第三章

“拜物の無い戀を、戀といふわけ無い”

ティアマト之聖典、血之書


そんなに悲しくて寂しくなり、蟲は押し殺されるのが怖くなつて後退して、それほど殘酷ではない物に世を忍ぶに至つた。すると、そんなに快くて暖かくなつた。やつと我に啓示された事實は、拜物が戀の純粹なる表現であり、拜物は人格の缺點やいつか行はれた滅多な行爲の荷厄介の無い戀の體現であると。なぜなら物それ自身は受動的であるから。

物は、自分自身に頓着を求めることが無い。物は、自ら必要を滿たす。物は、完璧である。これは我が戀の最高情態の定義になつた。そしてあの頃に考へたのは、宗敎の殆んどでは、神樣への道は拜物を通ると。或る宗敎はそれを認めないにも關はらず。キリスト敎徒は十字架像を接吻し、囘敎徒は石を拜し、佛敎徒は家で佛小像を藏するなど。我も、そんなに渴望する事に近付けるのが出來る物の小部分さへを持つ權利がないのか?

我が變なる愛着を、幾らか滿たしたらしい。でも太陰は周期性的である。月は死ぬ。月は生まれる。月は喜んで我にいつも何かを囁く。かくて我が心情も、いつも周期性的であり、月によつて决まるやう。しかし、やつぱりこの世にて全ては月によつて决まる。たゞ、太陰を注目せぬ者逹はそれを氣付かない。

彼女はあの袋に自分の體毓用衣料を入れるのをやめたが、なぜか靴を殘した。それは、我が氣に觸つた。だうして彼女は、我が選擇をこんなふうに限定して我をも限定が出來ると思つたのか?どの塲合にも、其後暫く我は彼女の袋についてあまり考へなかつた。かうしてもつと安心だつたかもしれぬ。なぜなら、また彼女の服を盜む必要が無ければ、竊盜中に掴まれることを心配する必要も無いから。しかし、否。

拜物敎徒の道を走つた方は、それを逸脫することが出來無い。好きな人の全ての衣料を、盜めるだけでなく盜まなければならぬ物として、其れを盜む方法や使い方について考へがちだ。かくて或る瞬閒、たちまち考案が心に浮かんだ。變な考案だが、亦は快い。さて亦は彼女の物を自宅に持つて行く。


(日記カラノ記録、X X年三月十日附)

“<…>其レヲ自宅ニ持ツテ来テ、夜閒ニ、汚イ手デモ触ラ無イ彼女ノ半ズボンヲ取リ出シテ、盗ンダ靴ト一緒ニ我ノ前ニ置イタ。<…>行ツタノハ三囘。第一囘ハ、左ノ靴ニ射精シタ。他ノ二囘ハ、右ノ靴ニ。第一囘ハ精液ガ最多ダツタカラ。<…>”


其れを彼女の袋に戻した時に、今や彼女の物を、彼女自身より懐くと、たちまち悟つた。そしてそんなに生けるし暖かい彼女は我の前に座つてゐるとき、我はもう此の前のときめきを感じないけれども、だうせ感心し續ける。でもなぜか、憎しみと一緒に。あのころに其の分裂(スキジス)は本當に美しさうだつたから、其れは彼女の(いま呪はれてゐる)誕生日に腕輪を選んだり最後のお金を費やしたり誕生日に閒に合ふために速逹を拂いすぎたり進物にする前の夜に殆んど寢なかつたりしてゐた頃の幸せな鬱氣から我を遠ざけると分かりながら全心を其れに傾倒した。

彼女の躰の每部分は偉大なる女神樣の聖なる體現だと唱道したあの頃を、たゞ彼女の手を觸ることはそれまで我が無色の世界で起こつてゐた過程の限りを超える過程を動かせたりしてゐた懷かしい頃を、口に出して言へぬほど戀しがりになつた。泣きたいほど慕つてゐた。憂鬱に含ませられた大學の壁は元通り囁き續けてゐた。その壁は全てを愛藏し、全ての事について知つてゐる。蟲と女神についても、分裂(スキジス)とニヤニヤについても、腕輪と葉書についても知つてをり知り續けたり囁き續けたりする。でも愛藏することは樣々だけど、囁くことは一樣である。そんなに暗くて快い。しかし注意せねば自失する。我はもう自失した。蟲のふりをする神か神に成りたい蟲か、物を神聖視し女神を物にしたり、自罵詈の面をかぶつた我自分自身への神殿、呪はれてるモノの足を喜んで接吻したり敬慕するものを呪つたりして恥を以て昇天を探したりこと…。その囁きは遠くて遠いほど高い。しばらくすればだけ聞こえるし、近付くと非常に靜かになる。

「ケラケラケラ」

存在しない部屋のなかでの鴉片。月樣は自らの暗闇を以て廣がる。どこでも暗闇だけ。上でも下でも。いつかあちらにあつたが最早頭の中だけにある塲所の思ひ出。あのころでは塲所も、時閒も、環境も聖なるものだつた。月は悲しんで見てゐて、我はその悲しみを謝しつゝ、する可き事をしてゐた。彼女は閒近に橫になつて居た。我は彼女が寢てゐた閒に眠るのが怖かつた。あの夜、我以外の皆は寢た。彼女はエレシュキガルだと、彼女の友はイシュタルだと提唱し月に祈つてゐた。一瞬でも彼女の夢の中に入りたかつた。手婬の一步手前の座禪。

何を祈つたらいゝのか?殺したい。彼女の死を祈る可きか?彼女を有することを祈る可きか?

かう、嫌ひ。貴女も自分自身も。何故貴女は殺さなかつたの?我等の中から壹人が死なねばならぬ。その事實をなにものよりハツキリ知つてる。刄で傷をほじくつて神經をあいついで其れを拔いてゐる貴女。其後は傷を治すが、すぐお腹を切りさつて我が腸を喰ふ。たよりないシヴァの上で踴るカーリー。

「ケラケラケラ」

存在しない世界の中での鴉片。全ての空閒は、あの晚に自分だけの意志を行つてゐた我の出ることができぬ部屋の大きさ程にくびれてある。猫は我が膝に橫になつてゐる。目の無い眼窩はまわりに居る皆を覗く。足の下には血、頭の上には血。その寢臺はステュクスの水上を行く舩であり、右に居る女性を我が影はハーデースにも從ふ。皆は死んでゐたらあんたも死んだふりをしなさい。難しくても。下手であつてもだうせふりをしなさい。皆は生きてゐたらあんたも生きるふりをしなさい。不可能らしくても。誰も信じないが、一番大切なのは、ふる事だらう?

窗臺の上に立つアクアリウムでの蝸牛さへ我より自由なり。出るかだうか蝸牛の意志に定まない。蝸牛の世界は元より限られてゐるが、我は自らの意志通りに此處を入つたけど出るのが出來無い。我が世の方が大きいにもかゝはらず!まあ、多分いつかさうだつたけど、今やその部屋だけは我が世なり。


(日記カラノ記録、X X年三月十七日附)

“晚。ソノ暗イ部屋ニ座ツテヰテ、何故ダカ其ノ塲所カラマダ立チ去ラナカツタ理由ヲ自分自身ニ說明シテミテヰル。

空閒ハ少數ノロウソクニ照ラサレテアル。其等ハ空閒ヨリ、ムシロ此處ニ居ル者タチノ顏ヲ照ラス。ソノ顏、亡靈ノ如キ空氣ニ浮イテヰル。

壁ハ殆ンド照ラサレテナイニモ關ハラズ、其等ノ壓力ヲ感ジル。壁ノ壓力。天井ノ壓力。床ダケハ壓サナクテ、我カラ遠クニアルヤウ。モシイマ座ル長椅子カラ下リタラ、スグ淵ニ落チル氣ガスル。ナゼナラ現在、存在シテヰル空閒ハソノ部屋シカ無イラシイ。ソシテ其ノ以外ニ存在シテヰルノハ、アノ淵ダケダ。

我、アクアリウムニ居ル。ソンナ簡單ニ此處ヲ出ラレナイ。蝸牛ノ如キ、フタハ開カレルノヲ待タネバナラヌ。

<…>猫ガ來タ。<…>

「アナタダケガ、我ハ此處ニ居ル理由ヲ知ツテル。ソンナ感ジガスル」

我等ノ魂ノナニカノ繋ガリヲ感ジテヰル。ソノ猫ハ、我ガ狀態ノ眞ノ理由ヲ見タラシク、ソノ狀態ニ居合ハセタ我ヲ援護スルコトヲ見セタガツテ、タダノ沈默カラノ樂シミヲ我ト共ニシヤウトシタ。<…>”

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