#4


庭園を出て行くクラウスの背を見送りながら、リゼリーはそっと彼の口づけた自分の

手に触れた。


今でもまだ少し残っているような気がする彼の唇の熱に、収まりかけた自身の中の

熱が再び上がりそうになる。


慌てて首を横に振って思い出さないように自制する。


そして数舜後には背後から聞き慣れた声がした。



「あら。逃げ出したりしなかったのね。折角、鍵を外しておいてあげたのに。」



クスクスと嫌な笑みを浮かべて月明りしか差さない庭園にやって来たのは……今の

自分の母であるリリアン王妃。


リゼリーは何の感情も籠らない、正確には籠められない瞳で彼女の方へ振り向き

見上げた。


暗がりでもよくわかる歪んだその表情は自分に対する嫌悪感を示している。



「お母様。私は勤めを果たすまで、逃げも隠れも致しません。」


「そう…残念。逃げてくれれば幾らでも貴女に罪を着せて罰せられるのに。」


「お母様が私を疎ましく思う気持ちはわかります。こうして今まで育ててくださった

ことにも感謝しています。」



それを聞いてリリアンは歪んだ顔をより一層歪ませてリゼリーに近寄ると、月明りを

受けて煌めく彼女の髪を強く引っ張った。


痛みにリゼリーも小さく悲鳴を上げたが決して母から視線は反らさない。


幼少期から受け続けた暴行の経験上、頭に血が上った彼女から目を反らすとその

内容はエスカレートしたのだ。


手を上げる理由や言い訳はその都度違うけれど、根底には自分を忌み嫌い早く殺して

しまいたいというおぞましいものがある。


それでもリリアンがリゼリーに自ら手を下さないのは己の手を汚したくないからでは

ない。



「感謝…?貴女に感謝されても少しも嬉しくないわ。それよりもまだなの?早く

私の前から消えてほしいのだけれど。」


「…まだ、できません。お母様…ごめんなさい。あと四年…四年待ってください。」


「ああ忌々しい…!どうして私の腹から生まれたのが貴女なの…っ…貴女さえ生まれ

て来なければ…!」



リリアンは激情のままリゼリーをはたき倒しそのまま振り返り王宮へと帰って行く。


王妃らしくない荒々しい足取りは柔らかい庭園の草を踏み荒らし、咲いたばかりの

可憐な花さえも潰していった。


静けさを取り戻したことを確認してからリゼリーは地面からゆっくり立ち上がる。



「…お母様…お父様……私、大丈夫です。この国の…ルーナ王国のために…。」



目を閉じて祈るようにして胸の前に手を合わせて呟く。


最近は毎日毎晩、欠かさず天に向かって捧げている。


自分の心を支えているのも自分に出来ることも、今ではそれしか残っていないから。



でも……



祈っている途中でリゼリーはふとクラウスの姿を思い出した。


母リリアンが自分が逃げられるようわざと開け放った庭園の扉からやって来た彼。


身内以外の、まさに『外の世界』から来た人間を見たのは初めてだった。


黒と間違えそうだけど闇に溶け込まないその髪は眩しい月明りの下、深海を思わせる

ような紺色をしていた。


近くで見れば狙った獲物を逃がさないような鋭い瞳は庭園の草木と同じ深い緑が

煌めいていた。



――とても、美しい人だと思う。



それは容姿に限ったことではなくて彼自身の心も含めて。


短時間のやり取りの中で、クラウスは初対面の自分を好奇な目で見ることもせず

むしろ心配して思いやるようなことを言ってくれた。


リゼリーはクラウスに返し忘れてしまったローブの端をきゅっと小さく握って

何年かぶりに感じる胸の温かさに笑みを溢す。



「…そういえば、クラウスはまた来るって言ってた…。」



来てもいいかと問われた時、本当は断らなくてはいけなかった。


リリアンの思惑で開いていた扉から抜け出すはずはリゼリーであって、道に迷って

しまったクラウスを招くものでは決してない。


従って偶然が重なった結果とはいえ外から王宮の人間以外が自由に出入りするという

状況は万が一見つかってしまった場合に非常によろしくない。


いくら警備がかなり手薄なこの庭園でも、一応は時々見張りの衛兵が遠巻きに来たり

先程のように時間を問わず王妃たちも様子を見に来る。


彼らがいつどのタイミングでやって来るかなども把握できない上に旅人だと自分に

告げたクラウスが次にいつ庭園を訪れるのかもわからない。


明日かもしれないし、旅をして巡り巡って数年後かもしれない。


クラウスを危険に晒してしまう恐れがあると頭でわかっていながら、リゼリーは

拒絶するはずの首を横ではなく縦に振ってしまった。



「だめだって、わかってる…でも…」



もう一度会って話がしたい。


無意識に自然と溢れた己の希望は普通の王女や貴族令嬢であればきっと簡単に

叶えられてしまうだろう。



――けれど自分は……



すぐ目の前に『あの時』の深淵を感じてしまいそうでリゼリーは緩く頭を振って

一つだけ深呼吸する。


まだ時間はあるのだから。そう自分に言い聞かせて少しだけふらつく足取りのまま

歩いて庭園のベンチに横になった。


ここには雨風を完全に防げるような建物も無ければ、ふかふかのベッドも無い。


それらは全て自分が5歳の時に別れを告げた。


唯一変わらないのは運ばれてくる食事の内容くらいだろうか。


ほんのりとローブから香る優しい石鹸の香りに包まれながら、リゼリーは久しぶりに

感じる安心と共にゆっくり目を閉じる。


いつもは肌寒くてなかなか寝付けないこの時間でもローブのおかげで温かく快適な

夜を過ごすことができる。



「おやすみ…みんな…。」



そう小さく呟いてリゼリーは夢の中へと意識を手放した。


せめて夢では自由に、幸せであったと感じられるよう願いながら。

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