1章 不穏な噂 その3
「あの戦か……」
シャルロットは表情を曇らせて小さく呟いた。その声は誰にも届かず、マルクは言葉を続ける。
「下町の服屋で生まれ、十八歳で衛兵隊に入隊。その頃が最も戦争が盛んで、軍功を重ねてとうとう前国王からアンベリー伯爵家の名家を授与された」
「無名の服屋から伯爵へ。夢のようなサクセスストーリーですわ」
アンヌの言葉に、うんうんとピエールが頷く。
「そして王様になるんですね! 僕、憧れちゃいます!」
「玉座についてからは税率を下げ、教育環境を増やして、インフラ整備にも力を入れている。国民に支持されないはずがない。先王陛下も民を思いやる優秀な人物だったが、戦争が続いていたから、内政まで手が回らなかったんだろう」
シャルロットは考えるような表情で、アップにまとめたブロンドの巻き髪を指先で撫でた。
「それではなぜ“無能で政治が回っていない”という噂になるのじゃ?」
「分からん、根も葉もない。先王陛下には二人のご子息がいるが、共に放蕩三昧で身代を潰しかねない勢いだった。先王陛下は子に継がせては国が傾くと判断して、側近や枢密院の顧問官と協議を重ねた結果、アンベリー伯の名があがった」
「ほほう。吟遊詩人の英雄譚を聞いておるようじゃ」
「かくしてアンベリー伯は三十二歳の若さで戴冠し、ウォルター一世が誕生した」
「現在三十四歳ですわね」
「そうじゃ、他にも王族で美しい者がおるらしいの」
「それは知らんが……、お前はいい加減、その拘りをやめろ」
「“美し者好き”か? これは生まれつきじゃ。誰にも迷惑をかけておらんだろう」
場の空気が止まったが、シャルロットだけが気づかない。
「しかし、妾の美の基準がマルクやアンヌになってしまったからの。なかなか美しい者が見つからん」
「姫様、それは駄目ですよ。お二人とも飛び抜けていますから、比べたりしたら、他の方が可哀想です」
ピエールがシャルロットを窘める。
「じゃが、シュルーズメアにはいるかもしれん!」
シャルロットは顔を輝かせて、すっくと立ち上がった。
「決めた! 妾は、シュルーズメアの王に会いに行くぞ!」
「ええーっ!」
ピエールが声を上げて驚く隣で、マルクは呆れ顔になる。
「押しかけて、プロポーズでもする気か」
「違う。妾な、いいことを思いついたんじゃ!」
シャルロットのキラキラした顔を見て、マルクは耳を塞ぎたい心境になった。
「そもそも妾は、婚約の手順に不満があったのじゃ。会ったこともない者と結婚するなんて、おかしかろう? 結ばれる二人は色々な障害を乗り越えて、恋を実らせて結婚するものじゃ!」
「悪い本でも読んだのか」
「アンヌがさっき言っていた“出会いから体験”するというのは、会いに行けという意味じゃろ?」
「お察しのとおりですわ」
「……元凶はお前か」
マルクが眉を顰めて睨むも、アンヌはにっこりと笑顔で返した。シャルロットの暴走の大半はアンヌが煽っているものと、マルクは踏んでいる。
「陛下に会ってどうする。一度や二度の謁見で、恋やら愛やらが始まると思っているのか?」
「思わぬ」
シャルロットは頭ひとつ以上高い位置にあるマルクを見上げた。
「妾は身分を隠して、シュルーズメア王の近くで働くのじゃ。毎日接しているうちに、二人は恋に落ちるのじゃ」
シャルロットは架空の人物を抱きしめるような仕草をした。
「……」
マルクが嘆息するその横で、ピエールは感動したように両手を組んだ。
「使用人と王様の恋ってわけですね! それは障害がたくさんで面白そうです!」
「そうじゃろ! 両思いになった二人は身分の差に悩む。そこで妾が、このヴァローズ帝国のジョアシャン三世の娘だと打ち明けるのじゃ!」
「うわー、ハッピーエンドですね!」
パチパチと手を叩くピエール。
「でも姫様、身分を隠してシュルーズメアで働くなんて、そんなこと出来るんですか?」
「それはマルクの考えることじゃ。なあマルク?」
「不可能だ」
二人が盛り上がっているところを、マルクはピシャリと打ち切った。シャルロットは驚いてマルクに飛びつく。
「なぜじゃ! マルクなら出来るじゃろう!」
「俺じゃなくて、ジョアシャン陛下に頼め」
「父上では一蹴されるだけじゃ! 父上にも母上にも内緒で、こっそり帝国を抜け出して行くのじゃ! 妾たちだけの秘密じゃ」
「無茶を言うな、国際問題になるぞ。俺を犯罪者にするつもりか」
「マルク、お願いじゃ。さっきは大げさに言ったがの、妾、恋をしてみたいだけなんじゃ。上手くいかなくても、戻ってきたら母上の言うことを聞いて大人しく結婚するつもりじゃ。最後のお願いじゃ!」
「……」
青い瞳を潤ませて必死に訴えるシャルロット。しばらくその顔を眺めた後、マルクはどうしたものかと顔を上げ、チラリとアンヌを見ると目が合った。
「マルク様、親衛隊にご親戚がいらっしゃるのなら、王城で働くツテはあるのでしょう?」
しまったこいつは敵だった、とマルクは心の中で舌打ちした。
「百歩譲って城に勤められたとする。だが他国に忍び込んだことが発覚すれば、斬られても文句は言えないんだぞ。罪名なんていくらでもつけられる。その罪はお前だけではなく、陛下にも及ぶかもしれない。軽い気持ちで危険なことを言うな」
「わ、妾……妾……」
マルクに厳しく諭され、シャルロットはシュンとして俯いた。
「ウォルター陛下は生涯独身を貫くと宣言しているらしい。同じシュルーズメアでも、別の王族に正式に求婚すればいい」
沈んだシャルロットの様子に、マルクは声を和らげた。
「それでは意味がありません」
アンヌはマルクの腕からシャルロットを奪うと、優しくその体を抱きしめた。
「シャルロット様は恋をしたいと希望されているのですよ。もう結構です、マルク様には頼みませんわ。シャルロット様、私と二人でシュルーズメア王国に行きましょう。私だけでも、充分お守りできますから」
「おお! 本当か、アンヌ!」
国外での冒険に胸を膨らませていたシャルロットは、再び表情を輝かせた。
「ええ、女二人旅も楽しいものですわよ」
二人が背を向けて歩き出すと、マルクは黙っていられなくなった。
「待て、二人だけでは道中だって危ない。山ひとつ越えるんだ。戦争が終わって、仕事にあぶれた元兵士が山賊化しているんだぞ」
アンヌは足を止めて、首だけで振り返った。
「ですけど、一緒に来ては下さらないのでしょう?」
「その計画自体をやめろと言っている」
「決心は固いですわ。ね、シャルロット様?」
「う? うむ、もちろんじゃ!」
マルクの言葉で心が折れかけていたシャルロットだったが、アンヌに促されて、思わず頷いた。
「ご結婚前の、最後の思い出になりますわよ」
アンヌはシャルロットを見つめてから、マルクに視線を流す。
「マルク様に出来る唯一のことは、この秘密を誰にもしゃべらないことですわ。ごきげんよう」
アンヌはマルクに挑発的な笑みを残して、再び背を向けた。
「いいんですか、マルク様」
ピエールはハラハラしながら、マルクとアンヌを交互に見た。この見目麗しい二人は、シャルロットを挟んで度々こうして対立する。その中でも今回は飛びぬけて大事になりそうだったが、ピエールにはどうすることも出来ない。
「……話に乗ったら、あの女の思う壺だ」
アンヌの後姿を横目で見るマルク。
「アンヌがシャルロットを連れて宮殿を抜ける計画をしていると、陛下に報告するのが、一番安全で平和的な方法だ。そうするべきだ」
マルクは小さく呟いて、遠ざかるシャルロットを見つめた。
「……最後の思い出、か」
「マルク様?」
ピエールがマルクを見上げと、眉を寄せて複雑な表情をしていた。
マルクはそっと左胸を押さえて顔を伏せてから、すぐ眉間に皺を寄せた普段の厳つい表情となって顔を上げた。
「待て!」
マルクの呼びかけに、アンヌは悠然と振り返った。
「まだ、何か?」
アンヌの白々しい態度に、マルクは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「俺がなんとかするから、勝手なことはするな」
「ほ、本当か!?」
シャルロットはピョコンとアンヌの腕から飛び出した。
「その代わり、俺の言うことは絶対に守れ」
「やっぱり妾はマルクが大好きじゃ!」
シャルロットは走ってマルクに飛びつき、胸元辺りの白いクラヴァットに小さな顔をうずめた。シャルロットは彫刻の英雄たちのように、無駄なく引き締まったマルクの体に触れるのが好きだった。
感触を堪能した後、満面の笑顔をマルクに向ける。
「ではマルク、今からじゃ」
「なに?」
「今、すぐ、出発じゃ!」
マルクの腰を両手で持って、シャルロットはピョンピョンと跳ねた。その様子は、飼い主にじゃれる子犬のようだ。
「シャルロット様、マルク様にも私達にも準備が必要ですわ」
アンヌの思わぬ援護に、マルクはホッと胸を撫で下ろした。
「そうか?」
シャルロットは残念そうにアンヌを振り返る。
「今夜、いえ、明日の早朝辺りはいかがですか? マルク様」
「明朝だと?」
「明日じゃな! 妾な、帝国領から出るのは初めてなのじゃ!」
「おい、勝手に話を……」
「マルク様、よろしくお願い致します。マルク様にとっても、掛け替えのない、素晴らしい旅になると確信しておりますわ」
アンヌは一礼して、大はしゃぎのシャルロットと共に大庭園から去っていった。
「アンヌ様、なんだかいつも以上にパワフルでしたね」
ピエールが脱力したように呟いた。
「アンヌのやつ、何か企んでいるな」
型破りな王女の付き人は、結局どこか変わっているのだ。
「でも僕、マルク様とアンヌ様は、ちょっと似ている気がしますよ」
「やめてくれ。どこが似ているというんだ」
ピエールが無邪気な顔を向けると、マルクは端整な顔を歪めた。
「雰囲気ですかね。姫様に甘いのも同じですし」
「俺は甘くない」
「そうですかねえ」
ピエールはニヤニヤとマルクを見る。
「なんだその顔は」
マルクはピエールの頬を引っ張った。
「イタタ、それは八つ当たりですよう、マルク様~!」
マルクはピエールの悲鳴を聞き流して、今日はもう訓練に戻れないなと、朝明けまでにすべき準備に頭を巡らせていた。
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