「なんで……君が泣いてるんだよ……」
「……だって……ひどいですよ……ひどすぎますよ……あの父を討伐に出て……なのに……私が……その間に……なんて……私より……命がけで……そんな……哀しいですよ……そんなの……」
魔王は涙を拭うことなく勇者を真っ直ぐに見る。頬から流れた涙はそのまま地面へと落ちて周囲を濡らしている。言葉は途切れ途切れで要領を得ていないが、まるで自分自身の事の様に哀しんでおり、勇者をその濡れた瞳で見続けている。
勇者は魔王が泣いている姿を見て、自身の中から何か重たいものが消え失せていくような感覚を持った。
それと同時に、自分自身がしてしまった大きな間違いを自覚した。
魔王は勇者と同じだった。同時に、勇者も魔王と同じだった。好きな人が居て、その人が別に愛する人が居て、そしてその人のために自分が死ぬことを選択している。ただ彼等の前から去るという選択をした勇者に比べてよっぽど覚悟をしているだろうに、それでも勇者の方が自分よりもと泣いている。
そんな魔王を勝負に勝って無理矢理彼等の中に戻して、それで魔王は幸せになれるのかと勇者は自身に問いかけ、なれるわけが無いと自分の中で回答を出す。何故なら、自分が国に戻っても幸せになれないとわかっているからだ。
それは、初めて会った時にわかることができたはずなのに……無意識に理解を拒んでいたのか、見て見ぬふりをしていたのか、それを考えることができなかった。
理解していれば勝負の前にかける言葉はもっと違ったものになっていたはずなのにと、勇者はそれを後悔した。
(本当に……間違えてばっかりだなぁ……。勇者が聞いてあきれる)
自身が国に帰らないようにする事ばかり考えて頭が固くなってしまったことを反省し、間違いを自覚した以上は、勇者はその間違いを正すために行動する。まだ取り返しは付くはずだと、自身の中で奮起を促す。
魔力も体力も限界に近いが、なんとか傷だけは表面上塞がった。ほんの少し動けばまた傷が開くだろうが、あと少し時間が経てば身体は何とか動くだろう所まで行ける。勝負はきっと続けられる。
その前に、この勝負の前提を変える。
「なぁ……魔王……この勝負で俺が勝った場合の条件だけどさ。……変えてもいいか?」
「……え……? 何を……今更……?」
未だ涙が流れている魔王は、勇者の提案に眉を顰める。勝負がほぼついているのに、今さら何を変えるのだろうかと疑問が頭をもたげ、首を傾げる。勇者はその反応が少し面白くて、苦笑を浮かべながら、自身が勝った時の条件を改めて口にする。
「俺が勝ったらさ……魔王……俺と一緒に逃げよう」
勇者がその言葉を口に出した瞬間、魔王が息を呑むのがわかった。
以前にも魔王はこの提案を祖父と慕う男性からされていた。その時は、魔王は勇者から逃げるわけにはいかないとその提案を拒否した。今、その逃げるわけにはいかないと言っていた勇者から、一緒に逃げないかと提案されてしまったことに、思考が止まりかける。
その言葉に涙は止まったが、赤く充血した青い瞳が勇者を凝視する。魔王は、すぐさまその提案を拒否しようとするのだが、言葉が上手く出てこなかった。
「……何……言ってるんですか……魔王と勇者が一緒に……逃げる? ……どこに……?」
魔王から出てきた言葉は拒否ではなく、困惑と確認の言葉。その言葉が出てきたことに魔王自身が驚くのだが、勇者は魔王の言葉を聞いてその顔に優しい微笑を浮かべる。
「そうだよ。お互い……もう国に居場所は無いだろ? だったら死ぬよりもさ……似た者同士で逃避行した方がよっぽど前向きだ……。場所はどこでもいいよ……どこか遠く……誰も知らないような小さな村にでもひっそり住むのも楽しそうだ」
誰もいない場所でひっそりと暮らす。自身にはもう望めなかった生活への提案に魔王の心が傾きかける。それでもまだ、首を縦に振ることはできない。簡単に頷いてしまっては、今までの覚悟はすべて無駄になる。何よりも、魔王は兄にも幸せになって欲しいのだから。だから、勇者の提案には思いついた軽口を返すしかなかった。
「……何言ってるんですか……急に……私のことが好きに……なったんですか?」
「冗談言うなよ。悪いけど君は俺の好みとは違うからね、好きになったわけじゃない」
「……そこは嘘でも好きになったとか言ってくださいよ……。じゃあ何で……」
「端的に言えば同情かな……。それに、同じ立場の女の子が居て、その子が死のうとしている……そんなの勇者とか関係なく、男なら助けてあげなきゃダメだろう」
即座に否定され、少しだけ魔王は憮然とした表情を作る。勇者が好きになったわけでは無いのは、勇者が王女のことをまだ引きずっており、誰かに好意を向けることを避けているからなのだが、勇者自身もその事には気づかない。ただ、自身と魔王を重ねて同情しているというのも事実であるため、発した言葉に嘘は無かった。
魔王は不貞腐れたような表情を作りながらも、ほんの少しだけ嬉しそうに口の端を持ち上げていた。
「……なんですかそれ……傷の嘗め合いじゃないですか……」
「良いじゃねえかよ、傷の嘗め合い……それで傷が治るなら儲けものだよ。治った後にまで嘗め合わなきゃいいだけだ。それはそれで楽しそうだけどな」
「……なんか卑猥ですね……男の人って……どうしてそうなんだか」
「……いやいや……そこは感動してくれよ。なんでそっちのほうだけ拾っちゃうんだよ。良いこと言っただろ……俺」
「……そう言うの、後から恥ずかしくなると思いますよ」
勇者は言われてバツが悪そうに片眉を下げて憮然とした表情を浮かべる。たぶん、後からこのことをからかわれるのだろうという思いからだ。
魔王は寂しそうに微笑み、自身の口から『後』と言う言葉が出てきたことに自己嫌悪する。この勇者との後を考えてしまった自分を恥じる。勇者から逃げるわけにはいかない以上に、自分にはやらなければならないことがある、それを思い出した。
「……私は兄さんに装具を継がせて、魔王にしてあげなければいけないんですよ……これからの国のことを思えば……だから……」
「良いじゃないか、勇者がいなくなるんだ。魔王だってしばらくは必要ないさ。俺達をハメようとした奴らなんだ、少し苦労してもらったってバチは当たらないだろ。俺の仲間達もきっと悪いようにしないはずだし……逃避行の間に、魔王を継がせる方法を一緒に探したっていいんだ、すぐじゃなくて時間差で魔王を継がせてもいいだろ別に」
一緒には行けないと言おうとした瞬間に、勇者は否定の言葉をかぶせてくる。確かに魔王がすぐにいなくても、勇者達の国に降参して保護を求める魔族はしばらくは大丈夫だろう。もしかしたら、勇者が居なくなる分の戦力を残った魔族で補おうとするかもしれない。そうすれば一定以上の立場は保障されるはずだ。
勇者と一緒に生き延びて、それからゆっくりと装具を継承する方法を探すのも、祖父から装具を生きて継承させる方法はあると聞いていたこともあり、それも良いかもしれないと魔王の心が傾き始める。
そんな自身の心を恥じて、魔王は最後の抵抗と言わんばかりに勇者の言葉を否定する。
「……でも、もうあなたは負けてるじゃないですか。そこから私に勝てるんですか?勝てないでしょ……だからもう……」
「言ったろ、まだ負けてないって。もう十分、休んだよ。ここからが俺の、逆転劇だ」
座り込んでいた勇者は、そのまま立ち上がろうと全身に力を入れる。まだ完全に感覚は戻っておらず、回復しきっていない身体は悲鳴を上げるように小さく震えていた。
無理に全身に力を入れた影響からか、かろうじて塞がっていた傷口からは血が流れだす。あと少しだけ回復してから立ち上がれば良かったが、魔王の考えが傾きかけている今しかもう最後のチャンスは無いと判断した勇者はそのまま無理矢理立ち上がろうとする。
魔王は何も言えず、立ち上がろうとする勇者を妨害することなく黙って見ていた。ここで攻撃を加えれば確実に勇者を倒せるのに、魔力を操作することも忘れてただ見ていた。
血は流れて、今にも倒れそうな勇者が限界なのは見ても明らかだった。そのまま倒れて気絶してもおかしくない状況で、勇者は立ち上がろうとする。
「ウガアアアアァァァァァァッ!! 根性入れろや俺の身体!! 男がここで意地出さないでどうすんだ!!」
叫び声を上げながら、勇者はそのまま無理矢理身体を起こす。既に傷を回復する魔力も無いのか、傷は勇者が立ち上がる体勢に比例してどんどん増えている。
無理矢理立ち上がろうとしたことで頭痛や眩暈等も勇者を襲うのだが、それでも勇者は構わずに立ち上がる。
息も絶え絶えに何とか立ち上がることができた勇者は、全身が汗と血に濡れ身体も震えており、辛うじて立っているだけの状態になっていた。今ならだれのどんな攻撃でも当たっただけで倒れてしまうだろう。
その状態で勇者はゆっくりと歩みを進める。まるで初めて歩き始めた赤子の様に、震えながらも目的とする聖剣まで歩みを進める。
一歩一歩、踏みしめるような足取りで勇者は地面に突き刺さった聖剣の柄を握りしめる。しかし、思ったより刀身部が深く地面に刺さっているためなのか、それとも勇者自身の力がほとんど残っていないためか、聖剣は抜くことが中々できない。その状態に、勇者の選定時に聖剣を抜いたときのことを思い出す。あの時はするっと抜けたっけと、当時を思い出して少しだけ苦笑する。
全部の始まりが聖剣を抜いたときならと、その時をなぞるように、最後の力を全て込めて勇者は聖剣を地面から引き抜く。
もはや剣を掲げる力もないため、握った聖剣を地面に引きずるようにして魔王へと近づいていく。ふらふらとした足取りだが、その目だけは真っ直ぐに魔王を見ていた。魔王がその目に気圧されたように、一歩だけ後ずさりする。
「……勇者……さん」
魔王はただ立って勇者が自分の所へ来るのを待つ。ゆっくりとだが、確実に自分に近づいてくる勇者が、自分の目の前に立つまで何をするわけでも無くただ待っていた。
「魔王……俺の勝ちだろ……」
魔王の目の前に立った勇者は、最後の最後にふらつく腕で聖剣を無理矢理に上段に掲げる。変に力を入れたのか、血が更に吹き出して、飛び散った血が魔王の頬を濡らす。
それが勇者の限界だったのか、勇者は聖剣をその手から取り零すと、そのまま魔王の方向へと倒れ込んでいった。
魔王はそんな勇者を、受け入れて自身の胸に抱きとめる。そして涙を流して勇者にだけ聞こえる小さな声で呟いた。
「……えぇ……私の……負けです」
気絶する瞬間にその言葉を聞けた勇者は、満足そうに眼を閉じる。
抱き着いたときにわかったことだが、ローブに隠れて分からなかったけど、この魔王は胸の大きさは自分の好みだなとか、そんな最低な事を考えながら、微笑みながら気絶した。
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