死にたがりと人魚

不知火白夜

前編

 豪雨の音以外何も聞こえないような嵐の夜。黒いインクのように真っ黒な空と、その中に浮かぶ灰色の雲の下。痩せこけた体を雨に晒した男が、荒れ狂う海を目前に海岸をよろよろと歩いていた。

 中背に似合わぬ細い足に、暴風に乱されるままのボサボサの髪。灰色の海を見つめる黒い瞳は非常に虚ろである。そんな明らかに異様な印象を抱かせるであろう彼は、ある目的の為に海にやってきた。


「…………これで、きっと……しねる、はずだ」


 男は今まで何度も何度も絶望感を味わった。

 周囲からのひどい暴行や罵り、蔑みは日常的。奴隷のようにこき使われることも多々あった。自分の居場所などどこにもなく必要ともされず、裏切られ貶され、何もかもを失った。谷底に突き落とされたような恐怖や絶望を幾度も味わいながらもそれでも諦めず必死に生きた。しかし耐えてきた糸がぷつりと切れて、楽になることを選んだのがのこと。

 弱った体に鞭打ってなんとか当時の環境から逃げ、高所より身を投げた。ようやく解放されたと安堵したにも関わらず、男は、気がつくと今まで見たことも無い街の片隅で横たわっていた。

――自分は間違いなく、高所より身を投げたはずだ。今までのことは、夢だった?

 しかし夢にしては異様だった。男はそれまで経験した暗い人生、自らが吐かれた罵倒なども全て覚えていた。暴行による怪我も痛々しく体に証拠として残っていたのだ。

 更に近くにいた者に今日の日付を聞けば、なんと自身が身投げした日から一日も経過していない。仮に生まれ変わったのだと判断するにも辻褄が合わず、異常な現象であることに違いはなかった。

 自らの体験を不気味と感じつつも訳が分からないままその街で比較的穏やかに数年過ごした彼は、後に不運な事故で死したのだが――また、彼は全ての記憶や経験を所有したまま別の場所に降り立っていたのだ。

 その事に気づいた男は、思わず恐れに身を震わせた。

――なんで、こんな、ことが……?

 前世の記憶だという考え方もあるにはあったが、以前と容姿も性格も、体中の傷痕も変わらぬまま生まれ変わることはあるのだろうか。

 男にはいくら考えても分からなかった。ただ、前世の記憶や怪我の何もかもをそのままに目を覚ますということが、まるで「お前に死ぬことはできない」と言われているようで、とてもとても恐ろしくなり、気がふれそうだった。

 自ら死を選んでも、事故により死亡しても、誰かに殺されても死ぬ事ができない。どうすれば自分は死ねるのかいくら考えても分からず、試せど試せど無意味だった。

 それでも、思考停止により生きることに活路を見出さなかった男は、いつしか死ぬために生きているという奇妙な日々を過ごしていた。



 そして、最初の死から数百年。何回目かも分からぬ生を味わった此度は、悪天候の日の海へ入水するという方法を試すことにした。

 黒い空の下にある広大な海は、前述のように荒れ狂い大きな波ができている。人の体など容易く飲み込むであろう波がいくつも踊り、砂浜にも押し寄せ足を濡らすが、男は躊躇うことなく海へ向けて歩みを進める。

 冷たい水が体を冷やしていく。ざぶざぶと海に浸かり下半身を、腹をどんどん濡らしていく。ふと前方を見上げれば、大きな高波に揉まれる一艘の船が見えた。その船がどのような理由で出港しているのかは分からないが、まるで死出の旅への共がいるようで、悪くないと思えた。

――今回こそ死ねるという確証もないのになにを思っているのやら。

 自らを嘲笑いながら、全身を冷水に浸して、体を沈めていく。

 当然息が出来なくなり、海水を飲んだせいで喉や鼻の奥が痛く苦しかった。口からボコボコと気泡を吐き出しながら目を開けると、目の前にあるのは暗い海。中に浮かぶは木の枝等の異物や泳ぐ魚たち。船から落下したらしき人影もあった。

 やがて自分の意識は消え失せていくだろう。二度と目覚めぬことを祈りながら目を閉じようとしたその時。視界の端に、随分と大きい魚のヒレが写った。


 思わず目で追った先にいたのは、大きな魚――いや、人魚だった。

 艶めかしく動く魚の尾びれと、その先に繋がる女性の上半身と、静かに靡く長い金色の髪。光が射していない海の中でも美しく輝いて見えるそれに、思わず目を見開いた。

――これは……人魚? こんなもの、実在したのか?

 目の前の光景が信じられず、呆然と口を開ける。気泡越しに映るそのシルエットはきっと見間違いなのだろう。そうとしか思えないが、自分のような不死者のようなものが存在するならば、虚構でもないのかもしれない。

 様々な思考が頭をかけ巡りその影を求めるように手を伸ばしたが、白い指先が影に届く前に男の意識はぷつりと途切れた。その直前に思ったのは、ただ、目の前の影を美しいと感じたことだけだった。



 それからどれだけ時が経ったのか。男が目を覚ました時に横たわっていた場所は、未だに黒い空が広がって大雨が辺りを濡らし、遠方では波が荒れ狂う海が望む岸だった。

 体に異変は見られないが全身は雨水と海水に濡れており、昨夜の入水が失敗したことを自然と悟る。

 場所が全く変わっていない異変などどうでも良くなるくらいに、死ねなかった事実に打ちひしがれ愕然とした。予想していたこととはいえ、ダメージはある。ふらふらした頭の片隅で、次の自殺の方法を考えながら朧気に立ち上がると、自分の傍らにある人物に気がついた。

 それは、全身を水で濡らした金髪の女性だった。しかもただの女性ではなく、何も衣服を身につけていない人間の上半身に、魚の下半身。つまり人魚である。

 何故こんなところに伝説上の存在である人魚がいるのかと瞠目したが、その人魚が昨夜海の中で見かけた人魚とよく似ていることに気がついた。

 あの時思わず手を伸ばした相手が目の前にいる。その事実に胸に淡い喜びを通し、その傍に膝をついた。

 陶磁器のような白い肌に、蜂蜜色の長い髪。長い睫毛に縁取られた瞳は見えぬが、宝石のように輝かしいのだろうと自然と予想しており、その瞳が見たいと、彼女と話してみたいと漠然と思ってしまった。

 つまり男は、この女性を捨て置く選択ができなくなっていた。

――俺らしくない。でも、これも、なにかの縁なのではないか?

 奇妙な感情に胸をバクバクと高鳴らせながら、男は辺りを見回し、たまたま目にした小屋に、女性を運ぶことにした。



 震える体で女性を抱え、小屋のドアを開けると中は荒れていた。昨日の暴風が窓から入り込んだのだろう、元々あった物品が辺りに散乱し、酷い有様だった。裸足の彼が廊下を歩けば何かの破片が足に刺さり僅かな痛みを植え付けるが、そんなこと気にもとめず、バスタブを見つけた彼は、綺麗な器でないことに内心詫びを入れつつ、ひとまず彼女をその中に入れた。

 しかしこれで終わらない。彼女が本当に人魚であるならば水が必要なはずだ。このまま置いておけば彼女は死んでしまうのかもしれない。それを恐れた男は、近くにあった桶を片手に暴風雨の中飛び出した。


「………これで、いいだろ……」


 それから数時間。ひどく疲弊した男は、掠れた声でそう呟くと床へ倒れ込んだ。

 バスタブにて眠る女性の為に風雨に晒されながら小屋から海へと数回往復するという仕事は、体力のない彼には相当厳しく、何度も力尽きかけた。だが不思議と途中でやめる気も後悔もなく、それどころか早く彼女に目を覚ましてほしいと思っているほどだった。何故そんなことを思うのかだけは分からないまま、男は体を起こし壁を背に座り込んだ。



 それから数分後。依然として休息を取っていた男の耳に、聞き慣れぬ声が届く。恐らくバスタブに寝かせたあの女性だろうと目を向けると、そこには予想通り状況を理解出来ず辺りを頻りに見回す女性がいた。


「……ここは……?」

「あぁ、気がついたか」


 愛らしい声に異様なほど不釣り合いな掠れ声で返すと、ルビーの如き瞳が驚きに見開かれた。その瞳は不審者とも言える男を捉え、彼女は怯えた声を上げ、多少後ずさる。そういった様子を見て、怯えられた事実に悲観、憤慨するどころか『無理もないだろう』と胸の内で納得した。

 波に呑まれなんとか助かったと思ったら、見知らぬ場所と怪しい男。男が似たような状況になったとしても多少の怯えはあるだろうに、女性の身となればその恐怖も倍増するだろう。

 男はできるだけ相手を怯えさせぬよう距離を置いたまま、ゆっくりと声をかける。


「……大丈夫か」

「こ、ここは、ここはどこなのですか……貴方は誰です……!? それに、皆は、どこに……!?」


 男の言葉に正確に返答することなく、女性は顔を青くしながらそう続けた。男は、その場から動かずに掠れた声で順番に一つずつ質問に答える。


「ここは、お前がいた海の近くにあった持ち主不明の小屋。俺が誰かは……名無しだから分からないが、多分人間の男だ。皆とは誰か俺には知りようもないし、どこにいるかも分からない。以上だ」

「では……私は、なんでこんなところにいるのですか?」

「……昨夜の嵐のせいで、浜辺に打ち上げられたらしいお前を、俺が見つけて、ここに連れてきた」

「……そう、なの、ですか」


 男の言葉を聞いた彼女は、考え込むように黙り込む。信じていいものかどうかなど考えているのだろう。特になにも口出しせず見ていたが、突然彼女は何かに気づいたようにハッとしたかと思うと、それまでの怯えた様子から打って変わって、尖らせた瞳で男を睨みつけた。心境の変化に驚く男に、彼女はきつく言い返す。


「どうせ貴方も不老不死を求めて私を殺すのでしょう!」

「……は?」

「とぼけないでください!」


 軽蔑を孕んだ目を向けられ、なんのことかと暫し考える。その直後、思い出した。人魚の肉を食べれば、不老不死になれるという信じがたい伝説があるということを。


「そんなありもしない伝説のせいで、多くの仲間が捕らえられ殺されました。研究のためなんて言ってひどい扱いを受けた子もいます。貴方も、そうなんでしょう!?」


 彼女は口調を荒らげて憎悪の篭った目を男へと向ける。爆発しそうな怒りと憎悪が部屋に満ちた。しかし、男はそれを祓うように溜息をつくと、光の宿らない虚ろな瞳を向けて、口にする。


「……お前の肉が、食べたものを即座に殺す肉なら、俺は食べたかもしれないな」


 彼女は予想外の返答に僅かに目を見開く。その目に宿るのは、素直な驚愕の意だった。

 男は諦めを込めたように、更に続ける。


「俺は、死にたがりなものでね。昨日だって入水自殺しようとして海に行ったんだ。だが死ねなかった。首を吊ったり身投げしたり毒を飲んだり色んなことをやったさ。だけど、死ねなかった。そんな俺が、不老不死を求めてお前を捕まえると思うか? あり得るわけない。俺には不老不死なんていらないんだ」


 虚ろな表情で饒舌に言いきった男を、少しばかり怪訝そうに見つめた彼女だったが、悩むように視線を動かす。


「そんな嘘、信じると思いますか」

「信じないか、それはそうだ。何なら俺の体を見ればいい。自殺を試みた痕があるからな。それで死にたがりだというのは信じてくれ。分かりやすいのは首のこれか? あとは……腕か」


 白い肌に淡く残る縄の後を指さした男は、緩く口角を上げて袖を捲る。そこから現れたのは、白い肌に夥しく広がる傷痕。切り傷や刺し傷、火傷など痛々しい証拠が広がっていて、彼女は引きつった声とともに後ずさる。


「悪いな、嫌なものを見せて。だがこれで俺の言い分は分かってもらえたか」

「……は、はい……はい、そう、ですね……」


 青白い顔で朧気に答えた彼女の目線は暫し宙を泳ぎ、再び男へと戻る。


「……ひとまず、貴方の言うことを信じます。疑って、すみません」

「いや、いい。疑うのも無理はない」


 彼女の謝罪の後、張り詰めていた空気が緩やかに変化していくのがわかる。真剣な眼差しから、信じると言ったのも本当なのだろう。男も少しだけ胸を撫で下ろした。


「……でも、貴方が私に危害を加えようとしたら、何するか分かりませんから」

「あぁ、それでいい」


 男は、彼女からのその言葉も当然のように受けいれ、一旦話に区切りをつける。

 空気も変わり、緊張感から解放された彼女は、バスタブの中で少し体勢を変えた。続けて、先程の怒りに満ちた表情から一変した落ち着いた表情で口を開く。


「そういえば貴方のこと、なんと呼べはよろしいのですか?」

「は? なんで名前なんか聞くんだ。それに、さっきも言ったが俺は名無しだぞ」

「でも、恩人とわかった人を名無しで終わらせるのもよくないかな、と思いまして。なにか、こう呼んでくれって言うのがあればなと……あ、私は、レベッカといいます」

「………………じゃあ、アイザックで」


 変な女だ、と思いながら、男は彼女――もといレベッカの名を聞いて、適当に思いついた名前を口にする。自分でも嫌な関連の付け方だとは思うが、思いついたのだから仕方ない。

 一方レベッカは男が名乗った『アイザック』という名を復唱し、良き名だとほほ笑んだ。

 先程まで怒りを向けていた相手に見せる表情にしては気が緩みすぎだろうとも思ったが、何も口にせず、息を吐いた。


 それから、海に安易に戻れぬほどの悪天候を理由に、小屋滞在することにしたレベッカとの生活が始まった。

 人の姿をとることを拒絶したレベッカに悪態をつきつつも食料を取りに出かけ、お喋りが好きなレベッカの話に耳を傾けた。彼女の話は退屈しなかった。

 一日が経過しても、外は相変わらず悪天候。そんな中外に出るのはとても難儀したが、木の実等を見つけて戻ると、レベッカが笑顔で出迎えてくれるのだから、悪い気はしなかった。

 ところで、海で育った彼女は木の実を食べられるのだろうかと疑問を抱いたが、そんな不安をよそに喜んで食べだしたため安堵の息を吐く。一体どのような体の構造をしているのか頭を捻ったが、考えても分からないため捨て置くことにした。

 頭を動かしていたアイザックを尻目に、レベッカはニコニコと木の実を頬張る。


「アイザックさんは食べないのですか? これ、甘酸っぱくて美味しいですよ」


 バスタブの傍に立つアイザックに差し出されたのは、レベッカの目と同じように丸く濃い桃色の果実。確かにおいしそうではあるが、死にたがりには不要なものだと必要ないと断った。

 食べたくない――そう言って顔を背けたアイザックに対し、レベッカは不満げに頬を膨らます。


「そんなことを言ってはいけません! それに、今あなたに死なれたら私はどうすればいいんですか!」

「……それは……知らん。一人で帰れ」

「もう、酷いことを言うのですね」

「俺はもともとこんなんだ」

「いいから食べてください!」


 少しだけ声を荒らげたレベッカは、アイザックの細腕を掴み引き寄せると、無理矢理口元へ果実を押し付けた。強引な方法に初めは抵抗を試みたが、じきに諦めたアイザックは恐る恐る口を開き、その果実を一口齧った。途端に、甘酸っぱい果汁が飛び出し、甘い味が口に広がる。


「美味しいですか?」


 柔らかい笑みと合わせて向けられた問いかけに、ただ頷くしかなかった。何日ぶりか分からないくらい久しぶりに口にした食べ物はとても美味しくて、確かにアイザックの体を満たしたのだ。


「……うまい」

「そう言ってくれてよかったです。アイザックさんが見つけてくださったのですから、貴方も召し上がってもよいのではないかと思いまして」

「……そうか、それは、その、ありがとう」

「いえ、どういたしまして」


 花が開くように微笑んだレベッカの優しさに、僅かに心が満たされる。そして、こうして彼女に喜んでもらえることは、とても嬉しいと素直に思っていた。更に、思う。彼女を海に返すまでは、死にたくないと。

 それは、アイザックが初めて抱いた感情でもあった。

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