第36話 凪子


佐川悦司は、仕事中に、凪子の最後の痛々しい笑顔を思い出していた。

「佐川くん。」

室長の井沢の声が、悦司を仕事へと引き戻した。


じゃあ、これをファックスしといて。

頼まれたファックス送信の間、また、しおりの事が浮かんで離れない。


「何か心配事?」

井沢は、敏感だった。

行きつけのショットバーへ、井沢は悦司を誘った。


実は…。


君の事は、宇津見凪子さんから、よろしくと言われていてね。


言い出そうとした、悦司の言葉を、井沢が遮った。

実は、大学の後輩なんだよ、凪子さん。


といっても、彼女は、アイビーに留学して外国で卒業しちゃったけど。


君のリンケージルーム配属は、君の実力なんだけどね。

君のことを、彼女知ってた。


彼女、君のことを、才能ある人だって、言ってたよ。

井沢は、カクテルを、飲み干しながら、続けた。


だから、仕事頑張って。


見てる人は、見てるんだから。


悦司は、井沢に、設楽しおりの事を言い出せなくなった。

代わりに出たのは、凪子のことだった。


凪子さんっていうのは、どういう人なんですか?


うん。彼女はね。昔から、英才教育されて育った女性でね。

母方の祖父の薫陶を受けて育ったんだ。


だから、父親の啓介氏も、凪子さんを娘としてというより、向井家の預かり者として扱ってきていてね。


あの親娘は、血というより、政治で繋がった親子なんだよ。


だから、佳代さん、つまり凪子さんのお母さんが亡くなった時も、啓介氏は、凪子さんを後継者に選ぶ。


宇津見の姓を名乗りながら、向井大老の血筋を継ぐ人物として、政界での影響力がある。


先日バレエ公演をご一緒したんですが…。


ああ、彼女、外国の賓客との社交に、そういったものを、使うみたいだね。

彼女の恋人の父親が、有名バレエ団の後援をしていた関係らしい。


恋人と聞いて、悦司は、高坂の風貌を思い出していた。


あれで、お茶、生け花、全部、身につけているから、物凄い…。


祖父の腹芸を、継承する女性として、宇津見家の茶室は、使われているらしいね。


凪子の政治力は、強固なものに、思われた。


井沢は、まあ、頑張ろうよ、と、悦司の肩を叩いて、帰って行った。


そうだ、明日、モンペリエ・バレエ団のアドレスを調べよう…。

井沢の後姿を見送りながら、悦司は考えた。


しおりの事を放っておけない、という気持ちがまた舞い戻ってくるのを、悦司は感じていた。


―つづく―




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