#6 立ち直り、前に

「有島先輩……」


 退部者が二人出る、なんて聞いていなかった。しかも一年生は少ない方だと言っていたのに。


「ごめんね、大丈夫だから。ちょっと前のこと思い出しちゃって。二人のうちの一人、トロンボーンの子だったんだ」


「そんな! あと一人は……」


「トランペットの子。フルートになりたかったのに、って言ってたらしいよ」


 銀色のトランペットを持った先輩が、うつむいたまま答える。まだ教えていないこともたくさんあったはずだ。それなのに、これではがっかりもするだろう。


「フルートは確かに人気だけど、今年は募集がなかったから仕方ないのに」


「しかも、木村先生は担当楽器は希望には添えないかもしれないって言ってましたよ」


 最低、一年がもうやめるなんて……信じられないんだけど……と、ひそひそと声が聞こえる。そんな気まずい空気を打ち破ったのは、部長の張りのある声だった。


「はい! 皆。もう辞めてしまった子の事は仕方ないので、残りの三十八人で全国大会まで勝ち抜きましょう。去った人にいつまでも構っていられません」


「……そうね、今日は本番前の最後の合奏の日。いつまでも肩を落としていられない。スプリングコンサートに向けて、気合いを入れ直しましょう」


 部長と副部長の二人の言葉によって、部員たちは各パートの練習場所に散っていく。トランペットの先輩を肩を日向先輩が優しくたたいて励ますのが目にはいる。


 明日のスプリング・コンサートには親も来ると言っていた。父さんは珍しく帰ってくるらしい。ゴールデンウィークはいつも仕事で家にいなかったのに。まあ、俺はプラカードを持って歩くだけなのだが。


「そういえば、真生君は衣装合わせしてなかったよね? 女子勢は全員したんだけどね。おーい、速水! 真生君のジャケットとパンツ用意してあげて!」


「どうして僕は呼び捨てなんでしょう……まあ、いいか。ついてきて」


 もやしのような体を引きずりながら、ふらふらと遠ざかっていく先輩を慌てて追いかける。ひ弱そうなところを掴まれているんじゃないか……と心配にはなるが、深くは言わないのが正解だ。


 音楽室から少し離れた場所で速水先輩の足が止まる。


「ここだよ。衣装がいっぱいあるでしょ? これ、歴代の先輩たちも着てるから結構歴史があるんだよね」


 壁に掛けられた、いくつもの賞状。夕日に照らされて輝く金色のトロフィー。そして、姉が全国大会で来ていたものと同じ、黒のジャケットに金の刺繍が入っている衣装。


 額に入った写真を見ると、満面の笑みを浮かべた歴代の先輩たちが、同じ衣装を着てピースサインをしていた。この衣装たちは、俺よりもいろいろな場所に行って様々な大会を見守ってきたのだ。


「す……すごいですね」


「見とれるのもいいけど、先輩にお願いされたから衣装決めちゃおうか。あ、来年男子が入ったらこの役やってね」



 ――それから数分後。



「おお、いいね。良く似合っているよ」


「そうですか?」


 自分で言うのもあれだが、確かに似合っているような気がする。肩から伸びる青のマントのようなものも、とてもカッコいい。


「ん、良い感じかな。特に腕が苦しいとかない? トロンボーンは腕が命だからね……僕もパーカッションで手を使うからよく分かるけど。パフォーマンスには細部まで気を遣わないとね」


「はい! 大丈夫です」


「おけ、じゃあそれでメモしておこう。ジャージに着替えて練習してきていいよ」


 俺は着替え終わった後、相棒のトロンボーンを出す。磨き上げられた金色の管は、今日も夕日に照らされてオレンジ色の光を反射している。


「よーし、今出すからな」


 速水先輩がよく楽器に喋り掛けていたので、俺もそれを見て話しかけるようになった。もちろん楽器は何も言わないが、何となくその後の機嫌がいい気がするのだ。


 先輩は楽器に名前をつけていたが、俺はその域まではまだ行っていない。……まあ、クラベスという楽器に「クララ」とつけていたのはどうかと思ったが……打楽器なので叩くことになるし。


 ちなみに他にどんな名前をつけていたのかと言えば、


 木琴(シロフォン)……「シロロン」

 鉄琴(グロッケン)……「クロロン」

 大きな木琴(マリンバ)……「マリリン」

 大きな鉄琴(ビブラフォン)……「フォンフォン」


 ……など。こんなことをしているので変人と言われるのだと思う。特にフォンフォンはパンダでいそうだ。


 誰もいない廊下に譜面台を立てて、始まってすぐに日程表や楽譜でパンパンになったファイルを譜面台の上に乗せる。


 しばらく唇をブルブルと震わせてから、冷え切った管を優しく温めていく。まだまだ先輩の音のように高く澄んだ音は出ず、気の抜けたぱすーっという音だけが漏れていく。


 それでも、諦めずに何度も何度も吹き続ける。遠くで聞こえていた野球部のノックの音も段々と薄れて、俺は自分の世界へと入り込んでいく。


 メトロノームの横についているぜんまいを軽くひねって、机の上にセット。カチ、カチと均一なリズムで音が刻まれる。


 ぽーっ、ぱーっ。上手くいかない。先輩に「出来るように練習して」といわれたのは八拍だが、そんなに続かずに、秒針と同じテンポ60では4拍ぐらいで息が切れてしまう。


「はぁ……全然ダメだな……」


 先輩は3年間やっている。だから、俺より断然上手い。それは分かっている。でも、姉がよく言っていた。


「ステージじゃ一年も三年も変わらんって言ったら一年がピーピー泣き出して参っちゃったよ。審査員に学年なんて分かるわけねぇのに」


 それはそうだ。皆、同じ団体なのだから同じように見られる。個人コンテストだったら分かるかもしれないけれど、三十八人全員の学年なんて、審査員が知っているわけがない。


 だから、少しでも早く先輩の音に近づく必要があるのだ。


 今日も、図書室から借りてきた初心者用の練習本を元に練習を工夫してみる。まずは、いい姿勢で。楽器のメンテナンスはしっかり。


 息の入れ方、音の響かせ方……色々書いてあるが、これを一つ一つやっていくしかない。俺は、最初の方のページを開いて、譜面台の上に乗せる。まずはここからだ。


「先輩の足を引っ張らないように……頑張ろう」

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