『流れよわが涙、と警官は言った』――何者でもなかった

「流れよわが涙、というのは、ダウランドの楽曲から取っているらしいけど―――泣きたいってのは、どういう感情なんだろうね」

 彼は、ぼんやりとそんなことを言った。

「まあ、『泣きたいわー』とか、よく言いますけどねえ」

「ああ、君はよく言ってるね……」

 くたびれたソファで向かい合い、二人は同時にため息をついた。

「にしても、秀逸なタイトル」

 葉月は、改めてその黒い表紙をまじまじと眺めた。

「このタイトルがなければ、ただの不条理小説として読んでしまうところでした」

「そうかもしれない」

 彼は頷き、恐らくはもう冷め切っているであろうコーヒーを、一口啜った。

「これは、有名なTVスターが、ある日突然、誰からも忘れられ、役所の戸籍からも消え、しまいには身元不明の人物として警察に追いかけ回されるというストーリーだね。確かに、不条理小説のような展開だ。そのまま受け取れば、だけど」

「何かの暗喩だと、解釈しましたか」

「まあ、俺たちだっていずれは、全部失うんだよ。彼はただ暴力的にそれをはぎ取られたけれど。俺たちだって、人とは疎遠になるし、あるいは死別するし、やがては自分自身も死んで忘れられていくんだ」

「……うわあ、泣きたい」

「うん、それだろうね」

 彼は頷き、それから何か考えるように、自分の髪を軽く掻き回した。

「いつだって、泣くのは何者かのためだ。誰かでも、何かでもいい。でもそれが何かしら、自分にとって呼びかけうる何者かであれば―――ちょっと飛んだ言い方をすると、魂の宿ったもの、と言ってもいい。そういうものが損なわれたときに、人は泣くだろう?」

 そんなことを、言葉を選ぶように、彼はゆっくりと話した。

「その対象が、自分であっても?」

「そう、自分のために泣くというのが、もしかしたら一番、多いかもしれないね」

「じゃあ、どうして彼は泣かなかったんです? 自分自身がまるっと損なわれたのに?」

 言いながら、葉月ははっと気付いたように、彼に目を向けた。

 彼は、意地悪く笑って、言った。

「それは、彼が自分自身にとっての、何者でもなかったからかもしれないね」

 そうして彼は立ち上がり、コーヒーを淹れ直すためにキッチンに入っていった。



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流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

フィリップ・K・ディック

早川書房 / 1989年2月1日発売


(本稿は2013年10月27日に書かれたものです)

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