『華氏451度』――その書物は、ちゃんと孤独だろうか

「結局のところ、世界は人が望んだとおりの姿になるんだよ」

 彼はコーヒーカップを二つ、テーブルの上に並べながら言う。

「何を奪われても、失っても、それは、皆が望んだことなんだ」

 葉月は、手元の本から顔を上げ、彼を見た。

 静かに笑っていた。


 穏やかに晴れた夜だった。

 家のすぐ外は海岸で、波音が低く響いていた。

 これも夏の名残か、花火でもやっているらしい若者たちの声が、遠くどこかから聞こえていた。

「例えばこの本のように、書物を持つことも、読むことも禁じられた世界であっても?」

 葉月は、出されたコーヒーに手を延ばしながら、上目遣いに問うた。

「そう」

 彼は、頷く。

「フェイバーが中盤で語っているだろう? 思考する人間はいらない、と。人と違った人間はいらないんだ。自分と違ったものを持っている人間がいれば、自分に欠けたものを自覚することになる。それは不幸だ。誰もが幸福になるためには―――皆が、同じでなければならない」

「不幸の元は、絶ってしまえ、と」

「そうだよ。みんなが同じように笑い、同じように幸福であるためには、他人と違うことを考える人間を締め出してしまうしかない。法律で規制し、犯罪者に仕立て上げればいい。理由はいくらでもでっち上げられる。そういう例を、俺たちはいくらでも知っている」

 彼の口調は、分かりきったことを確認しているようだった。

 葉月は、頷く。

「……そういうの、ありましたねえ」

 その言葉には、いくらかの呆れと、ある種の諦めが混じっていた。

 彼は、苦笑した。

「本を読むということは、そこに物語を求めることだよね。そこに何かを見いだし、それについて考え、そして何かを紡ぎだそうというプロセスだ。つまりは―――孤独になるということだよ。本というのは表現の一形態だけれど、表現とは元来孤独なものだ。だからこそ、つまり他人とは違うものがそこにあるからこそ、表現する意味がある。あるいは、表現したいと切望するんだね」

 そこまで聞いて、葉月はふと気付いた。

「この本に描かれている『本が禁じられた世界』というのは、一種の比喩ですか」

それについて、彼は少し考え、そして答えた。

「そうかもしれない。うん、そうだね。……これは『表現を禁じられた世界』だ。そしてそれは、人が互いに妬み合い、奪い合った末に生まれた『幸せ』だ。でも、―――」

 続く言葉を、飲み込んだ。

 窓の外に、ふと目をやった。

 波の音が、聞こえている。


「思想や表現が制限された世界を描いた小説は他にもありますが……」

葉月は言う。

「そうなった責任は人間ひとりひとりにあると示したことが、この小説の凄さのような気がします」

 うん、と。

 窓の外を見つめたまま、彼は静かに頷いた。

「ブラッドベリの小説は、優しいよね。こんな世界感の中にあっても、ちゃんと人の一番柔らかい部分に触れてくる。こんな静かな夜に、一人で読みたくなるような小説だね」

 花火は終わったらしく、遠い喧噪も聞こえなくなっていた。

 気付けば夜も更けている。

 二人はそれ以上、何も喋らなかった。



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2016/4/6、夜、付記。



「人が書物になるって、どういう気持ちでしょう」

 葉月は、もうずいぶん前に読了した本を手に取り、ふと、そんなことを言った。

「書物がすっかり消し去られた世界で、書物が人の姿をして生き続けているっていうのは、なんだか素敵じゃないですか」

 蛹は手元の本から顔を上げ、少し考えるように天井を仰いだ。

「書物が、生命と意識と表情を持った、と。確かに、そういう見方もできるね」

 その書物は、ちゃんと孤独だろうか、と。

 蛹は、静かに呟いた。



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華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

レイ・ブラッドベリ

早川書房


(本稿の初稿は、2013年9月30日に書かれました)

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