後編



 アイザックが死を忌避するようなことを考えたあの日から二日後の夜。ボロボロの衣服を身に纏ったアイザックは、人間のように二本足で立つレベッカを連れて、海岸へ来ていた。

 やっと嵐が過ぎ去ったこの日は、朝から一日中晴れており、これならば帰ることができるだろうと相談し、人気のない夜に帰ることを決めた。

 彼女を海へ何とかして運ぼうと考えていたアイザックだが、レベッカが二本足で立っている姿を見て、そういえば彼女が拒絶していただけだったことを思い出した。

 何故今までその姿を取らなかったのかと訊ねると、彼女は顔を赤らめて「この姿はちょっと恥ずかしかったんです」なんて言うのだから、ならば、仕方ないのかと諦めることにした。それはそれとして女性の裸体を晒しておくことに気が引けたため、小屋で見つけた布をせめて腰巻にしてもらうことにした。



 満天の星空の下。腰巻を身に着けたレベッカは、砂浜に足をつけ暫く歩きアイザックに手を差し出す。


「短い期間でしたが、お世話になりました」

「……あぁ、達者でな」


 哀愁を漂わせる表情の彼女の手を握ったアイザックは、ぎこちない笑みを浮かべて激励する。それに応じて礼を述べ微笑んだレベッカは、ゆっくりと背を向けて迷いなく海へと端を運ぶ。

 尻の辺りまで伸びた美しい金髪をなびかせながら、レベッカは一歩一歩遠ざかっていく。アイザックは、その光景を見ているのがとても心苦しかった。だが、目を逸らすことも抵抗があって、相反する気持ちを抱えながらもしっかりとその背を見つめる。

 アイザックは、この気持ちの矛盾に俄かに戸惑っていた。彼の心の内は、現在色々な感情が絡み合って非常に難解さを呈していた。

 レベッカが海に帰れて安心している気持ちは確かにある。しかし帰って欲しくない気持ちも無視できない大きさとして鎮座する。彼女が海に帰るまで見送りたいという気持ちもあるが、最後になる姿なんて見ていたくないような、歪な気持ちがあるのも事実。他にもレベッカに対する多くの感情が入り交じり、結果としてアイザックの心は非常に乱れていた。


 そして彼は、気持ちの整理もつかぬまま彼女の背を追う。浜を蹴り、全力で追いかけた。ここ最近の食糧採取等による体の痛みはあった上に、砂は障害物のように足に纏わりつき細い体を横転させる。既にレベッカは腿あたりまで海水に浸かっていた。このままでは間に合わないと悟ったアイザックは、喉を枯らして大声で叫ぶ。


「待って、くれ! まってくれ!」


 声を聞き取ったレベッカは、振り返らずに立ち止まる。それを確かめたアイザックは慌てて立ち上がると、震えた足でレベッカの元へ駆け寄る。


「俺は、お前に、帰って欲しく、ない……! だから、まって、くれ」


 肩で息をしながら漸く追いついたアイザックは、とにかく心の中を占めている気持ちを吐露することにし、レベッカの相槌なども待たずに喋り始める。


「俺は、お前が、無事に海に帰れることは、良かったと思っている。だけど、だけど、お前に帰って欲しくないし、帰るところを見ているのなんか、もっといやだ」

「……帰ってほしくないと思うのはともかく、帰るところを見ているのが嫌なら、見なければいいだけでしょう」

「そうだな、でも、これで……お前を見るのも、最後かと思うと、見ていなければと……思うし、その、見ていたいとも……思うんだ」


 必死に紡がれるアイザックの言葉に、レベッカは振り向くことなく俯き、何かを堪えるように唇を噛み締め拳を握り締めた。白い手がわなわなと震えているのが見えて、アイザックの心が罪悪感によって刺激される。


「やめて、ください、そんなの……どうすればいいのか、分からないじゃないですか……」


 震えた声を漏らす彼女にごめんと謝るも、アイザックに大人しく引き下がる気持ちもなく、それどころかレベッカの手を掴む。一瞬だけ彼女の体が強張り、手を離そうかと思ったが、彼女は振りほどくことなく脱力する。

 拒絶されなかったことに胸を撫で下ろして、悩みながらも言葉を紡ぐ。


「お前を、困らせるつもりは、なかったんだ。……それに、お前が海に帰ることはいいことってわかってる。いつまでも、あんな汚いバスタブにいるよりは、ずっと……いい。だから、本当は、行くべきだ。でも、いって、ほしくなくて……」

「困らせるつもりはないって、嘘じゃないですか。それに、矛盾、してます。……変です」

「……そうだな」


 まるで責めるように吐かれた言葉を、黙って肯定する。そうだ、自分はうそつきであると自覚していた。こうなるなら、何も言わずに見送るべきだったのだろう。胸の内で後悔の波が押し寄せ、彼女の手を離す。続けて、謝罪と見送る言葉を告げようと口を開きかけたその時。ワンテンポ早くレベッカが声を発した。


「どうして、困らせるようなことを、言うのですか」

「……それ、は……」


 弱々しく言い放ったレベッカに意表を突かれながらも、アイザックは考える。何故こんなにも気持ちに矛盾があるのか。いや、何故ここまで彼女を引き留めたい気持ちが強いのか。

 そうして思い出すのは、たった数日という短い間の落ち着いた日々。その日々にアイザックの心にあったのはあたたかな気持ちだった。今まで孤独に生きていた彼が感じたことのなかった優しさやあたたかさ、充実感がそこにはあったのだ。それは全て、レベッカと共にいたからである。

 アイザックは、レベッカとの会話がとても楽しかった。碌な話術も持たない彼に、にこやかに言葉をかけてくれることがありがたかった。笑顔を向けてくれる度に胸に火が灯ったような気持ちになり、孤独感や虚しさ、苦しさを抱いたことはなかったと断言できる。死にたいなんて一度も考えなかった。

 アイザックは漠然と思考する。

――これが、幸せというものだったんじゃないのか?

――だったら、俺は、この数日がとても幸せだったんだ。

 理解した瞬間、突然溢れ出た涙がはらはらと頬を伝う。突然の決壊に驚くが、相手にはまだ気づかれていないのをいいことに慌ててそれを拭う。

 そして、恐る恐る唇と喉を震わせた。か細い声が空気を振動させていく。


「俺は、俺は……きっと、お前といられて、幸せだったから、離れたくないんだ」

「幸せ……ですか」

「そうだ。何百年も、何回も、物心ついてから、俺はずっとひとりで孤独に過ごしてた。毎日が、苦痛だった俺が……初めて、この数日間、孤独感や苦痛を得なかった。……死にたいと、思わなかった。とても、充実していて、幸せだった。だから、その……お前が、海に帰ると、俺は、幸せを逃がしてしまう。それは、とても、嫌だと思ってしまったんだ……」


 必死に思いの丈を口にしながら、自分が気味の悪いことを言っているのだろうと考えた。美形だったら大胆な告白でも、自分のような美形でもない男が言ったところで気味が悪いだけだろうに。引かれていないといいなと思いながら、アイザックは返事を待つ。

 一方のレベッカは、返答に迷っているのだろう、なかなか言葉を返さない。仕方ないとはいえ、沈黙は少々辛い。

 それから暫くして、ぽつりとレベッカが言葉を返した。


「貴方は、私と一緒にいたら、幸せになれるってことですか」

「あ、あぁ」

「それは……私と一緒にいるのが嫌ではないということですよね」

「そう、だな」

「では……私のことが、好きだということですか」


 いきなり呈された意外な質問に僅かに動揺したが、きっとそれは間違いではないのだろうと、再度肯定する。


「……お前といることも、お前自身も、きっと、好きなんだと思う。多分、そうだ」

「……そう、なのですね」


 こんなみすぼらしい男に好きだと言われるなんて、確実に不快感を与えただろう。何も言われず走り出したとしても文句は言えない。ここは否定すべきだったのでは――なんてことを思っていると、レベッカはゆっくりとアイザックへと振り返った。そして躊躇いなくアイザックの細い手を両手で握った。その行動に仰天し彼女に目を見やると、その先で確かめた彼女は、どこか嬉しそうにほんのりと頬を紅に染めていた。

――なんだ、その反応は。

 呆然とするアイザックの手をきゅっと握って、レベッカは言葉を紡ぐ。


「私は、嬉しいのです。……私も、貴方のことが、好きですから」

「え?」

「貴方の気持ちと私の気持ちが、完全に同じかは分かりません。でも、近いのだと分かったことは、とても嬉しいのです。……私も、貴方といられて幸せだったから」


 笑みを湛えたレベッカは、アイザックに近づくと細い体に手を回しそっと抱きしめた。彼女の白い肌と柔らかい髪がアイザックの細い体を包み込む。現状を把握した途端、一気に顔が熱くなった。


「おい、お前何をしている。離せ」

「嫌です」

「こんな俺にくっつくな。お前が汚れるだけだ」

「そんなことありません。私は今、とても幸せですから」

「お、おかしなことを、言うんじゃない……」


 抱きしめられた直後、暫くアイザックは身を捩り抵抗していたが、彼女の言葉に思わず動きを止める。おかしなことと否定しつつも、レベッカが好きだと、幸せだと言ってくれたことはとても嬉しく、胸が力強く高鳴っている。


「……貴方は、私を殺そうとしなかった。助けてくれた。疑いの目を向けた私に、とても優しくしてくれた。私のために水を用意して、嵐の中食料も拾いに行って、話相手にもなってくれた。……貴方は、私のためにたくさんのことをしてくれた。今日だって、私をどうやって海まで運ぶか考えてくれて、こうして見送りまで来てくれて……」


 レベッカの声はそこで途切れ、あとは嗚咽と、途切れ途切れにか細い震えた声が響く。白い頬を伝った涙が、アイザックの肩口を濡らす。

――俺のために泣く人間なんていたのか。……いや、こいつは人魚なんだが。

 下らないことを考えながら、アイザックはレベッカの頭を撫で、震えた手を背中に回した。さらさらとした綺麗な金髪を柔らかく撫でると、甘い不思議な香りが鼻を擽った。なんの香りかは分からないが、好ましいものである。なんて思考に浸っていたアイザックの意識を、レベッカの声が呼び戻す。それは、彼女の心からの言葉だった。


「私を拾ってくださったのが、アイザックさんで、本当によかった……」


 目に涙を溜めながら穏やかに微笑んだ彼女は、ゆっくりとアイザックを解放し、距離を置く。そして、名残惜しそうに別れと謝罪の言葉を口にして背を向けた。

 その瞬間、アイザックの背中はレベッカが離れてしまうことに対する恐怖に粟立った。

――いやだ、行かないでほしい。離れないでほしい。

 その気持ちの赴くままに、アイザックは彼女の腕を掴み、またも引き止める。想いが通じ合ってる相手と共にいたいと考えることは、決しておかしいことでは無い。アイザックはその気持ちを示す。


「俺も、海に、連れて行ってくれ」


 真っ直ぐに伝えたアイザックに、レベッカは瞳を揺らがせる。暫し逡巡した彼女は訳を問う。その問にアイザックは短く想いを零した。


「……単純な理由だ。お前と離れたくない」

「私もです。でも、貴方は海では生きていけないでしょう」

「そうだな、それにお前は、陸では生きられない」

「……私が人間の姿をとるにも、限度はありますから」

「そうだろうな。だからこそ、俺はお前といきたい。今幸せだと感じているこの状態で、死にたい」

「…………そう、ですか。でも、ダメです。私はあなたに死んでほしくありません。生きてください」


 無表情ながらも感情を込めた言い方に、レベッカは悩んだ。眉を顰め俯き、少し悩んでからアイザックの想いを棄却する。

 愛する者と共にいたい事が当たり前の感情なら、愛する者に生きてほしいのも当たり前なのだ。

 どことなく悲しげな感情を瞳に湛えて、指先をアイザックの頬に添わせる。


「私、また貴方に会いに来ます。ですから、そんな悲しいこと言わないで、生きてください。私といる時は、死にたいなんて思わないんでしょう?」

「…………そう、だな」

「だったら私と生きてください。人間同士の男女のように生きることは出来なくても、何か方法はあると思うんです」

「あぁ、そうだな……俺が軽率だった」


 レベッカに諭されて頭を冷やしたアイザックは、自嘲気味に笑みを浮かべ、掴んでいた手を開く。

「わかっていただけたらなら、いいのです」――安堵したように呟いたレベッカは少しだけ距離を置いて優しげに言った。


「五日後の夜に、また、ここでお会いしませんか?」

「いいだろう」

「では、それまでに、死なないでくださいね」

「もちろんだ」


 提案に力強く頷いた様子を見て、レベッカは微笑むと、彼女は安らいだ顔つきで背を向けた。ざぶざぶと彼女は海に向かって歩いて、揺れていた金の髪が海面に浸かる。やがて彼女の体全てが海に沈み消えていく。直後、水面から大きな魚のヒレのようなものが出現して、直ぐに呑み込まれていった。

 その姿を最後まで見ていたアイザックは、緩やかな風を身に受けながら、ひとり佇んでいた。彼の表情は、どこか満足気だった。



 それから五日後の夜。アイザックは少しだけ身なりを整えて、レベッカと再会した。

 好意をもつ相手に改めて会うのに、変化ゼロは良くないのではと考え、ほんの少しだけ髪を整えた。

 久しぶりに会う彼女はどんな様子なのだろう、そもそも本当に来てくれるのかと落ち着かない気持ちで海に向かい待っていると、暫くして海から顔を出したのは、以前と変わらず美しいレベッカだった。

 彼女は、自身が来れるギリギリの位置に体を委ね、アイザックはその少し手前にしゃがみこむ。


「お久しぶりです、アイザックさん」

「あ、あぁ。久しぶりだ」

「来てくれてよかったです」

「そうだな、俺も、そう思ってる」


 お互い似たようなことを考えていたらしい。そんな些細なことに笑い合いながら、ふたりは逢瀬を楽しんだ。

 因みにアイザックの僅かな変化にもレベッカは言及し、褒め、彼の気持ちをどれだけか上げたという。

 それから、ふたりはこういった逢瀬を何回も重ねた。言葉を交わし愛を育んだ。人間の男女のように家庭もつことや子を成すことはなかったが、それでもふたりは幸せだった。

 もちろん全てが順調という訳ではなく、時にトラブルも起こり何度も喧嘩もしたが、最終的には関係を修復していた。

 そんなことを繰り返すうちに、アイザックは、確かに今の生を幸福だと感じ、もう自殺を考えることはなくなっていた。



 それから数十年。海に身を浸したアイザックは、皺が刻まれハリを失った手で、体を抱きとめてくれているレベッカの手を握る。

――冷たい。寒い。

 口にした声はとても小さく、彼女の耳に届いただろうかと不安になった。だが、直ぐにレベッカは小さな呟きに言葉を返す。


「やっぱり、寒いですよね。小屋に行きましょうか?」


 レベッカが向けた先にあるのは、初めて会ったあの日からずっと使い続けている小屋だ。持ち主も分からず酷い有様ながらも勝手に使い続けていたそこは、真っ当に生きるようになりつつあった彼はの住家となっており、ある時突然思い立った彼はそこを正式な住居とすることを決め、四苦八苦しながら手続きを済ませた。後にある程度の改装が施し今ではそれなりに綺麗な海辺の小屋になっていた。

 そんな小屋がすぐそこにあるのだから、なにも海に浸かる必要はないというレベッカの判断は正しいだろう。温暖な時期とはいえ、いつまでも海にいるのは決していいことでは無い。レベッカも、あの場所まで彼を抱えて移動することくらいはできる。そう思っての提案だったが、アイザックは緩く首を振る。


「ここが、いい……おまえ、と、いたい」

「……そう、ですか。移動したくなったら、いつでも言ってくださいね」

「……ん」


 青白い顔で、アイザックは不安げな面持ちのレベッカを見上げる。当時若かった男がここまで老け込む程の年数が経っているのに、彼女は若々しかった。決して一切老けていない訳ではなく多少の老いは窺えるのだが、人間よりもずっと遅いペースであることは確実だ。まるで親子か、それ以上にも見える外見年齢の差だった。


「……レベッカは、何年経とうとも、美しいな」

「ありがとうございます。アイザックも、幾つになっても素敵ですよ」

「そんなことをいうのは、お前くらいだな」

「だったら、他の人にあなたを取られる心配がありませんね」

「はは、そうだなぁ」


 柔らかい笑みを零すアイザックは、段々と深い眠気に誘われていた。

 ただでさえ老齢となっている上に、海の温度が体温を奪う。自ら終わりを求めているようであったが、決してこれは嘗てのような絶望の末の行動ではない。ただ、以前より思っていただけなのだ。愛する者の腕の中で、此処で、終わりを迎えたいと。

 穏やかな波が、アイザックの体を撫でる。それに呼応して、身が震えた。


「眠いですか?」

「……あぁ、そうだな、ねむく、なってきた」

「そうですか……」

「こら、なくな」


 見上げた先では、レベッカが目に涙を溜めていて、アイザックは弱々しい声でそう言った。けれど彼女は、嗚咽混じりに言葉を漏らす。


「だって、嫌ですよ、あなたが……っ、いなくなってしまうなんて」

「そうだな、おれも、おまえと、はなれるのは、いやだ、な……」

「……っ」

「いまなら……ふろうや、ふしを、もとめるにんげんのきもちが、わかるきが、する、な……」

「アイザック……」

「あ、んな、に……しに、た、かった……のに、なぁ……いまは、しにたく、ないんだ」

「……では、私の肉、食べますか?」

「ありもしない、うわさ、なんだろ……それに、じじつと、しても、もう、おそいな」

「そう……」


 捨て鉢気味に言ったアイザックは、ゆっくりと目を瞬かせて、レベッカを見つめる。そして、にこりと微笑んで囁くように言った。


「おまえと、であえて、よかった。……おれは、ずっと、レベッカを、あいし……――」


 その言葉を最期に、アイザックはゆっくりと目を閉じた。

 レベッカは何度も彼の名を呼んだが、眠りについた老人がその呼び掛けに応じることはなかった。

 レベッカは冷たくなった彼を抱きしめて、一頻り涙を流した後、彼の亡骸を連れて海の中へと泳ぎ始めた。その時だった。

 アイザックの体はまるで水に溶けるように崩れ、体も衣服も何も残さず消え失せてしまった。

 先程まで腕にあった体の消滅という異様な現象に、レベッカはただ呆然とするしかなかった。

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