桐の花

帰鳥舎人

早贄

 最近、幽霊の夢をよく見る。

 自室で眠っていると、石を載せられたように重苦しい不安に襲われ眼を開く、普段と何ら変哲もない部屋だがどこかが違っている。

 消したはずの電気が煌々と点り、テレビでは寝る寸前まで見ていたアニメの同じ場面ばかりが流れている。体を起こせない。寝ぼけているのだと言い聞かせる。

 するとどこからか視線のような冷たい違和感が射して体を竦ませる。確信をもって首を横に向けると襖が薄く開いて何かが覗き込んでいる。女性であることが多いが、時には男性だったりする。

 彼らは常に同じ行動をとる。上半身を滑り込ませるように部屋への侵入を試み、恐怖で金縛りにあった僕は「これは夢だ。消えろっ!」と無言の絶叫を上げ、全身に汗を噴出させ目覚める。

 夢のなかの夢。

 時にこのくだらない夢を二重にも三重にも見ることがある。何度も同じ夢を見て、夢のなかで目覚めることを繰り返す。自分の現実が何処にあるのかを見失ってしまう。呼吸を整えて身を起し、掌を数回握り直して、これは「自分の現実」なのかを確認しようとするが、グレゴリーが自己喪失したのと同様に、自己への認識がうまく繋がらない。まだ夢を見ているのかもしれない。

 喉が渇いている。いや、渇いているような気がする。渇いていると、そう思い込もうとする。

 自分に役を与えないと夢から抜け出せない、そんな逼迫した感情が僕を無目的の行動へと追い立てる。

 おぼつかない足取りで階段を降り、リビングに向い、珈琲の用意をする。豆を挽きドリッパーに落とし、湯が沸くのを待つ。

 浴室の方で水が流れている音がする。

 ひょっとしてシャワーを閉め忘れたかと腰を上げ確認に向かうと水音は止んでいる。脱衣室の電気を点け浴室のドアを開くと水の流れた形跡がある。それは自分の入浴の跡なのか、新しいものなのかがわからない。飛び散っている水の量が多い気もする。

 ポットの警笛が耳に入る。僕は疲れているんだ、そう言い聞かせながらリビングに戻る。

 珈琲の香りが部屋を満たして行く。僕はテレビのリモコンを取り上げ、録画していたアニメの一つを選択する。暗い部屋のなかでテレビの画面だけが強い光を発している。先ほどまで眠っていたであろうコザクラインコがピピッと抗議の声をあげる。ああ、ごめんね、と声をかけ、僕はテレビを消し、暗い部屋でカップを口に運ぶ。再び鳥が鳴く。ロカテッリのヴァイオリンソナタが聴きたくなったが、また鳥たちに迷惑をかけることになると思い、控えた。

 珈琲の味がしない。

 クスクスクスと窓の外で誰かが忍び笑いをする音がした。

 僕はそれが空耳であることを知っている。

 症状が出ている。薬を貰いにいかないと駄目かもしれない。だが、朝早くにラッシュアワーの電車に乗り込むのも、病人だらけの待合室でじっとして得体の知れない病原菌を吸い込むのも、したり顔の医師が面倒そうに問診をする声も、僕は好まない。

 床についてからどれ程の時間が経過したのかと思いきや、時計を確認すると45分ほどしか経っていなかった。午前3時08分。

 小一時間に満たない些細な悪夢の繰り返し。効率が良いと喜ぶべきなのか、病んでいると呪うべきなのか。このまま朝を待って医者に行くのもいいが、そんな気は毛頭起きてこない。

 ビクっとテーブルに置き忘れていた携帯電話のバイブが震えた。

 こんな時間に、と思い、取り上げると、久しぶりに会いたい、と題されたメールが入っていた。アドレスの一部にkumi_1998_mayの文字列。性別と年齢の分かりやすい暗示にも全く覚えがない。そのまま開かずに削除する。期待と下心、需要と供給、自招危難と笑え。身に覚えのない期待に予感を感じることしかできない寂しさも確かに存在する。それを愚行と呼ぶか否かは立場の違いだけだ。

 インターネットによる匿名性が人間の卑屈さを増幅させ、陰険な犯罪の温床となってきた。これほど普及する前は、ネット上のメールフレンドでも、チャットでも紳士的な交友が多かった。その選択に心を疲弊させるくらいなら自ら距離をとったほうが良い。携帯電話の電源を落とす。

 不意に、村と言う子のことを思い出す。

 僕が体を壊し、埼玉の田舎町に療養していた小学校三年時に進級した頃に出った男の子である。彼とどんな風にして近づいたのか思い出せない。これといった特別なきっかけなどなかったのかもしれない。

 彼は俗に言う日本人ではなく韓国籍であったらしい。僕自身で確かめたことはないので断言はできないが、級友や彼の両親の言葉訛りからそう思わせるに不足な材料はなかった。

 彼は兄弟が多く、兄一人、下に三人。最年少の弟は入学を間近にしていた。

 村は校内では所謂落ちこぼれ組であり、爪は伸びて白く濁り、髪はバサバサで目に掛かり、いつも襟元に黄ばみのような沁みがあるグレーのシャツを着ていた。グレーは彼の好みだったのかもしれないが、常に同じ場所の汚れが目立っていたため、級友からは文字通りの一張羅と指さされ、どこにでもありがちな不潔の代名詞とされていた。

 僕に匂いは感じられなかったが、周りがそう囃したてるので級友の前では同調した。しかし彼にはそれを気にする素振りはなく、放課後になれば、これ以上の友達はない、というような笑顔で僕を誘った。

 級友の何人かは僕達のそんな関係を知ってはいたが学級を離れた場所では我関せずの様相だった。一人だけ、僕の隣の席の片田さんという女の子が心配して声をかけてくれた事がある。

 村くんといると警察につかまっちゃうよ、と。

 僕はその理由を彼女に尋ねたりはしなかった。いつもの中傷と同様にとらえていたので。

 僕が初めて彼の家に招かれた時、彼の両親の歓待ぶりは言葉に表せないほどであった。和男がトモタチつれてくるのハチメテ、こんなウレシイことない、と夕食まで共にと誘ってくれた。食卓にどんな料理が並んでいたのかは覚えがない。ただガチャガチャワイワイと大騒ぎであった騒がしい記憶だけが残っている。僕にはそれらに口をつけたという記憶もない。

 彼の家はバラックの平屋で、近くで行われている、終りの知れない大規模造成工事の労働者のための居住地区にあった。野卑な輩の溜まり場、無法者の集まりと指さされ、昔からの住民は近寄ろうともしなかった。そこで彼は生まれた。

 ある日、彼が真新しい肥後守を手にしていた。年齢に不相応な高価な品で、少なくとも村が手にする余裕などあるものではなかった。

 彼はそれをつかって遊ぼうと誘ってきた。男の子であれば誰しもが刃物の耀きに憧れるもの。僕も多分に漏れず、その光刃に惹かれた。

 村と僕は林に入り昆虫捕りを始めた。村はカマキリを、僕はハナムグリを捕まえた。彼はそれを平たい石の上に押さえつけ、まずカマキリの腕を切り落とした。次に頭を切り落とし。後肢と胴体だけになったカマキリを立たせて笑い転げていた。

 マダ、イキテルゼ、コイツ!

 僕達は次々と生き物を捕まえては分解した。

 それを村は実験と呼んだ。どこまで切り落とせば死ぬかを確かめるのだと笑った。昆虫から爬虫類へ、それに飽き足らず鼠や鳥。実験の標的は少しずつ範囲を広げていった。

 夏休みの終りかけ、村が、面白いものを見せてやるからついてこい、と誘いにきた。僕には大した好奇心もなかったが別に断る理由もなかったので、彼について行った。僕等はいつものように林に入り込み、そこにある廃材小屋を目指した。

 村は木戸をあけると先に乗り込んで行き、まだ入り口に立っている僕の胸にめがけて、縛り上げてあった実験材料を乱暴に放ってよこした。それは避けようとした僕の腕にあたって地面に落ちた。小柄な猫であった。

 猫は悲痛な声を上げていた。次に起こることは十分に予測できた。村の興奮に満ちた眼は常よりも大きく見開かれ、異様に輝やいていた。


 殺すの?

 殺さないよ。実験するんだ。世界のために。

 殺すんでしょう?

 違うって。科学の進歩のための犠牲だよ。


 僕たちの押し問答はどれほど繰り返されたのか覚えがないが、村は業を煮やして、モウイイヤ、ソコデミテロ、と言って屈み込み肥後守を猫に突き立てた。

 途端に全身を震わせるような怨恨の叫びが耳を突き抜けた。

 僕はその場を逃げ出した。その背に向けて村が喚きながら何かを放り投げてきた。肩のあたりにぶつかったポツンとした感触がそれがどの部位であるかを想像させた。

 家に逃げ帰った僕はシャツを脱ぎ、粘り付いた沁みを見ないようにして洗濯機に投げ込み、水を流し込んだ。激しい水流のなかでぶにゅっとしたシャツが沈み込むのが見えた。

 以後、僕は村と付き合うことはなく、彼も二度と僕に話しかけてはこなかった。

 僕達は知らない者同士の立場に戻ったのだった。

 その年の冬。

 三学期になってから村は一度も学校に来ることはなかった。

 誰もがその不在を気にしなくなった頃、担任が彼の転校を告げた。

 親御さんの事情で転校することになり、挨拶ができないことを本人がとても残念がっていた、とだけ言った。級友の誰もそれを本気にするものはいなかった。

 四年に進級して暫くたってからのこと学級父母会が開かれ、そのなかでひとつの噂がたった。

 弟の指を切り落として食べようとした。

 噂によれば、泣き叫ぶ声の異常さに気づいた母親が急場に駆け付け、指を拾って病院に運び、切り落とされた指は無事に繋げられたらしい。

 誰の事かは知らない。


 村が姿を消して季節はかわり、春一番が土ぼこりを巻き上げる通学路の畑道で、僕は竹垣のほつれた端にカナヘビが突き刺さったまま干からびているのを見つけた。

 百舌鳥の早贄。

 確かに百舌鳥の仕業かは知らない。

 人の手によるものかもしれない。

 目的の知れない犠牲の在り方が僕の脳裏に、村の姿を浮ばせた。

 そして僕は少しだけ羨ましさと懐かしさを滲ませて、こんなことを思った。

 肥後守はまだ彼のポケットにあるのだろうか。


 

 

 

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桐の花 帰鳥舎人 @kichosha-pen

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