いつもさうだつたといふわけない。

いつか全ては違つた。いつか我は愛してゐた女性が居た。いとしくて暖かい生きてゐる女性。

あの頃、我は大學で斈んでゐた。專門は何だつたかあまり關係が無いが、今の仕事から判斷すると、多分、醫者。(しかし課程を殆んど覺えてゐないから、全然斈んでゐなかつたらしい。)さて、あそこは彼女が居た。あら、我の前に座つてゐる。完璧。正確。生きてゐるのだ。

「私を觸らないで」、「私を見ないで」、「どけ」。

これ全ては、彼女の一見、動き、素行で讀める。

生者たちの世の中でやり塲が無い死者に読ませること;

無心に動く筋に押し殺されることを恐れても仕方なく蟲は注意して蠢動してかじりつゞける。蟲は、多分無理な目的としての生きてゐる肉體を選んだと分かつても、だうせかじりつゞける。彼女との對談はたゞ、もう一度いたましく噛んでみるための切つ掛けだ。

「觸らないで」

「觸らないで」つて…

あゝ、唯の觸りで限るのは、我にどんなに難しい事であるのを貴女が一瞬でも感じてさへゐれば、感歎して我を抱きしめただらう!

怪我をしたか、病氣になつたか――

「私のこと、心配しないで」、「私の傷について思はないで」、「私の方に息をしないで」、「くたばれ」つて…


誰ニモナイ手紙

“アノ夢ヲマザマザト覺ヘテヰマス<…>。アソコハ、貴女ノ親友ガ居マシタ。ゴ存ジノ通リ、彼女ハ我ガ友デモアリマス。サテ、沈ンデヰマシタ。我ト彼女。我等ハ淵ニ居マシタ。水ハ暗カツタニモ關ハラズ、彼女ノ顏ヲハツキリ見テヰタト覺ヘテヰマス。ソノ水ノ深クニ我等ハ咽ンデヰマシタ。

浮カナケレバナリマセンデシタ。一生懸命ニナツテ我ハ上ガル事ガ出來マシタ。アノ水ハ、或イハ冰ニ、或イハ何カノ部屋ノ床ニ被セラレ、浮カビ上ガル穴ヲ探シ出サネバナラナカツタンデス。

ソレヲ探シ出シテ我ハ助カツタ。彼女ガ、助カリマセンデシタ。

彼女ニ助ケヲ求メラレテ、我ハ助ケテミタカノヤウガ、デキマセンデシナ。罪惡感ニ苦シンデヰマシタ。或イハ助カル事ガ出來無カツタ爲カ、或イハ彼女ヲソノ水ニサソイ込ンダ爲カ、分カリマセンガ、彼女ハ沈ンデシマヒマシタ。

貴女ハ悔ヤミマシタ、我モ悔ヤミマシタ、我等ノ友ノ死ヲ。我等貳人ダケガソノ悔シミヲ共ニシマシタラシイ。我ダケ貴女ヲ分カツテヰマシタ。貴女モ、我モ、裸デシタ。

貴女ハ我ニ抱キシメラレタガリマス。我ハ抱キシメマス。<…>貴女ハ我ガ肩ニ泣キ乍ラ我ハ貴女ト悲シミヲ共ニスルト見セマス。デモソノ瞬閒ヨリ我ハモウ不幸ヲ感ジナイノデス。ソノ代ハリ、貴女ハ我ト一緖ニ居マスカラ、我ハ貴女ト一緖ニ居マスカラ、歡喜ヲ感ジマス。一緖ニナツタ理由ハモウ、大事無イデス。

彼女ハ死ンダガ、我ハ悲嘆シマセン。ダツテ、死ンダオカゲデイマ貴女ハ我ニ慰メヲ求メルノデスカラ。

ソノ慰メヲ、我ハ貴女ニ與ヘマス。貴方ガ欲シイモノ全テヲ、與ヘマス。

我等ハ、バスストツプニ居マス。貴女ハ我ガ膝ニ頭ヲ乘セマス。

我ガGeliebte frauニ“

今や呪はれてる貴女の誕生日に、進物として純なる銀の最質的な腕輪。小さな葉書でも何かを書いたらしい。

「ありがたう」つて…。

もちろん。

その腕輪、誰よりも貴方に似合つただらう。あゝ、如何なる物は、誰よりも貴女に似合ふ。いまその指輪は我が拜物に成つた。貴女の躰に接した物全ては、我が拜物に成る。

着けてゐたのは三日閒ぐらゐ。其後はやめた。何故だと質問することが恐れる。多分、答へを聞くのが怖い。答へが無ければ全ては唯の憶測であるから。それより知りたいことは、何故あの三日閒に着けてゐたのか。確かに、蟲の所爲だ。自身の生活も、皆の死亡も、全ては蟲だけの所爲。蟲は自分の道を噛み切る。他のモノは彼を見る。或るモノは嫌がつて見てゐるが、或る者は憎しんで見てゐる。

肉體にもつと深く、もつと深く。

噛み切るのはもつと早く、もつと早く。

蟲は氣にしない筈、恥を感じない筈だ。もしあんたは蟲であれば、自身と自分の行動を恥を感じるわけ無いだらう?これはたゞ、自然だ。たゞ、全ては蟲の所爲だ。

彼女は我を嫌がるから、あの腕輪は彼女を我と繋がれるのを怖がつたかもしれぬ。だうせ我が婬慾はそれを氣付かなかつたなり、氣付きたくなかつたなり。でも彼女の微笑で慰めを探し出してゐた。或いは、手婬で。でもやつぱり微笑だらう。生けるし、うらゝかでニヤニヤのやうで、片方に壹つのエクボのある微笑。他方にエクボが無かつた。有つたらニヤニヤに似てなかつた。突然、我は自分自身に憎らしくなつた。

蟲は自分自身に憎らしくなる譯が無い。なぜならば蟲であるから。噛み切り乍ら肉體を樂しむ筈だ。それなら我は蟲ではない。でもそれは氣持ちを、全然やわらげない。

憂鬱に含ませられた大學の壁は我に何かを囁く。此處で、この囁きだけが氣に入る。他の聲が、たまらない。皆、けがらわしい僞譱者たちよ!いつも彼等だけが欲しいやうにさせたい。嫌ひ!嫌ひよ、彼等が!外面は高尚やうだが内面が汚い!その世閒――我は屍蟲だと思つたモノ逹の世閒、我を或いは嫌がつて見てゐた或いは憎しんで見てゐたモノ逹の――その世閒と步調を合はしてみた時、何を取得したの?我をもつと憎め!あんた逹を憎む!我を、もつと憎め!

態と服を洗濯することも髮を洗ふのもやめた。幸せになつた。憎まれた頃、本當に幸せだつた。好まれた頃より幸せだつた。彼等に取得した物が無いが、彼等の所爲で失つた物が澤山。でも或る日、彼女は正座してゐた時、我は後ろに彼女の足元に橫になつてをり、眞實が我に現れた。それは、あなたはだれかを戀すれば、その者の身體分泌すべてを好むと。汗を敬慕し、汚い身體の匂ひも敬慕する。汚い髮を接吻するも良い。その者の大便を食べるのも、汚い服に手婬するのも良い!死後でも殘れるその生活表現を意識した後、唯壹つの事に付いて考へられるやうになつた。彼女の服だ。

こんなふうに、過ぎる人逹から目をそむけてゐて女性更衣室の鄰りに立つ者に成つた。突然、一瞬に何かのおかしい目眩がした。あの時、自分の存在の次の一段に移つたやうな感覺があつた。生まれ變はつてゐたや、進化の新たなる段階に移つたやう。もう歸れぬ存在の樣態を入ると分かつたやうだ。


(日記カラノ記録、X X年十二月廿陸日附)

“アア、我ガ慕ハシイ畜生ヨ!知ツテマスヨ。貴女ハ衣類一點ヲ探シダセマセンデシタ事ヲ。貴女ノ反動ヲ見ルタメニ今日我ハ態ト朝早ク學校ニ來マシタ。イツカ貴女ノ着タ物ガ今ハ我ガ物デアリマス。誠ニ、貴女ノオカゲデ我ハ拝物教ノ麗質ヲ意識シテキマシタ。貴女ハイツマデモ自分ノ半ズボンヲ探シテモイヽデス。我レガナニデモ其レヲシマス。多分…イヤ、確カニ貴女ガ、盗ンダノハ我ダト察知シテヰマス。ソレガ爲ニ氣持チハモツト良イデス。”


あの頃、本當に下手な拜物敎徒だつた。その半ズボンを、だうしたらいゝか、また何處で貯藏したらいゝかも知らず、自分の(今や彼女だけの)體毓用衣料の袋に入れた。其れを使つて手婬したかつたが、彼女の汗の素晴らしい匂ひを精液の匂ひで亂せることが怖かつたから、たゞその半ズボンを貯藏してゐて、其れが我だけの物であることと、我だけに利用せられるとの事實に甘んじてゐた。

あの日、彼女は學校に來て自分の袋から或る物が失せたと見つけた時、我は彼女の目で恐怖を讀んだ。それは死ぬる恐怖ではなくて生ける恐怖だつた。綫がもう、踏み越えられた。一年閒に彼女は、そんな彼女の「正しい」槪念に反する行爲を行つてゐる者を作つたとの認識の恐怖だつた。我はそれが唯の氣の所爲では無くて眞實であると望んでゐた。いや、ちがふを得ざる。眞實にちがひなかつた。なぜならば、彼女だけが我が眞實であつた。

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