第38話

その男


 男は、まっすぐ私を見返してくる。

 目には、その表情とは裏腹に、見ているものを受け止めようという慈愛が、宿っている。

 その瞳に受け止められているのは、私。

 男は、私を知っている。それは、たぶん記憶をなくす前の…私。

「少し、やつれたな」

 表情を変えぬまま男は言う。 

 私は、途切れた記憶の奥を覗き込む。

 あるのは、何も見えない闇。

 けれど、ぼんやりと記憶の端に絡まる細い糸の切れ端が、その闇の中を漂う。

それが、私の心の幕を切って落とす鍵。

 男はしばらく黙ったまま私たちを見つめる。

「ここでは、話もできんか」

 男はそう言うと、私たちについて来るように合図して、背後の扉の中へ姿を消す。

 私たちもそのあとを追う。

 部屋の者たちは、誰一人、私たちを制止しようとはしない。

 黙ったまま明滅する机上の窓に、ただ見入っている。

 

 誘われたのは白ずくめの小さな部屋。

 白塗りの机と椅子がその真ん中に置かれている。

 男はそこに腰掛けていて、私たちにも座るように目で合図を送る。

私たちが席に着くと、どこからともなく人が現れ、温かい飲み物が運ばれてくる。


私たちは、そこで話した。

運ばれてきた飲み物が、すっかり冷めてしまうまで。

冷めてからもしばらく、随分と長いこと。


 男は…確かに、私を知っていた。

 男は、私と共に、空を渡って、この「星」へ…この世界へ来たと言う。

 空を渡る「船」に乗って…

 空を渡る船…私がか?

 男は、今、空を渡る船を作っていると言う。

 そして…空を渡って帰る、と言う。

 いったいどこへ?

 男は、私を聞きなれない名で呼ぶ。

 それが私の名前だと言う。

 私は、男と共にその名前で呼ばれていた世界から来たのだと…

 そして…男は、私も共に帰ろう、と言う。


 私は…この男の言うことが、よく分からなかった。



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