スノードロップのせい
~ 二月二十六日(水)
寒ければ寒くなるほど近付くもの ~
スノードロップの花言葉
逆境の中の希望
ヘッドライトに照らされる白い地面が。
タイヤが鳴らす、薄氷を噛む音が。
否応なしに不安を掻き立てる。
「ここまでだね。これ以上は無理だ」
結局、穂咲たちの打ち合わせは夕方までかかって。
慌てて荷物を抱えて駅前に出て。
夜のタクシーで、丘の上の村へと向かったのですが。
主要道路から外れた細い山道は。
昨日降った雪が未だに残り。
ベテランだから任せておけと息巻いていた運転手さんに。
とうとう泣きを入れさせてしまいました。
「いやまいったな! 引き返してあげるよ。料金はここまでの分だけでいいから」
「ううん? お代は払うの」
「そりゃ助かりますけど……、って! お客さん!?」
穂咲は運転手さんにお札を渡して。
お釣りは、無茶をさせてしまった分だから取っておいてと言いながら。
自分で扉を開いて。
靴が完全に潜ってしまう程の雪にスニーカーをうずめます。
「ちょっと穂咲! 無茶ですって!」
俺は車内から声をかけたのですが。
「だって、修理には丸一日かかるって言ってたの」
「それはそうですけど……」
俺が返事を躊躇している間にも。
穂咲の背中は、ヘッドライトの光の中に白く飲み込まれて行くので。
俺も慌てて運転手さんにお礼を言って。
車から外に飛び出しました。
――千草さんに直してもらうために。
明日の朝には彼女の手元へ届けなければいけないものがあるのですが。
それにしたって。
ここからどれだけかかると思ってるの?
「ねえ、穂咲。本気で歩くのですか?」
「歩くの。さっきのわき道に入るとこから、車で十五分くらいなの」
「それ。車で十五分ということは、十キロはあるのですよ?」
「じゃあ、時速十キロで歩けば一時間でつくの」
「君の歩く速度はせいぜい時速三キロです」
「じゃあ、三てん三三三三三三三三三……」
平地ならともかく、上り坂。
いや、それよりもこの雪。
いやいや、それよりもこの気温。
大丈夫なのでしょうか?
「三三三三三三三三三……」
「ああうるさい。分に直せば割り切れます」
「…………うそなの」
「すごいね君の算数力」
「算数がダメでも、十キロくらい歩けるの」
「体育もダメじゃないですか、君」
「平気なの」
この自信。
どこから来るのやら。
ため息がたなびいて。
頬にまとわりながら後ろへ流れていくのですが。
「……いいから、ちょっと待ちなさい」
「待たないの」
「そうじゃなくて」
俺は、自分のリュックをお腹に抱えて。
穂咲からリュックを取り上げて背中に背負ったあと。
「えっと、確かリュックのポケットに……、あった」
LEDのトーチライト。
この寒さでも、一晩はもつでしょう。
俺はライトを点けて穂咲に手渡して。
未だに待っていてくれた運転手さんへ手を振りました。
……しかし、この人。
よくもまあ平気でこんな無謀なことしますね。
持ってきているものがものだけに。
パパがいるから大丈夫とか。
そんなことを思っているのでしょうか。
だったら。
俺もおじさんに頼らせてもらおう。
穂咲と並んで。
同じ速度で雪を鳴らしながら。
一番頼れる人に責任を丸投げして。
せめて、胸の重荷を下ろした俺なのでした。
「…………平気なの」
「はい、そうですね。だって……」
「だって、道久君がついてるから」
…………こら。
俺の頼る相手。
消さないで。
それじゃまたねと。
晴れ渡る星空の向こうに。
手を振って消えゆくおじさんの姿。
でも。
そうですよね。
穂咲を守るために。
俺が頑張ろう。
なあに、たかが十キロ。
穂咲の一人や二人。
俺が守ってみせますよ。
…………そう思っていた俺は。
たったの一時間で。
心から後悔することになりました。
~🌹~🌹~🌹~
「こ、この十数分はハードでした……」
「雪が膝近くまで積もってたの」
辛うじて、道路は他より雪が浅いおかげで。
足を踏み外すことはなさそうなのですが。
それでも、俺のカバンに入れておいた小さなLEDのトーチライト一個では。
真っ暗闇の中を歩くのに。
まるで、この胸の内と一緒。
光が小さすぎて。
逆に不安になる心地。
それでも、歩きやすいエリアに入ったことで。
少しは不安も和らぎました。
この辺りの雪は。
ベチャっとした感じはあるものの。
随分雪の厚みが減っていて助かります。
「何キロ進んだの? 五キロくらい?」
「ないない」
「じゃあ何キロ?」
「どうでしょうか。雪道ですし上り坂ですし真っ暗闇ですし。まるで見当がつきません」
とは言え、山登りの経験が少しは役に立つところ。
歩き始めて一時間。
この、亀のようなペースでは。
二キロくらいしか進んでいないのではないでしょうか。
現代日本人の依存症。
携帯の電波が届かないだけで。
何ひとつできません。
せめて地図を見ることが出来れば。
いや、電話をかけることが出来ればそれだけでなんとかなるのに。
いま、こいつは。
ちょっと薄い目覚まし時計に過ぎません。
「……もうちょっと早く気づいていれば、おばさんに連絡取れたのですけど」
「道久君。それ、タコが耳になっちゃうの」
「タコの擬態はそこまで高度でしたか」
携帯の便利さに。
いかにおんぶにだっこなのかよく分かる。
きっとそれは、おばさんも同じで。
今頃、連絡が付かないことにおろおろとしていることでしょう。
「……丘の上の村へ至る分岐はもう一か所。そのことも不安を掻き立てます」
「大丈夫なの」
「多分、三分の一くらいの辺りでしたよね。だとすると、あと三十分後くらいだとは思うのですが……」
「大丈夫なの」
俺の不安声に。
穂咲は同じ言葉を繰り返すのですが。
「……何を根拠に」
「大丈夫なのうひょう!」
くるっと振り向いて大声をあげるなり。
足を滑らせて尻もちなどついているのです。
「………………ほんとに?」
「それなり、大丈夫なの」
「ちょっと割引が入りましたね」
「そろそろ割引シールの貼り頃なの」
「ええ、結構時間が経ちましたし、一休みしましょうか」
ちょうど穂咲も腰を下ろしていますし。
俺も、その隣に座り込みます。
でも。
お尻が冷たい。
「足、疲れてます? くるっと回っただけで転ぶなんて」
「なんか、ここんとこだけつるつるしてたの」
「ああ、なるほど。雪があまりない場所は氷になっていることが多いのです」
「雪が凍ってるの? あれ? 雪って凍ってないの? なんなの?」
うむむ。
まるでひかりちゃん。
どう説明しましょうね。
「ええと、車が通って雪がほとんどなくなったところは日中の内にとけちゃうのです。でもそれが夜になると凍るのです」
「でも、雪がかぶってるの」
「それは……」
星空が、俺の説明を聞いていて。
ふうっと息を吹きかけたのでしょう。
風が一瞬、強く吹いて。
道の両側に積みあがった雪が舞いあがります。
「ああやって飛んで来た雪が積もるのです」
「こんなにも?」
「こんなにも」
俺は、説明を手助けしてくれた、晴れ渡る星空を見つめて。
一つため息をつきました。
せめて月明りがあれば歩きやすいのに。
新月に近い、シミターのような月を恨みがましく見上げても。
そんなの知らないわよと。
横を向いたままなのです。
しかし、この調子であと四時間ほど。
歩き続けていられるでしょうか。
夕ご飯も慌てていたせいで少ししか食べていないので。
このままではハンガーノックを起こしてしまう。
早いうちに。
高カロリーなものを口にしておきたいところです。
でも、お腹の側に抱えた自分の荷物は無駄を極端に省いたせいで。
食べられるものなど入っていません。
後は背中に背負った、やたらと重い穂咲の荷物にかけるだけ。
はたして絶望の中に。
希望の光は見えるのか。
俺は穂咲のリュックを勝手に開いて。
真っ暗闇の中で手を突っ込むと。
最初に掴んだものは。
まさしく希望。
……なはずもなく。
絶望そのものでした。
「…………なぜトンカチぃ…………」
「だって、雪がまた降って、寒いって言ってたから」
「は? 寒いとなぜこれがいります?」
「おトイレで。お小水が」
「凍りませんから」
しまった。
六本木君の下らない話のせいで。
この一時間、俺の体力が余分に削られていたなんて。
他にも余計なものが出るのでは?
リュックの中の絶望に。
再び挑んでみれば……。
「あ。チョコ」
「うん。でも今は、口ん中にものを入れたくない感じ」
「だめです。我慢して食べておきなさい」
俺が真剣に言ったことが伝わったようで。
穂咲はそれ以上文句も言わずに受け取ってくれたのですが。
ぱきり
半分に割って。
……いえ、ぶきっちょに、約半分に割って。
大きい方を。
俺に差し出したのです。
これは。
受け取ったものかどうなのか。
俺の方が、夕ご飯は多く食べましたし。
でも。
俺が倒れたらどうなるのでしょう。
「……半分こなの」
「ええとですね。このあと何時間も歩くことを考えて……、いや、でも……」
「なんでも半分こなの」
そう言いながら俺を見つめる穂咲の表情は。
いつもながらに無表情で。
でも、こいつが何を思ってそう言っているのか。
容易に伝わってきて。
ああ、そうですね。
楽しいも。
辛いも。
全部半分こ。
「……はい。これからもそうしていられたら、本当にいいですね」
「当たり前なの。なんでも半分こなの」
よく。
二人でいると、楽しいことは二倍で。
辛いことは半分などと言いますけど。
実は、楽しいことも。
こうして半分になるのではないでしょうか。
でも、一人じゃなくて。
二人だから。
冷たい星空の下でさえ。
こんなに胸がポカポカとする。
それは、楽しいじゃなくて。
幸せという言葉で表現されるものなのではないでしょうか。
「じゃあ、行きますか」
「ん」
口も開かずに返事をして。
当たり前のように手を伸ばして。
俺に引っ張ってもらおうとする穂咲は。
急に目を見開いて。
ミトンをポンと叩くのです。
「……あ。なぞなぞの答え、これかも」
「え? なにか、まっすぐ伸びました?」
「そっちじゃなくて。寒ければ寒くなるほど近付くもの」
俺は、穂咲の手を握って。
よっこら立たせると。
思ったよりも、ピンクのミトンも。
もこもこのダウンも。
穂咲の赤い鼻も、近くに寄ってきて。
「……な、なに?」
俺を、じっと見つめる瞳が。
目の前まで迫ると。
穂咲はなぞなぞの答えを。
教えてくれたのです。
「……きっと、答えは道久君なの」
「いえ、それは……」
きっと寒さでかじかんで。
口が固まってしまったのでしょう。
俺がそれ以上何も言えないで。
瞬きの音まで聞こえそうなほど目の前にいる穂咲を見つめていたら。
穂咲は、唇を寄せてきて。
そして、囁くように。
こうつぶやいたのです。
「……あのね? 恥ずかしいから、小さな声で言うね?」
「う、うん……」
「あたし…………」
「あ……、ほさ……」
「あたし、トイレ」
………………おお。
それは恥ずかしいよね。
「……そっちの林んなか行ってきなさい」
「ティッシュ出すの。リュック開くの」
「ああ、そんなのも入ってるのね、このリュック……、おお」
そして穂咲がリュックから取り出したのは。
ロールのまんまのトイレットペーパー。
それをティッシュって呼ぶ人いないのです。
俺はどっと押し寄せてきた疲労感と。
今更激しくなった鼓動を落ち着かせるために。
もう一度地べたにお尻をつきました。
懐中電灯は穂咲が持って行ってしまいましたし。
真っ暗闇の中。
一人置き去りで。
ただ、星空を見上げながら。
盛大に吐いたため息が。
ほとんど見えない視界を。
さらに白く煙らせます。
……明後日。
結婚式。
俺はそんなイベントを迎えても。
きっと。
好きなのか。
嫌いなのか。
分からないままなのでしょう。
でも。
こうして穂咲にドキドキとするのは間違いなくて。
その気持ちを好きと呼ぶのかどうか。
俺は、それを知らないだけなのではないだろうか。
だとしたら。
ひょっとして。
俺は、既に…………。
「道久君!」
「うおっ!? な、なんです穂咲!」
「そっちに忘れてきたの! 大変!」
「トイレットペーパーなら持って行ったでしょうに」
「そっちじゃなくて! トンカチ!」
「…………凍らないから。とっとと済ませなさい」
やれやれ。
一瞬後にはいつもそう。
この気持ちを嫌いと呼ぶことだけは。
はっきりと分かる俺がいます。
……でも。
今、気付いたのですが。
『好き』
それだけの感情でいる夫婦なんて。
この世のどこにもいないのではないでしょうか。
どんな二人だって。
好きな所があって。
嫌いな所がある。
おばさんは、しょっちゅうおじさんを怒っていたのに。
でも、大好きなのは俺の目から見てもよく分かりましたし。
父ちゃんも母ちゃんも。
よくお互いに、そこが嫌いだと罵り合っていますけど。
好きな所は。
今更恥ずかしくて口にしていないだけなのかもしれません。
――結婚。
か。
この、背中に背負ったリュックの中。
やたらと重たいリュックの中に入っている。
おじさんとおばさんの。
いえ。
おじさんから託されて以来。
俺と穂咲の。
指輪が入った。
思い出のオルゴール。
千草さんに直してもらうために。
明日の朝には。
必ず届けましょう。
だってこれは。
式に必要な。
大切なアイテムなのですから。
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