春の夜のできごと
一
「お前、そのナカっての好きだよな」
話が終わり、やっと集中して読めると思った矢先だった。ぼくは、持っていた文庫本に指を入れて片手で持つと、振り返った。
これで何回目だろう。いま手にある物語はここに着いてから一向に進まない。
ごつごつとした土の上に敷かれた青いシート。ぼくは前のほうで、靴を履いたまま、膝を抱える格好で本を読んでいた。後ろのお兄ちゃんは横になってタブレットを見ている。
そのお兄ちゃんが肘を立て、少し上体を起こした。ぼくのほうを顎でしゃくる。
「それ。ナカ……セーコー?」
シートに置いたタブレットへちらちら目をやりながら、今度は指をさした。
お兄ちゃんがなにを言いたかったのか、それでようやく理解できた。文庫本の表紙を後ろへ見せる。
「ナカ、じゃなくてナカシズカ。中静さんていうの。中静光(ひかり)さん」
「あ? ……ああ、静までが名字か」
ふーん。急に興味が削がれたのか、ただ単に訊いてきただけなのか。お兄ちゃんは黙ると、またタブレットに集中し始めた。
ぼくはため息をつき、天井のない「スペース」から空を仰いだ。
どこまでも青い。
その青に映える桜の群れ。八分咲きと、テレビではいっていた。
この城址公園は地元随一の桜の名所である。きょうも朝から賑わっている。
四月の中旬の土曜日。今夜は、篠原さんちの、春の恒例行事である夜桜会が開かれる。……といっても、桜を見るのにかこつけて、お兄さんたちが外でお酒を飲みまくるってだけの話だ。
その場所取りに、ぼくとお兄ちゃんは、朝から駆り出されていた。
始めは、お兄ちゃん一人で、ということだった。いつの間にか、ぼくも一緒に行くことになっていた。
とはいえ、今回は嬉しい巻き込まれかもしれない。こんな天気のいい日に、満開に近い桜に囲まれて読書ができるんだ。……と、車出し係の広美さんとシートを広げているときまではうきうきだった。
ところが、さっきから十分に一回はお兄ちゃんが邪魔してきて、本に入り込めない。自分は夢中になると返事もしなくなるくせに、ぼくがちょっと無視すると、実力行使に出たりするから質が悪い。
ぼくは桜から視線を移動させ、同じように場所取りをしている人たちへ目をやった。
休日なのにスーツを着てボッチでいるお兄さん。わいわいとトランプなんかしながらもう飲み始めている人たち。まだ午前中だから、小さな子どもを連れてお弁当を広げている人たちもいる。
なんかいいな。こういうの、なんかいいな。
そう思いながら再び本を開いたときだった。後ろのお兄ちゃんがいきなり「あーあ」と大きな声を出した。
「腹減ったなあ」
完全に仰向けになってタブレットをお腹に乗せている。
それから、なにかに気づいたようにがばっと上半身を起こした。
「なあ、たしかここって露店出るよな?」
「出るけど夜じゃないの」
「いや、結構人いるし。ちょろっと出てんだろ」
そう言って今度は鼻を動かした。
ぼくは笑うしかない。
「匂うの?」
お兄ちゃんはそれには答えず、よしと膝を叩いて立ち上がった。
「よし、じゃないよ」
「散歩してくる」
「もう少しでお昼だし。広美さんが差し入れ持ってくるって言ったんだから大人しく待とうよ」
ここに来るまでの車内でも無駄に動き回るなと言われていたのに……。
しかし、ぼくにあのお兄ちゃんを止められるわけがない。せいぜい唇を尖らせて非難を示すしかないんだ。
遠ざかる背中を、見えなくなるまで凝視してやった。
だけど、こうなるだろうと予想もしていた。一緒に来いとぼくに言ったのは、一人だとつまらないからじゃなく、こうして自分を動きやすくするためだ。
「……」
お兄ちゃんにとって、ぼくはどういう存在なのだろう。
いろいろ都合のいい弟ってだけなのかな……。
最近とみにそう思う。命令されたり、ダシに使われたり、抜けがけされたり。
でも、どうしてだろう。お兄ちゃんなら仕方ないかと、結局は思っている。許せてしまっている。
たぶん、思いも寄らないところで優しくなるからだ。自分勝手なだけなら、とっくに大嫌いになっている。
ズルい人だよ、ほんと。
はあ、とため息が出たとき、遠くを歩いている男の人と目が合った。
ぼくの前を行き交う人はまだまばら。その男の人はこっちを見て、おっという顔をした。
ぼくは見たことのない人だ。だから、ぼくの後ろに知り合いでも見つけて、そこに目をやっているのかと思った。
振り返ってみる。
けれどそこには桜の木があるだけで、人影はなかった。
黒髪で背の高い人だ。間違いなくぼくのほうへ向かってくる。
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