『生き延びるためのラカン』――言葉は空虚なものだから
「なんですかねえ、この『許されてる』感は」
葉月はため息混じりにそんなことを言った。
「それは『女性は存在しない』っていうところかな?」
彼のその言葉は、問いかけというよりは確認のようだった。
「ああ、それかも。お見通しですね」
葉月は、あっさり認めた。
彼は頷く。
「既存の価値観の脆弱さに安堵するのかもしれない。だってそうだろ、欲望なんて他人に与えられるものだと言われたら、そして誰も本当に求めるものに触れることができないと言われたら、あるいは生殖とヘテロセクシャルであることとは無関係だと言われたら、他者への共感など自己イメージでしかないと言われたら―――そうやって、自分を取り巻くあらゆる『当たり前』を疑われたら、心地よいだろ」
彼は意地の悪い笑みを浮かべていたが、それは嫌味というよりは、暗にそれらを肯定しているという合図のようだった。
葉月はそれを受けて、思いつくままを言葉にする。
「この世界は、本当の現実とは違う。結局のところ、人は言葉がつくり上げた世界でしか生きていない。その中でしか関われない。完全で満たされた世界を失って、他者と自己という概念を手に入れて、失ったものを他者に求めて」
それはなんて孤独だろうと、葉月は言う。
孤独で、素敵じゃないかと。
「他者への共感など、所詮は思い込みでしょう? 結局は、自分ならこう感じるというものを、他人に押しつけているだけでしょう?」
彼は、恐らくは自らに向けられたわけではないであろう問いかけに、静かに口を開く。
「そうかもしれない。でもそれを忘れないとコミュニケーションは成立しないのかもしれない。相手も同じ、満たされないものを抱えていて、同じように感じているのだと思わなければ―――イデオロギーってそういうものだろう。共同体が共同体であるためには、皆が好き勝手のことを考えていては困るだろうしね」
それから少し、沈黙があった。
「段々、何の話か分からなくなってきましたが」
「言葉は空虚なものだから、かもしれないね」
彼は冗談めかして、そんなことを言った。
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生き延びるためのラカン (ちくま文庫)
斎藤環
筑摩書房 / 2012年2月1日発売
(2013年10月27日)
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