#35


拗ねたジャックの機嫌を戻してからクラウスはマチルダが休んでいる客間へと足を

運び軽くノックしてから扉に手を掛けてゆっくり開く。



「失礼。」



中では一人、落ち着いた感じでお茶を楽しむ彼女がいた。


マチルダは部屋に入って来たこちらの気配に気づいて振り向き、彼女は教会で会った

あの時と同じように優しく微笑んだ。



「急な申し出にも関わらず我が国までご足労頂いて感謝します。」


「おや。まあ……。」



クラウスが丁寧にお辞儀をして歓迎と自己紹介を兼ねて言葉を述べれば、彼女も

返すように椅子から立ち上がり洗練された仕草で挨拶をする。


幾つ年を重ねて、例え理不尽な理由で城を追い出されたとしても衰えないその高貴な

雰囲気は尊敬に値するだろう。


マチルダが再び椅子に腰掛けるのを待ってから自分も向かい側の椅子に座り、今回の

ことについて詳しく事情を話すべく口を開く。



「お呼びしたのは他でも無い、リゼのことでお願いしたい事があったからです。

当時彼女の乳母を勤めていた貴女に。」


「元乳母でございますよ。今は城を出された身で、もう何も持っていません。」


「いえ。地位も場所も失おうと貴女にはまだリゼがいます。もう一度、リゼの乳母…

世話係としてこちらで復帰していただけませんか。」


「姫さまの側で…?大変、嬉しいお言葉ではありますが…すっかり老いてしまった

この身に出来ることは少なく限られております。私一人なんぞの為に周りの多くの

手を掛けることは心苦しいもの。」


「早急にお決めにならなくとも。ひとまず、西との諍いが落ち着くまでの間はリゼを

よく知る貴女に側にいてほしいのです。それまでゆっくり考えて下さい。」



ああ、それと。とクラウスは思い出して言葉を付け足す。



「貴女の言葉は是非、貴女自身でリゼに伝えてやってくれませんか。」



マチルダは数回ほど目を瞬いて、それからこちらの言わんとしていることを理解

したのかふっと笑んで小さく会釈した。



「風の噂だけなら、私の耳にも届いておりました。女神の信仰者が夜闇に紛れて

姫さまを庭園から攫ったと。その後の城下町は物騒となりましたが、私の気持ちは

不思議と軽く晴れ晴れとしていたのを今でも覚えております。」


「騒ぎを起こしてしまったのは申し訳ないと思っています。ですが、ああしなければ

リゼはまた同じことを繰り返していたでしょう。」


「はい。以前にこちらへ訪れていた軍の方から話を聞いて……クラウス殿下、貴方が

姫さまをお救いくださったと。本当になんと、感謝申し上げればいいか……」


「私の方こそ貴女に礼を言いたい。貴女のお陰でリゼはきっと、今も自然に笑って

いられるのです。」


「いえ、そんな……。」



控えめに返してマチルダは少し茶を啜った後に言葉を続けた。



「クラウス殿下。よろしければ貴方と姫さまの出会いを聞いても……?」


「ええ、もちろん。」



小一時間ほどの穏やかな談笑の後、クラウスはマチルダを連れて数日ぶりにリゼの

部屋を訪ねる。


ノックすれば中から相変わらず元気に聞こえてくる声に安心しながら、扉を開ければ

ひょこりと顔を出すリゼリーの姿に心は和ぐ。


反対にリゼリーの方は告白した日以来のせいかやや緊張した面持ちに。



「あっ……ク、クラウス……。えと、久しぶり…だね。」


「久しぶり。今日はリゼに逢わせたい人がいるんだ。」


「私に……?」



小首を傾げてきょとんとする可愛いリゼリーの一挙一動に癒されつつクラウスは

自分の背後に控えていたマチルダに声を掛けて前に出てきてもらう。


予想だにしない彼女の登場にリゼリーが驚いたのは無理もない。


目を丸くして固まってしまったリゼリーに対し、マチルダは立派に成長した王女の

その姿に感動して瞳を潤ませる。



「姫さま……立派に、立派に成長なされて……」


「マチルダ……?本当に、マチルダなの?」


「はい。私めを憶えておいでですか。貴女の乳母をしていたマチルダを。」


「忘れないよ。王宮では貴女だけが私の側にいてくれたんだもの。忘れたりなんか

できない……っ」



二人はひしと抱き合い再会を涙ながらに喜んだ。


クラウスは少し離れた場所でその様子を静かに見守った後、落ち着いた頃合いに

声を掛ける。



「リゼ。中でゆっくり二人で話すといい。語りたいことはたくさんあるだろう。」


「うん。ありがとう。でもどうして……」


「ルーナ王国にいた時にリゼが話していたことを思い出してな。城に詰めていない

なら呼んでも大丈夫だろうと思って来てもらったんだ。何分、ここだと君を知って

いる人間が限られるし、あまり窮屈な思いはさせたくない。」


「クラウス……。」


「本当なら俺が傍にいてやりたい。だが、また状況が変わってな。」


「何かあったの?あまり、良くないこと?」


「それはまた別の機会で話そう。時間ができたら必ずリゼに逢いに来る。だから

それまでは。」



リゼリーの手を取り甲に優しく口づけてから淡く笑み、名残り惜しい気持ちを

押し殺してその場を去る。


執務室へ戻れば扉越しにぎゃあぎゃあと騒ぐような声が聞こえてきて先程リゼに

癒されたはずの心は既にどんよりと重くなった。


入らなくてもわかる声の主は、ジャックと――母である。

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