最終話 明日になったら

 およそ一週間ぶりに菅原と八木が話している姿を見たのは、その翌日のことだった。

 正直あまり見たくはないツーショットだったし、二人の会話の内容も出来るなら聞きたくはなかったけれど、朝礼が終わったばかりの教室でいきなり菅原が八木の席のほうへ歩いていけば、側にいた騒がしい女子のグループが途端に静まりかえってしまったものだから、会話の内容は否応なしに俺の耳まで届いた。


「八木」

 菅原に名前を呼ばれ、八木は弾かれたように顔を上げる。

 ついでに、一限目の授業の準備をしているところだったので、手に持っていた教科書を派手に取り落としていた。

 その音が教室に響いたせいで、クラスメイトたちはよけいに静まりかえり二人のほうへ視線を向けたが、八木には、落とした教科書もクラスメイトからの視線も気にする余裕はないようだった。ぽかんと菅原を見上げたまま、固まっている。

 対して菅原は、なんだか腰を据えた様子で、「いきなりなんだけど」と口火を切って

「十五日、空いてる?」

 八木は目を見開いて、へ、と間の抜けた声を上げた。

 わけがわからないといった表情で、菅原の顔を見つめ返している八木へ向けて、菅原は静かに続けた。

「十五日。来週の月曜なんだけど、もし空いてたら」

 そこで菅原はにこりと笑った。俺や航に向けるのとは違う、菅原お得意の、女の子用の甘い笑顔には違いなかったけれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。少し笑ってしまう。ああもう。口の中で小さく呟いた。

 菅原のくせに、なに緊張してんだか。似合わないし、気持ち悪い。

「一緒にどっか行きませんか」

 菅原がそう結ぶと、ひたすらぽかんとしていた八木の目に、戸惑いの色が浮かんだ。

 彼女が、でも、と言いかけたのがわかったけれど、それを遮り、菅原はさらに言葉を継ぐ。

「この前はごめん。俺、一回断っちゃったけど」

 お得意の甘い笑顔はあっさり姿を消して、途端に真面目な顔になる。

 なんだあれ。似合わないな。なんだかむずむずしてきて、眉をひそめた。そんな俺には構わず、菅原は相変わらず真面目な顔で言葉を続けていく。

「予定が変わったっていうか、とにかく大丈夫になったから、だから」

 歯切れの悪い口調も、菅原らしくない。ああもう、もう一度呟いて、視線をずらした。

 菅原の後ろに沙代ちゃんが見えた。八木と同じようにぽかんとして、二人のほうを見つめている。

 見れば、沙代ちゃんだけでなく、菅原と八木のことがどうにも気に食わないようだった女子たちも皆、呆気にとられたようにして二人のやり取りを聞いていた。その中には、昨日教室で八木の手袋を投げ捨てたらしいあの子もいて、ちょっと満足する。


 視線を戻せば、菅原は真剣な表情でふたたび口を開くところだった。

「やっぱり、八木と過ごしたい」

 その台詞だけは、はっきりと紡がれた。

 八木は、よりいっそう大きく目を見開いた。

 菅原はふいに目を伏せ、自嘲するように笑う。それから、「今更だけど」と呟いた。

 すると、固まったように菅原を見上げていた八木が、そこでいきなり立ち上がった。

 がたん、と音を立てて椅子が揺れる。だいぶ派手な音だったが、それも八木に気にする余裕はないようだった。

 今度は菅原が、驚いたように目を見開く。八木は口を開いたが、言葉がまとまらないのか、しばらく、あの、とか、えっと、とか意味のつながらない言葉を繰り返していた。

 そのあとでようやく

「わっ、私も!」

 なんとか、それだけは口にした。

 答えを聞いて、菅原がふわりと笑う。今度は綺麗な笑顔だった。

 じゃあ、と、菅原は柔らかな声で告げた。

「デートしよう。十五日」

 途端に真っ赤になった八木は、顔を隠すようにうつむいて、それでも嬉しそうにはにかんでいた。


 ああ、あの顔だ、と思う。

 ずいぶんと久しぶりに見たような気がした。やっぱり八木は、ああいう顔をしているのが一番いい。それだけは、心の底から、思えた。

 ふっと視線をずらす。信じられないといった表情で、八木と菅原のほうを見つめている女子生徒たちが見えた。

 ざまあみろ。口には出さずに呟く。なぜだかひどく誇らしくて、口元がにやけてきた。

 いいやつなのだ。八木も、菅原も。だから、こうなるのが一番いい。お前らでも、俺でもなくて、あの二人が一番いい。そう思って、こっそり笑った。



 終礼が終わるなり、俺は机に突っ伏した。

 そのままの体勢で、しばらく、騒々しく教室を出て行くクラスメイトたちの足音や話し声を聞く。騒がしかったのは数分だった。波が去ったように途端に落ち着きが戻ってくる。八木と菅原も、もういなくなっただろうか。確認しようと顔を上げかけたところで

「清水くーん」

 明るい声が俺の名前を呼んだ。同時に、ぽんぽんと肩を叩かれる。

「寝てんのか?」

 今度は違う声が、そう尋ねてきた。

 起きてるよ、答えながら身体を起こす。顔を上げるなり、沙代ちゃんと至近距離で視線がぶつかって、少し驚いた。隣には航もいる。沙代ちゃんはにこりと笑って

「清水くん、一緒に帰ろうか」

 妙な猫なで声で、そう言った。突然なんだと思ったけれど、とりあえず気にしないことにして、「いいけど」と頷く。

 教室を軽く見渡してみたが、八木も菅原も見あたらなかった。もう帰ったようだ。ほっとしていると、沙代ちゃんが目ざとく気づいて

「郁美と菅原くんなら、もうだいぶ前に帰ったから大丈夫だよ」

 そっか、と軽く頷きかけて、沙代ちゃんのほうを見る。引っ掛かる言い回しだった。

「……どういう意味?」

 すっとぼけて聞いてみたけれど、無駄なのはわかっていた。沙代ちゃんは、なんだか大人びた笑い方をした。隣の航も似たように笑っている。おそろしく似合わない。


 根岸さん、と、沙代ちゃんは急にこの場にいないクラスメイトの名前を出して

「菅原くんじゃなくて、清水くんのことが好きだったみたいよ」

 唐突にそんなことを言われても反応に困って、「……へえ」としか言えなかった。

「なんで郁美があんなに気に入らないんだろうって思ってたけど、それでだったみたい」

 沙代ちゃんがなにを言いたいのかは、よくわからなかった。眉を寄せて、「それで、って?」と聞き返すと

「だからね、あの子にもばれたんだよ。清水くん、郁美のこと好きだったんでしょう」

 黙って沙代ちゃんの目を見つめ返すと、沙代ちゃんは、ふふ、と笑った。からかうわけでもなく、まるで小さな子どもに向けるかのような笑顔で見つめられ、くすぐったい。

 あのね、と沙代ちゃんは言った。

「とっくにばれてるよ。わかりやすいもん、清水くん」

 どこかで聞いたような台詞だった。俺は目を伏せて、苦笑する。

「沙代ちゃんに言われたら終わりだなあ」

 呟くと、沙代ちゃんはまた、ふふ、と笑った。「だからさ」横から、航が明るい声で言う。

「カラオケでも付き合ってやろうかと思って」

「なにそれ」

「気晴らしだよ。したいだろ、ぱーっと」

 つられるように笑ってから、窓のほうへ視線を飛ばす。二人は、一緒に帰ったのだろうか。聞こうかと思ったけれど、すぐに、聞くまでもないような気がしてやめた。

 代わりに、「お前、部活は?」と航に尋ねてみる。すると、「いいんだよ今日ぐらいは」なんて当然のように答えるから、なんだかしんみりした気持ちになって、目を伏せた。

 明日顔を合わせたら、おはようと俺からあいさつをしよう。そんなことを考えながら、鞄を手に取る。


「じゃあ付き合ってもらおうかな」

 言うと、二人はそろって満面の笑みを見せた。おかげで、俺も少し、明るい気持ちになれた。

 ――八木にも、菅原にも。

 きっと明日になったら、言えるだろうから。

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