いつもと同じ朝、朝食――僕の役目は変わらない。


 彼女は今日も、僕の首筋に牙を突き立てて血液を摂取していた。細い手足でぎゅっと僕を固定して。


 よく眠れなかったせいか、いつもより意識の朦朧もうろうが激しい。視界が霞んで、無意識のうちに彼女の腕を掴んでいた。


「あれ? 少し吸いすぎましたか?」


 耳元から透き通った声が通り抜けていく。大丈夫、と僕は彼女の腕をぎゅっと掴んだ。


「まだ、大丈夫」


 この期に及んで、餌にすらなれなくてどうする。

 そう言い聞かせて無理やり意識を保とうとしたが、彼女は不意にペッと牙を抜いて、口元の血を拭った。


「寝不足の味がしますね……まったく。体調管理はしっかりしてください。わたしはおいしい血を吸うために、わざわざ睡眠のリズムをあなたに合わせているんですよ?」


 血の味まで把握されていることに嬉しさを覚えてしまうのだから重症だなと思った。これでは、鉄血場原にあんなことを言われても仕方ない。


 しかし、どうして僕なんだろうとも思った。そこまでして僕の血を吸うくらいなら、最初から美味い血の流れている奴を選べばよかったんじゃないか。


 なんて。


「どうして僕だったんだ?」


 尋ねてしまったのは、どうしてだろう。しかし一度言葉にすれば、後は取り止めもなく続きが流れてくる。


「僕は、お前と出会ったからここにいるわけだけど――お前は、もっと他に選択肢があったはずだよな。僕よりもっと健康的な人とか、好きな人間とか――その気になれば、いくらでも選択肢があったはずなのに」


「ん? んんー?」


 彼女は首を何度も左右に傾げていたが、八回目あたりで何かに気が付いたようで、きゃったきゃったと笑った。その笑い声を聞くのは、随分と懐かしい気がした。


「なんだ、寝れない理由ってそういうことですか。大方、鉄血場原てっけつばはらさんに変なことを言われたんでしょうけど――ふふ。なんだ、あなたにもそういうところがあるんじゃないか」


「どういうところだよ」


「人間らしいところ」


 彼女は笑った。山吹色の髪が揺れて、金属箔の粒子がほろほろと零れた。


「まぁ、あなたにだけ恥ずかしい思いをするのもなんですから、本音を言うと――一番、わたしに似ていると思ったからですよ」


「似ている?」


 種族も、生まれも、育ちも、何もかもが違うのに――僕たちの一体、どこが似ているというのだろう。また僕をからかっているのだろうか。


「そんなの、みんな些細な差でしょう。そんなことより肝心なのは」


 価値観。

 と、彼女の舌が踊る。


「何千年も生きていると、どうでもよくなってくるんですよね――何もかもが。どうでもいい、なんでもいい――何をしても一緒。何をしなくても一緒。今さら何かを変えるつもりはないし、自分が変わる気もない」


 途中から明らかに、僕の口調を真似ていた。しかし、何の違和感もなかった。それはそのまま、僕が漠然と抱いていた価値観だったから。


 失業して、ハローワークに通っていた時からそんなことを思うようになった。いつも自分に何かの価値を見出そうと躍起になっていた。いつも不安だった。


 だけどある日、ぷつんと糸が切れてしまった。どうでもいいな、と思うようになった。自分が変わろうが変わるまいが、根本的には何も変わらないはずだ、と思い込むようになった。


 現実が見据えられないから、そう信じるしかなかった。


「あなたは、一緒にいて疲れなさそうでいい」


 そういう風に微笑みかけてくるのは、卑怯だった。必要とされている。それだけでどうしようもないほど嬉しくなってしまう――だけど。


「お前は……それでいいのか?」


 外の世界で待っている人がいるんじゃないか、とは言えなかった。あと一歩のところで声が出なかった。言葉にならなかった。


 だけどやっぱり、彼女にはお見通しみたいだった。


「私も感情を持つ生き物の端くれです。だから、誰かを好きになったことはありますよ。それは決まって――なんていうんでしょうね。ひたむきに、真っすぐに輝いている人でした」


 吸血鬼という生き物は、どうも辛気臭くていけませんからね――と、彼女は冗談めかして笑う。


「私、吸血鬼って好きじゃないんですよ。まるで鏡でも見させられている気分になる――いや、鏡もなにも同じ種族なのですが、だからこそうんざりするんです。お互いのことがよく見えすぎるから、見えていないものまで見えてしまう。見えなくていいものまで見えてしまう。続きよりも先に結末が見えてしまう。それはどう控えめに見繕っても、いい結末とは言い難い。だからこそ、私は人を好きになったんでしょうね」


 どうにもならない何かを、どうにかしてくれるような気がして――と。

 ほろほろと、金属箔の反射光を纏って笑う。


「しかし結局のところ、夢を見ていたに過ぎないような気もします。永い、永い、夢を」


「夢……」


「そう、夢。人を好きになることって、夢を見ることによく似ているんですよ」


 アザミのように鋭い睫毛の下に、そっと満月の瞳を隠して。

 彼女は続ける。


「ずっと夢を見ていられたらよかったんですけどね。私が好きになる人はいつの時代も、私の思う夢よりずっと――ずっと、取り止めのないものでした。ある日、ぽっつりと――太陽が沈んでしまうようにぽっつりと変わる。そんな人を、私は何度も何度も見てきた」


 止まない雨は無いように。

 太陽が輝き続けることも無い。

 変わらないものなんて存在しない。

 永遠を生きる彼女はそのことをよく知っている――のだろう。


「いつの話でしたっけね。私の正体を知っていながら、何度だって会いに来てくれた人がいたのは。誰でしたっけね。何度も何度も、私の美しさと添い遂げたいと言ってくれた人は。どうしてでしょうかね。その言葉が全部、形だけになって輝きを失ってしまったのは――なんて」


 敢えて思い出すような話でもありませんでしたね、と彼女は舌を躍らせる。


「まぁどのみち、同じ話だったと思います。人間と私では、生きている時間が違うのですから。いずれ思い知っていたことでしょう」


 何をしても一緒。何をしなくても一緒。 

 恋をしても一緒。

 しなくても、一緒。

 辿り着くところはいつも変わらない。何も変わらない。


 そんな虚しさを、何度も何度も何度も彼女は見送ってきたのか。

 黄昏の光を見送るように、何度も。


「あなたを選んだのに理由が必要なら、そういうことだと思いますよ」


 彼女は満月の瞳を輝かせた。そして笑った。


「あなたはもう、どうしようもなく変われない人ですからねぇ。わたしと同じで」


 すうっと染み渡るように言葉が吸い込まれて、すとんと心のどこかに落ちた。


 お前だけは変わってくれるな、という。

 彼女の声が、確かに聞こえて。


「なんだ、そんな心配をしていたのか」


 だから、僕はそう言った。大丈夫、呆れたような表情を作るのは慣れている。


 彼女がいつも、眩しそうに黄昏の光を眺める理由が分かった気がした。


 ただそこにあるだけの、静かに影を落とすだけの、優しい光を。

 身を焦がす太陽のような輝きには程遠い、柔らかい光を。


 多分、彼女は求めている。

 これからも、きっと、ずっと。


 だから、僕にはこういう言葉しか浮かばない。

 

「ほんの死ぬまでの間くらいで、僕は変わらない」


 これはきっと、恋にすらなれなかった物語だ。


 だけど、閉じられた世界で、ずっと変わらない馬鹿のままで――そういう生き方があってもいいんじゃないかと僕は思う。


 だって、誰かに必要とされるのはとても嬉しいことなのだから。

 そういう生き方が、あってもいい。



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