第51話【はっずい死ぬ!】
「えっ……俺ですか?」
自分の顔を差すと、目の前に座る緋彩さんは良い笑顔で「うん」と頷いた。
い、いやいやいや……。
「助けてくれるって言ってたじゃないですか!」
「え、助けてあげたじゃん。美味しかったでしょ?」
キョトンとした顔で空になった食器を指さす緋彩さん。
「いや、そりゃ美味かったですけど。それとこれとは話が──」
「同じだよ。弁護士だって、助けたいとか言いながらお金取るじゃない?」
「それは…………まあ、そうですね」
言い返そうと口を開いたものの、よく分からない例えに圧殺されてしまう。
たしかに、助ける=無償は必ずしも成立する方程式じゃない。なんなら弁護士なんてかなり高給取りのイメージがある。世知辛ぇ……。
「でも俺、金持ってないですよ」
「知ってるよ。そもそもお金ピンチで食糧難だって聞いたから来たんだし。そうじゃなくて、柏くんには料理のお返しに何してもらおうかな~って話」
「ああなるほど──って、そっちのが怖いんですけど」
ようやっと話を理解した俺が渋い顔をすると、緋彩さんは何故か楽しげに目を光らせた。嫌な予感しかしない……。
「さ~て、何してもらおっかな~」
「ちょっ、蹴らんでください」
「うりうり」
テーブルの下でじゃれるように足を蹴ってくる緋彩さん。
痛くはないけど、なんかこっ恥ずかしい。
「とりあえず皿洗ってきます」
「あ、逃げた……。そんじゃ私はお礼案を考えてるね~」
「お手柔らかにお願いしますよ」
暑さとは関係なく顔が熱くなるのを感じ、とりあえず食卓を離脱。
シンクで手早く食器を洗い、棚からグラスを2つ取り出し冷えた麦茶を注ぐ。
緋彩さんも暑さでおかしくなってる説があるし、クールダウンしてもらおう。
「緋彩さん、氷は何個入れますか?」
「?? 角砂糖じゃないんだから何個でもいいよ?」
「…………ああ、そっか」
素で驚いたような緋彩さんの表情を見て、自分がアホな質問をしたことに気付く。
適当に氷を投入したグラス持って食卓に戻ると、緋彩さんは相変わらず口元を緩ませてグラスを受け取った。
「なに? 柏くん慌ててるの?」
「そんなことないですよ。至って普通です」
あんなアホな質問した時点で普通ではない気がするけど、ここで隙を見せたら緋彩さんは面白がるだけだ。何を言われても落ち着いて、冷静に対応しよう。
「普通ねぇ……。ま、それはいいや」
小さな口にグラスを傾け、緋彩さんは再びテーブル下で俺に足をぶつけてくる。
……落ち着け、ここで心を乱したら負けだ。
「じゃ、私のお願いも聞いてもらおうかな~」
「はい。なんですか?」
「とりあえずチューして」
「ブォフッ!!」
「うわっ!?」
霧状に噴射された麦茶を避けるように、ガタッと勢いよく椅子を引く緋彩さん。
「ちょっ、大丈夫?」
「ゴホッ! ゴッ……ガホッ! だ、大丈夫です……」
麦茶が逆流し、思いっきり気管に入ってしまった。
涙が出そうになるのを堪え、咳き込んだまま手近なタオルで床を拭く。
「な、何言ってんですか?」
「え? ああ、チューはダメ?」
「ダメに決まってるでしょ……」
むしろ、良いのかと問い詰めたい。
料理作ってもらった代わりにキスをする──そんなの腕と脚の代わりに母親100人錬金するぐらいメチャクチャだ。非等価交換が過ぎる。
ノータイムで遠慮すると、緋彩さんはムッと口を尖らせた。
「え~、なんでよ。姫乃ちゃんとか唯にはしたんでしょ?」
「片方は事故で、片方は未遂です! 説明したじゃないですか!」
プールサイドや図書館で、たしかにそんなことはあった。
ただ、アレはハーレムか死かを迫られた特殊な状況下でのことだ。
色々あって有耶無耶になってるから、どこかで清算する必要は感じてるけど……。
「はぁ……やれやれ」
俺の弁明を聞いた緋彩さんは、小さく溜め息を吐くとソファーに移動した。
「仕方ない、チューはいいや。柏くんの焦らしプレイに付き合うよ」
「勝手に人を高度な変態にしないでください」
「それじゃ……ほら、ここ座って」
そう言うと、緋彩さんは自分の横のスペースをポンポンと叩いた。
「…………変なことしませんよね?」
「普通それって女の子のセリフだと思うけどなぁ~」
「無理矢理とかナシですよ」
「だから、日焼けしたキン肉マンが言ってもキモいだけだって。いいから、早く」
「キモいって……」
誘われるまま、俺は緋彩さんと少しスペースを空けてソファーに腰掛ける。
それを確認した緋彩さんは、今度は自分の太ももを軽く叩いた。
「さ、じゃあここに寝てみて」
「は?」
ワンピースから伸びる白い脚と緋彩さんの顔を交互に見る。
ここって……は?
俺がポカンとしていると、緋彩さんは細い棒みたいなものを突き付けてきた。
「あ、それ俺の耳かき」
「テーブルの上にあるの見つけたんだ~」
見覚えのある木の棒は、紛れもなく俺が耳掃除に使う耳かきだった。
この前風呂上りに使ってそのまま置いておいたのを忘れていた。って──
「俺の耳を掘る気ですか……?」
「そだよ~。ちょっとやってみたくなっちゃった」
「嫌ですよ、恥ずかしい!」
ここに寝てみてって、そういうことか!
「え~じゃあチューする?」
「しませんよ! なんですかそのトンデモ2択は!?」
俺が首を横に振ると、緋彩さんはそれを遮るように両手を俺の顔の前に突き付けた。
「柏くん、人生は選択の連続なんだよ」
「なにちょっと深い感じに言ってるんですか」
「あと10秒で決めてね。じゅーう…………きゅーう」
「いやいや、そんな無茶苦茶な。他のことにしてくださいよ」
選べたって、どっちもハードルが高すぎる。
「じゃあ、時間内で決めてね。決めなかったらチューしてもらうから。はーち…………なーな」
「全然時間無いじゃないですか。あーもう、分かりました。えーっと──」
「ロクゴヨサンニイチ!」
「早い早い早いっ! 耳! 耳でお願いします!」
ソファーに置かれた耳かきを手に取り、高速カウントダウンで指が折られる緋彩さんの手に握らせる。
「──ゼロ。ん、耳かきでいいんだね?」
「いいって言うか……まあ、それでいいです」
勢いで押し切られた感しかないけど、ウダウダ言ったところでどうにもなる気がしない……あっ、そうだ。
「っていうか、それなら俺がやりましょうか?」
どちらかと言えば、掘る側の方がまだ恥ずかしくないような気がする。
苦し紛れで良い案が思い浮かんだと思ったのだが、緋彩さんは首を横に振った。
「私はダメ。耳触られると変な感じしちゃうから」
「…………」
「どうしてもって言うならいいけど。代わる?」
「…………分かりました、俺のをお願いします」
こんな選択肢、どうしろってんだ。
観念した俺がそう言うと、緋彩さんは良い笑顔で再度自分の太ももを軽く叩いた。
「はい、どうぞ」
「し、失礼します……」
回避できるならしたかったけど、緋彩さんの上をいくのは無理だ。諦めよう。
なるべく緋彩さんの身体に触れないよう、俺は体幹をフルに使ってゆっくり身体を横にする。
「よっと」
白い布地の上に頭を着地させると、これまでの人生で経験したことのない、枕とはまた違った弾力が伝わってきた。余計なことを考えないよう、一つ大きく息を吐いて無心に努める。
「どうだい? 私の太ももの感触は?」
「ノーコメントでお願いします」
「ふ~ん。ちなみに、言ってくれるまでこのままだけど?」
「めちゃくちゃ柔らかいですよ! 早くお願いします!」
間近で聞こえる緋彩さんの声に、半ばヤケクソ気味に返答する。
緋彩さんがクスクス小さく笑っているのも身体越しの振動で伝わってきて、もうなにをどうしても恥ずかしい。
「じゃあ、動かないでね」
「はい。ふざけないでくださいよ?」
「そんな危ないことしないって。お姉ちゃんに任せなさい」
そう言って、ヒンヤリとした指で俺の耳をつまむ緋彩さん。
くすぐったくて声が漏れそうになったが、どうにかグッと堪える。
「どう? 痛くない?」
「……大丈夫です」
「気持ちいい?」
「よく分からないです。初めての感じというか懐かしい感じというか……あ~」
「なにそれ」
無心無言を貫くつもりだったのに、なんか変な声が漏れてしまった。
っていうか、コレは無理だ。ゾワゾワするし抗える気がしない。
「はい、逆ね」
緋彩さんに促され、俺は一度立ち上がってソファーの逆側に移動する。
「?? 反転すればいいのに」
「いや、流石にソレは……」
ワンピース越しとはいえ、腹部に顔を押し付けるのはどう考えてもヤバい。
恥ずかしいとかどうとかじゃなくて、もう色々ヤバい。
「気にしなくていいのに」
「俺が気になるんですよ」
「はいはい。じゃあ反対側もやっちゃうね」
緋彩さんが耳に手を掛けるのと同時に、俺はなんとなく目を閉じた。
こうすると耳を掘られている感触が強くなるというか、恥ずかしさはかなり薄れるような気がする。
「…………」
よくよく考えたら、人に耳を掃除してもらうなんて小学生の低学年以来だ。
その頃にしたって、もちろん相手は母さんだし。
「だいたい終わったけど、他に痒いところはあるかい?」
目を閉じてボーっとしていると、頭上から緋彩さんの声が降ってきた。
「え? あー、もう大丈夫ですよ」
「そう? じゃあ終わったよ。お疲れ様」
「はい」
終わってみると、恥ずかしさと同じぐらい普通に気持ち良かった。
それが緋彩さんに伝わらないよう、呼吸と表情を整えて目を開ける。と────
「……え?」
────目を開けると、目の前に緋彩さんの顔があった。
数回目を瞬かせ、ようやく緋彩さんが俺を膝に乗せたまま上体を屈めていることに気付いた。なんせ、肩のあたりに信じられないぐらい柔らかいものが当たっている感触がある。
ただ、気付いたところでどうにもできない。
「緋彩さん……?」
「私思うんだけどさ、柏くんにキスするのなんて簡単だよね」
「はぁ……」
なにかとんでもないことを言われているような気がするけど、思考が付いてこない。
上下逆さまの緋彩さんの顔を見たまま俺が動けないでいると、しばらくして緋彩さんはパッと身を引いた。
「な~んて冗談だよ。はい、おしまい!」
ポンと肩を叩かれ、俺はようやっと硬直が解けた。俺がのそっと身体を起こすと、緋彩さんはソファーから立ち上がって大きく伸びをする。
「う~ん、満足満足。それじゃ柏くん、私そろそろ帰るね」
「……あ、はい」
「料理ならいつでも作ってあげるから、死んじゃう前に言うんだよ。いい?」
そう念を押し、緋彩さんは自分の鞄に手を伸ばした。
俺の返事を待つこともなく、そのまま足早に玄関の方へ歩いていく。
「じゃ、またね柏くん」
「料理ありがとうございました。美味かったです」
「うむ!」
今日イチの笑顔でそう言うと、緋彩さんはそのまま勢いよく外に飛び出していった。
アホどもに見つからないようにしてくださいとか、言おうと思っていた言葉は喉から出てこない。
「……なんだったんだ?」
玄関に鍵を掛け、冷えた空気を求めるようにリビングへと戻る。
と、そこで緋彩さんが帽子を忘れていったことに気付いた。
「あの人もそそっかしいところあるんだな」
炎天下の外から「はっずい死ぬ!」と声が聞こえた気がしたが、それが誰の声かなんて考える余裕は俺にはなかった。
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