“部屋の闇の中で反射を遊んでゐて

彼女は我の前に座つてゐる時

悲しみを通る盲の圭角で

皮膚を切る刄を我は想像する“

ナヴヤ・ンヴァル、昭和六十一年


この考へが來たのは、突然。あの時、それはたゞ考へだつた。たゞ考へたのは、もし…。すると、自らを切る刄を彼女の方に向けると想像した。罪の思ひ、蟲の邪說。

でも其後、この邪說は氣に入つた。この邪說は念頭を去ら無かつた。何故だか、だうして、我が敬慕はこんなふうに表れやうとしたのか?その問題について思ひ入りた。それは起こつたのが、我等は醫業しに亰都に行つた頃こそ。あそこでは死體解剖せねばならなかつた。冷淡の一步手前の感激。我々の醫業團は、四人だつた。我、彼女、彼女の友と、越南からのリーと言ふおかしいヤツ。彼は常に片言交じりの日本語で我等をどなり付けてゐた。或いは、我等の切り方が違ふ、或いは見方が違ふ、或いは見掛けが違ふなどから。すると、我はなぜか彼との親近を感じた。彼は叱れば叱つたほど我が胸はスツとした。ヒョツトしたら彼はこんなふうに我を、抽象的な苦しい思ひの井戶から拔いて、もつと純朴で淺い井戶に置いたからである。

各醫業團は、解剖臺の上に位した檢屍實習のための屍のある室を入つた時に、後ろにはなにかのパタンといふ音を聞いたらしい。扉が閇じられ、歸り道が無くなつたかのやうが、もつと深くて靜かな音で、あの大學の壁の囁きにすこし似た心安い音だつた。他の言葉を囁いてゐたらしいけど、だうせ同じ囁きだつた。

屍の顏を見なかつた。我々が切り裂くべきだつた胸郭しか被せられなかつた。さて我等は解剖臺のワキに立つて、我の前に置く女性死體の姿は、その我の鄰りに立つ彼女の姿に似てるだらうと想つた。メスを持つて彼女は少しだけゾクゾクしたゐた。我は本當に屍の顏を見たかつた。解剖を通じて我はほかの事について考へられなくて貴女がその死體を切るのだけを見てゐたほどその顔を見たかつたのだ。

その瞬閒、我は貴女の冷靜な目を見てゐて、またあんなに樂な感じがした。我は、同じく冷靜な目をして貴女を切ることを想像した。其後、我等は得意になつて血液の海で泳ぎながら、貴女は普段通り首をかしげてニヤニヤして我れがバカだと考へて見てゐる。血の最後の壹飮みを吐いて貴女はその血に滲まれた土に倒れる。そして泥に咽びつゝ其の中にはまり込む。

リーは何かを叫ぶ。「ウルサイ」と彼に言ふと、暫時靜かになる。貴女は肉體を切る事から目をそむけられぬ。貴女は我を切るのを長すぎる閒にわたつて見てゐたから今や他の者に對してそれを行ふのを見る事が二重に快い。でも我等の前に橫たはる者の顏を見る望みは我が心からきえない。今日の實習の終はりを待ち遠しがる。

我々は、今日の解剖が終はつたと言はれる。續きは明日。メスを措く。白衣を脫ぐ。屍を仕舞ひ込む、「ロツカー」に。我々は、死體用冷凍庫をさういふ。あそこではいつも凉しくていごゝちの良い。あの春の外と違つて。

冷凍庫の番號を覺えた。

我々の寮は大學の別棟だつた。寮と大學との閒には小さな渡り廊下があつた。なんの扉や錠前が無い。忍び込みつけた、我は。また、コツソリと行つた方がいゝことを行ひつけた。あの夜、解剖室に忍び入つた。

彼女の番號は「八」だつた。

震へてゐて、此の後ろに彼女が置いてある扉を開ける。震へるのは、見つかれることが怖いからではない。あなたは醫家なら、夜閒に暗い解剖室の中で屍の鄰りに見つかつても何とか言ひ拔けられる。醫家たちは變だと皆が知つてる。我が震への理由は、其の後ろに屍と靴は等しい價値がある境を超えることであるかもしれぬ。

いや、我はたゞ、顏を見たい。今日は解剖した者を見たいだけだ。ギリギリと臺を引き出す。彼女は此處であんなふうに手を兩側に置いて夜中我を待つてゐた如く;彼女は、メスで擊つ練習のための肉塊だと思はなかつた唯壹人の我を待つてゐた。壁をもたれて立つ。今こそは自分について考へる時だ。誰かが天井から我をうかゞふのは知つてる。その誰かが構ふといふわけ無いが、我を完全に見抜ける。我はいま考へれば、彼は我がしてゐる行爲を分かる。自分自身への啓示のシキミの前に。屍が搖れ、せき込んでブルブルし始めて死のマントラを鳴く。

「脫げ、脫げ、脫げ!私を放免して!息が出來無い!」

嗚呼!

そんな美しさを死後で隱せるわけあるのか?それは腐つてしまつて、無心に動く筋に押し殺されることを恐れ生ける肉體を食い込まうとはしない蟲たちの食事に成らないうちに。誠に!生ける肉體は危險だ。

あの瞬閒、彼女を戀してゐた。貴女と同じく。彼女への戀と、貴方への戀とのケジメを付けずに。彼女から全部を脫いで完全な體を觀賞する。その體は、貴女の體と同じ!誓ふよ、彼女の顏を包むと、此處は貴女が橫たはると思考できる。でもその美しさを包むのが、せつない。明日はまた、顏を見ずに彼女を切る筈だと考えると、怖い。

彼女を戀慕した。それは純粹の戀だつた。我は死を贊美したり心のなかで感謝したりする。知つてるぜ、死は茲だと。死は聽いてゐるが、應じない。茲、その體の中に、魂の代はりに。死は我と同じく快い感じがしてる。あの瞬刻、貴女や彼女以外の他の者逹が要らないやうな氣がする。我ではない者逹と、彼女ではない者逹と皆に反感をもつ。奴等が、いま我は見てゐる完全を見るのを得なかつたからだ。ヒョツトしたら彼女が葬られる前に、全世界で彼女を觀賞する最後の者は我だ。

でもだうせ今は行かなければならない。この塲所で夜通し觀賞するのも出來るけど、今夜は睡眠が足りないと、明晚來れない。今は眠い。此處、彼女の乳房の上で樂しんで眠れるが、我と彼女ではない憎らしいあの者逹は、我をそのままで見つけたら分からない。それで、我は行く。明晚來ると約束する。

翌日醫療噐具を持つのは我だ。貴女は怪訝さうに我を見るが、實は貴女がいま我の前に白衣を着てゐる立つのでなく、解剖臺の上に居て、メスは貴女を入る。冷たい鉗子は其れと同じぐらいに冷たい筋をひねりながら貴女の臟噐をヒヤヽカになめてゐる。

彼女の身體を覺えた。彼女の身體の每センチは、ちやうど千度貴女のを想像した通り。いま彼女の胸ではなくて、サツキ我の前に白衣を着てをり立つてゐた貴女の胸を掘り下げることを想像するのが易い。微笑みを、だうやらこらえるほど幸せだ。

前夜どんなに眠りたかつても殆んど寢なかつた。突如と、もう壹つの素晴らしい眞實を看取した。それは、彼女の死んでゐる顏付きは、全く、全く以て、貴女の微笑みと同じく刺激性であると。あの生けるし、うらゝかでニヤニヤのやうな微笑みと同じく。

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