『壁』――それは、君の中の荒野から生まれてくるもの

『胸に世界の果てをもつ者は、世界の果てに行かなきゃならぬ』


「名前を失い、姿を失い、さて俺たちはどうしたらいいと思う?」

「自己紹介をするときに困る、という話ですか?」

「そう」

 彼は頷き、続ける。

「君が君だと証明し識別するものは何もない。戸籍謄本にも君の名前はない。どこで生れたのかも分からなくなる。会社の名簿にも名前がない。君は何を生業としているのかも分からない。姿さえも失えば、友達も、誰も君だと識別できない。さて、どうしようか」

 葉月は手元の本から顔を上げ、少しの間、虚空に目を彷徨わせながら考えた。

 第三者が自らを識別するために必要なもの、名前と姿。

 それについて、考えてみる。

 彼女は、どちらもさして重要だと考えたことはない。しかし、名前が変われば別人になれると思っている人間はいくらでもいる。同様に、顔を変えれば別の人生を生きられると思っている人間も。

 存在の証明とは、名前を軸に展開する一連のラベルに過ぎないのかも知れない。

 第三者に自らを知らしめるには、他の第三者と区別するための記号が必要である。言語的記号としての名前と、象形的記号としての姿。それらを失うというのは、恐ろしいと同時に、ある種、魅力的なことでもあった。

 誰もがそうなったなら、と。

 そう、考えずにはいられない。

 さて。

 葉月は、笑う。

「詩でも、書きましょうか。何なら絵でも。音楽の才はありませんが、即興で一曲くらいなら歌ってもいいですよ」

 ふむ、と彼は小さく頷いた。

「それは、君の中の荒野から生まれてくるものなのだろうね」

「ええ、そこからしか、生まれてこないものでしょう」

 社会の中に個を見いだすには、社会が用意した枠組みを利用するしかない。だが社会というものと対峙するとき、個が拠り所にすべきものは、そうした枠組みではないのかもしれない。


 ところで、と。

 葉月は今しがた思いついたことを、付け足すように言った。

「荒野にそびえる壁というと、モノリスのようなものを思い浮かべてしまうのですが」

「うん、まあ、でも……それに触れる者は、誰もいないね」



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「壁」 (新潮文庫) 安部公房 新潮社 / 1969年5月20日発売


(本稿は2013年9月5日に書かれたものです)

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