第39話【沈黙は肯定、じゃない】
「…………はー」
ポストの郵便物を確認する緋彩さんの隣りで、俺はつい息を漏らしてしまった。
白を基調とした品の良い住宅はうちの家と比べると明らかに大きく、加えてキャッチボールぐらいは優にできそうな庭が備え付けられている。
薄々思っちゃいたけど、良いとこの譲さんなんだな。この人たち。
「自転車はその辺に停めてくれていいからね~」
「あ、はい」
芝の張られた庭の隅に愛車を止め、緋彩さんに続いて玄関に入る。
「すっげ……もしかして、家政婦さんとかいたりするんですか?」
「えっ、いないよそんなの」
「じゃあSPとか」
「あははっ、一体なにを護衛するのさ! 冗談は顔だけにしてよ」
「顔はふざけてないつもりだったんですが……」
半分以上本気だったのに、何故か冗談扱いされてしまった。顔が。
「適当に座ってね」
「し、失礼します」
廊下を歩いた先で俺を待っていたのは、居間と呼ぶにはいささか広すぎる空間だった。
家そのものの大きさが違うから比べても仕方ないのかもしれないが、これが居間というならうちにあるのは居間未満だ。言いにくいな、居間以下だ。うん、これも言いにくい。
「暑いし、麦茶でいいよね?」
エアコンの電源を入れ、緋彩さんはガラスのコップに麦茶を注いでくれた。
「あ、はい。ありがとうこざいます」
「少し休んだら勉強始めようか。あんまりのんびりしてると、お父さん帰って来ちゃうし」
「親父さん……厳しいんですか?」
喉に流れる冷たい麦茶とは別に、背中にも冷たい汗が流れる。
「う~ん、どうだろ? 男子を家に入れたなんてバレたら、殺されちゃうかもしれないね」
「えっ!? それヤバくないですか……?」
娘に手を上げるなんて、よっぽどの堅物なのだろうか。
「柏くんが」
「俺が!? じゃあとっとと始めましょうよ!」
ヤラれると分かっていて、呑気に麦茶なんて啜ってる場合じゃない。
ていうか、なんで俺ばっかり命を狙われなきゃならないんだ……。
それからすぐに、俺は緋彩さんの指導の下、より分かりやすい数学の教え方について学んでいった。
「だからね、確率なんてのは数えちゃえばいいんだよ」
「数えるって……全部書き出すってことですか?」
「うん。センターレベルの数学なら、題材はだいたいカードの裏表とかサイコロでしょ? サイコロは多くて三つだし、216通りぐらいなら数えた方がよっぽど安心安全なのさ」
「でも、それだとサイコロがn個とかになったら対応できなくないですか?」
「いいかい、柏君。数学が苦手な人ってのは、とにかくイメージが湧いてないんだよ。数えてれば法則性も見つかるし、取っ掛かりができるでしょ?」
緋彩さんがノートにペンを走らせると、あっという間に樹形図が完成した。
簡略化できるところは簡略化しているからか、全通り書き出したとは思えないほどスッキリ見やすくなっている。
「ちなみに、私は頭の中で一辺が6の格子状の立方体を作って全部数えちゃうんだけど……まあ、それは慣れが必要だね~」
「それを宮本にやれっていうのは難しそうですけど……でも、数えるのはアリですね」
中間の赤点答案を見た限り、宮本は数学の中でも特に確率の分野を苦手としていた。
それがクリアできれば、点数はかなり底上げされるだろう。
「追試は中間テストの問題をちょっとイジったような出題をしてくるだろうし、明日は中間の問題をもう1回解かせた方が良いよ。それから────」
────ガチャ。
緋彩さんと俺がノートを挟んで顔を寄せていると、突然居間のドアが開けられた。
パパさんか!?
俺が直立すべきか隠れるべきか迷う中、その人は後ろ手でドアを閉めるとこちらに視線を向けた。
「…………えっと、なにしてるんですか?」
数回瞬きした後にすっと目を細めたのは、パジャマ姿の橘だった。
寝起きなのか、服や髪がところどころ乱れている。
「橘……」
やっべ、そういや体調不良で寝てるって聞いてたんだった。家の大きさやらパパさんの脅威に意識を奪われていたせいで、すっかり頭から抜け落ちていた。
「あー…………私、ちょっと部屋に忘れ物取って来るね~」
なんとも言えない緊張感を嫌ったのか、あからさまな嘘を吐いて逃げる緋彩さん。
そそくさと居間を出て行く姉を見送ると、パジャマな妹は俺の方には目もくれずキッチンへ足を向けた。
「…………」
……どうしよう、言葉が出てこない。
橘と最後に会ったのは金曜日のプールサイド。
連絡しても繋がらず、学校でも会えず。言いたいことはたくさんあったはずなのに、顔を見たら妙にソワソワしてしまって思考がまとまらない。
……そもそも、橘はあの日のことをどう思ってるんだ?
俺と付き合ってると学校で噂されているのは知ってるのか?
「先輩」
「?」
不意に呼ばれて顔を上げると、キッチン台越しに橘と目が合った。
橘は手に持ったグラスを台に置き、俺の目をじっと見つめる。
「久しぶりに会ったと思ったら、なんで他の女とイチャイチャしてるんですか?」
「開口一番えげつねえストレートだな……」
まずは挨拶代わりのジャブと言うか、ジャブ代わりに挨拶ぐらい挟んでほしかった。
「他の女って……お前の姉だろうが」
他に言い方はないのだろうか。
しかし、俺の言葉を受けた橘はふるふると首を振った。今日はおさげにしていないので、揺れるものがなくてなんとなく物寂しい。
「今の私は姉のことを一人の女として見ているので、問題ありません」
「意味は分からねえけど、問題あると思うぞ。それ」
険悪とか通り越して、なんかもう百合百合しい。
「まあこの際、姉のことはどうでもいいです。それより、先輩に聞きたいことがあります」
「……なんだよ?」
自分で話題に出した緋彩さんを自ら退場させ、橘は片手を胸に当て小さく息を吸った。
「先輩はあのとき……どうして私にキスをしたんですか?」
絞り出すように、それでも確かな口調でそう言った橘は、更に言葉を続ける。
「あのとき、なにを言いかけたんですか?」
目を真っ直ぐ俺に向けたまま、答えを待つように唇をぎゅっと結ぶ橘。
ここで黙っちゃダメだということは直感的に分かったが、そんな意に反するように、俺の口は思うように動いてくれなかった。
「俺は……」
なんて言えばいい? 俺は橘になにを伝えたらいいんだ?
あの日から、俺も俺なりに色々考えてきた。
パッと答えが出るものもあればそうでないものもあったが、そういう分からない部分も含めて、俺は橘と話がしたかった。
だけど、緋彩さんや宮本のことを清算しなければ、なにを言ったところでそれは嘘を吐いているのと変わらない。
「…………そうですか、分かりました」
俺が無言のまま手を握りしめていると、橘が小さく呟いた。
「橘……?」
「すみません。やっぱり体調が悪いので、部屋に戻ります」
小さく頭を下げ、俺から視線を逸らす橘。
ゆっくりと歩く橘がノブに触れる直前、再び外側からドアが開かれた。
「じゃ~ん! せっかくだし、私もパジャマにしてみたよ! もっと薄いのもあるけど、どうかな────って、どしたの二人とも?」
制服を脱ぎ捨てた緋彩さんは、俺と橘の顔を交互に見ると「あれ?」と首を捻った。
「姉さん、邪魔です」
「どこ行くの姫乃? パジャマパーティーは?」
「……先輩と二人でどうぞ」
居間の出入り口で緋彩さんと橘がなにか話をしているが、耳には入ってこない。
繋がった視線が途切れる直前に悲し気に伏せられた橘の目、俺の頭はそのことで一杯になっていた。
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