サクラソウのせい


 ~ 二月五日(水) 温度計の白い部分 ~

  サクラソウの花言葉 淡い恋



「勉強にもふたつのパターンがありましてですね。それを交互にしないとモチベーションを保てないのですよ」

「ええと、察するに。静かなところで勉強するのと、賑やかな所でするのとの二パターン?」

「はい、御明察です」


 今日は、バイトが小太郎君一人ということで。

 見張りを頼むと、俺と穂咲をバイトに召喚したワンコ・バーガー。


 それを穂咲が渡さんにメッセージしたところから広まったようで。

 何人か、暇な連中が冷やかしに来たのですが。


「しかし、受験組まで来るとは思わなかったのです」

「はっはっは。上手くバランスを取って勉強しないと、月末までもちませんよ。そうですよね、神尾君」

「あはは……。今更思い出したけど、まだ一ヶ月も先なんだ……」


 既に疲労の色が頬に浮かぶ神尾さんが。

 参考書から顔を上げて力なく笑うと。


「二人とも、頭がいいからきっと受かるの」


 厨房からひょっこり顔を覗かせて。

 優しい言葉をかけてきたこいつは藍川あいかわ穂咲ほさき


 軽い色に染めたゆるふわロング髪を。

 今日はちゃんと三角巾で包んでいるのですが。


 その上にサクラソウをわんさか植えていては。

 意味がないと思うのです。


「まあ、頭の良さについては俺だってよく知ってますけど。とくに岸谷君は、クイズとかも得意ですし」


 俺がテーブルを掃除しながら相槌を打つと。

 当の岸谷君は、首を振って否定します。


「雑学と違って、勉強の暗記は一筋縄じゃ行きませんよ」

「そういうものですか」

「あ、そうなの! 岸谷君、クイズ得意だったの! 聞きたいことがあるの!」


 そして穂咲がカンナさんの静止も聞かず。

 厨房から飛び出してきたのですが。


 なるほど。

 岸谷君なら正しい答えを思い付いてくれそうなのです。


「ほう? 藍川君、僕のクイズセンスに頼りたいというのですか?」

「そうなの。答えが分かんないなぞなぞがあるの」

「ふむ。僕の知的好奇心をくすぐるような問題であればいいのですが」


 そんな言葉とは裏腹に。

 随分と興味をそそられたようで。


 上着を脱いで。

 臨戦態勢の岸谷君。


 ふふんと、まん丸のあごを反らして首のお肉をたゆんとさせたその雄姿。

 さすがは頼れるみんなの王子様なのです。


「えっとね? 寒くなるとまっすぐ伸びるものってなあに?」

「ほほう。よくできた問題だね」

「え? じゃあ、もう答えが分かったのですか?」

「ええ。答えは、温度計の白い部分です」


 Yシャツの腕を組みながら。

 少しふんぞり返って答えた岸谷君ですが。


「えっと、それ違うと思うの」

「おや? この解答では不服かね?」

「上に伸びなきゃいけないの」

「ん? 上に?」


 そして追加の条件を聞くなり。

 途端に俯いてしまったのですが。


 でも、あんまり深く俯くことができないのですね。

 お腹のお肉が苦しそう。


「ええと……、すいません、勉強の邪魔をして。急がないのでのんびり考えてください」

「う、うむ。そうさせてもらうよ」


 試験前なのに。

 お邪魔してはいけません。


 穂咲は俺にだけ下唇を突き出してきましたが。

 それでもわがままを言わず。

 今回は諦めてくれたのでした。


「……二月末ですよね、二次試験」


 国立を目指す神尾さんと岸谷君。

 卒業式の直前まで。

 気を抜くことなどできません。


 なんて大変なのだろう。

 そう思って聞いたのに。


 俺は、意外な返事に。

 心から驚いたのでした。


「そうだね。本命の前期試験は二月末さ」

「でもね? もし受からなかったら、次の試験は三月の中旬なの」

「ええっ!? 卒業式の後?」

「あはは……。なんとか志望校に受かればいいんだけどね……」


 困っちゃうわよねと。

 他人事のように笑う神尾さんですが。


 そんな彼女へ。

 レジから届いた叱咤激励。


「一発で決めるのよ! もう一校あるとか考えると、絶対受からないから!」


 一同びっくりして飛び跳ねるほどの大声は。

 就職試験で嫌な目に遭ってきた晴花さんによる熱弁でした。


「あ、ありがとうございます……」

「素敵なレディーの仰る通り。チャンスは一度というつもりで気合を入れますか」


 深々とお辞儀をして御礼する二人でしたが。

 ほんと、卒業式に進路が決まっていないとか。

 そんな状況になっていないことを祈ります。


「大変なのですね……。そう考えると、高校受験は余裕があるのです」

「あはは……。そう言えば、一月の合格発表の日に、学校に用事があってね? 合否、悲喜こもごも。なんだか悲しくてうれしくて、複雑な気持ちになっちゃった」

「さすが神尾君。感受性が豊かですな」


 神尾さんの様子に。

 優しく頷いた岸谷君。


 でも、そんな彼が。

 急に椅子を跳ね飛ばして立ち上がると。


「危ない!」


 そそっかしい小太郎君が。

 花瓶を抱えて外へ出ようとしていたところ。


 何もない、ただの床でつまづいて。

 花瓶の水をぶちまけたのですが。


 信じられないほどの素早さで神尾さんの前に立ち塞がった岸谷君が。

 体を張って、彼女に水がかかるのを阻止したのです。


「ご、ご、ごめんなさい!」

「岸谷君! 大丈夫!?」

「ふっ。これくらいなんともないさ。それより、君は被害を受けなかったかい?」

「た、多分平気。……ありがとうね」

「おお! すごいのです岸谷君!」


 これには店内一斉に拍手喝采。

 そんな中でも、紳士な王子は。


「店員君。君も気にしなくていいさ。花瓶も奇跡的に無事なようで良かったね」

「ほ、ほ、ほんとにごめんなさい!」


 お花が可哀そうだと花瓶へ戻して。

 がくがくと震えながら平伏する小太郎君に、優しく手渡すのです。


 さすが王子様の異名は伊達じゃないのです。


 そして濡れた髪を、ぴっと指ではじくと。

 髪の脂で、まるで作り物のような形にセットされてしまいました。


 ……さすが。

 目を閉じれば、そこに王子様の異名は伊達じゃないのです。


「ほんとにありがとう、岸谷君」

「いえいえ。それより飛沫がはねたかもしれない。確認して来ると良いでしょう」

「岸谷君こそ、乾かさないと……」

「男子の制服が汚れていたとて、気にするまでもあるまいよ」


 そして穂咲に連れられて。

 神尾さんが化粧室へ向かうのですが。


「やっぱ、岸谷君はかっこいいの!」

「ほんとよね……」


 きゃあきゃあと。

 小声で岸谷君をほめちぎるのでした。


「いやはや、ほんとにいつもかっこいいですね。勉強もできますし、紳士ですし」

「よしてくれたまえよ」

「……そう言えば、岸谷君。なんでちょくちょく志望校を変えてたの?」

「うぐっ!? そ、それは、だね……」


 あれ?

 ちょっと気になったことを聞いただけなのに。

 この反応はなんでしょう?


 ちらちらと。

 トイレへ行った神尾さんの方をうかがっているようですが。



 まさか!?



 ……そう言えば。

 みんなで遊ぶ時。

 必然的にこの二人がペアになっていましたけど。


「なるほど、察しました。応援しますよ」

「い、いや、これはだね。淡い想いと言うか、はっきりとしたものではなく……」

「実らせましょう!」


 俺が、握りこぶしで応援すると。

 岸谷君の顔が見る間に赤くなって。


 温度計で言えば。

 猛暑日のようになってしまいました。


 そんなところへ。

 二人がトイレから戻ってくると。


「そう言えば、いいんちょは、ちょくちょく志望校変えてたの。なんで?」


 図らずながら。

 穂咲が、まったく同じ質問を神尾さんにし始めました。


 すると神尾さんは。

 なにやら恥ずかしそうに。

 手で顔を隠しながら。


「えへへ。いっしょの学校にしたかった人がいて、ね?」

「お友達?」

「お友達というか……」

「ああ、彼氏さんの事だったの」

「そう」

「ええええええっ!?」

「ぶひいいいいっ!?」


 か、彼氏ぃ!?

 いいんちょ、彼氏さんいたの!?


「だ、だれっ!?」

「隣の学校の人だけど……、秋山君、知らなかった?」

「いつから!?」

「中学の頃から」

「女子の間じゃ当たり前な話なの」

「男子で知ってる人、いないと思うよ!?」

「…………それよか、岸谷君が心配なの。石川五右衛門の顔で固まってるの」

「はっ!? 岸谷君! しっかりするのです!」

「……だ、大丈夫さ。きき、気にしないでくれたまえ」


 岸谷君の温度計。

 あっという間に氷点下。


 顔色が悪いのです。


 そんな王子様は、ふらふらと席を立つと。


「うわあああ」

「ぶひっ!?」


 ……再び小太郎君から。

 水をかけられたのでした。


「さすがに怒っていいところなのです」

「僕もそうは思うのだがね。今は、そんな気分になれない……」


 そして、びしょびしょなまま再び席へ戻ると。

 参考書を広げたのですが。


 上下逆。

 重症なのです。



「あはは……。岸谷君、さすがに風邪ひいちゃうよ?」

「いえ、神尾君も集中したまえ。彼氏と同じ学校へ入らないとね」

「う、うん……」


 おおう……。

 こんな時でも。

 やっぱり王子。


 俺はもう切なくて。

 思わず目をつむって。


 涙が溢れそうになるのをこらえていると。


 ひそひそ声で。

 穂咲が話しかけてきました。


「……ねえ、道久君」

「ぐすっ……。なんでしょう」

「岸谷君。すけすけのYシャツ越しに、乳首の長い毛が一本見えるの」

「それは記憶から消しなさい。あと、岸谷君のことは目を閉じて見なさい」

「禅問答なの」


 そう言いなさんな。

 だって、彼は。

 目を閉じて見さえすれば……。


「どうです?」

「…………あれはいただけないの」


 あれほど褒めちぎっていた穂咲は。

 王子をばっさりと切り捨てると。


 花瓶を拾って。

 一歩も歩いてないのにつまづいて。


 俺にも水をぶちまけたのでした。


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