第17話 手袋

 昇降口へ向かうため中庭を通り抜けようとして、足を止めた。

 薄暗い中庭に、思いがけなく人影が見えた。

 先ほど俺が手袋を拾った生垣のあたりをうろうろと歩き回っていたかと思うと、ふいに座り込み、今度は生垣の下を覗く。しかし目的のものを見つけられなかったのか、ふたたび立ち上がってうろうろと歩き出す。その繰り返しを続けるのは、見覚えのある後ろ姿だった。

 彼がなにを探しているのかなんて、すぐに察することができた。


「……なに似合わないことやってんの、菅原」

 よほど探し物に必死になっていたのか、こちらに気づく気配のない菅原に近づいて、そう声を掛ける。

 廊下ですれ違ったときと同じジャージ姿のまま、しかし地面に座り込んだせいか膝は泥で汚れている。彼はこちらを振り向くと、「ああ、清水」と声を上げてから

「このへんに手袋落ちてなかったか?」

 出し抜けに、そう尋ねた。

 ここ最近まったく口をきいていなかったことだとか、そんな気まずさは飛び越えて、まずはこのことが最優先だとでもいうような、ひどくさらっとした口調だった。

 こういうところなのだと、ふいに思う。


「……どんな手袋?」

「よくわかんねえけど、紺色だって。直接は見たことはないから」

 このへんに落ちてるはずなんだけどな、呟きながら、菅原はまたしゃがみ込む。真剣な表情で生垣を隅から隅まで眺めている横顔に、さらに質問を投げかけた。

「なんで、このへんに落ちてるってわかるの」

「いや、それがさ」

 そこで菅原はちょっと顔をしかめて

「うちの教室の窓から投げたらしいから。そんな遠くまでいかないだろうし、この生垣に引っ掛かってんじゃないかと思ったんだけどなあ」

 ――おそらく、忘れ物を取りに教室に戻った菅原は、そこであの女子生徒と遭遇したのだろう。

 突然の事態に彼女は慌てたに違いない。それを菅原が不審に思い、問い詰め、八木の手袋を投げ捨てたという話を聞き出して探しに来た、ということか。そして今まで、ずっと、こうして探していた。


 途方に暮れたような気持ちになって、息を吐く。菅原は相変わらず、真剣な表情で生垣を探している。

「ね、菅原」

 彼は生垣のほうを向いたまま、うん、と語尾を上げた調子の相槌を打った。

「その手袋って、八木ちゃんの?」

 菅原の手がふっと止まる。それから少しの間を置いて、そう、と返ってきた。

 俺は、ふうん、と呟いて黙った。言いたいことはたくさんあるはずだった。しかしうまく整理ができなかった。短く息を吸う。結局まとまらないまま口を開けば、感情にまかせた言葉が押し出された。

「――おせえんだよばーか」

 菅原は、ようやくこちらを向いた。きょとんと俺を見つめる間の抜けた顔に向けて、さらに重ねる。

「手袋ならもうとっくに俺が拾って、八木ちゃんに渡しました。だからいくら探してもそこにはないよ。残念でした」

 刺々しい口調で言い放つ。それでも菅原はむっとした様子なんて微塵もなく、ただ、ほっとしたように息をつくから困った。なんだ、心の底から安堵した声で呟く。それから笑って

「ならよかった。ありがと」

 ああもう。思わず漏らした声は、菅原には届かなかったらしい。

 彼はすぐに立ち上がると、軽く膝の泥を払った。それから、傍らに置いていたタオルを手に取る。そういえば、部活の途中だったのか。思い出して、俺は地面に視線を落とした。

 菅原のこういうところなのだろうと、思う。八木が好きなのは。

 ――そして結局のところ、俺だって好きなのだ。


「菅原さ」

 うん、とまた語尾の上がった調子の相槌が返ってくる。

「なんで最近、電車一本遅いやつで来てんの」

「は?」

 今度は困惑したように聞き返されたが、気にせず続けた。

「八木と顔合わせにくいから? でも菅原、今まではそんなこと気にしてなかったじゃん。誰と別れた直後だろうが、これまで通り過ごしてたでしょ。自分の生活のスタイルっていうかさ、そういうの変えるの嫌がってたじゃん。なのになんで、最近は変えてんの。お前、満員電車めちゃくちゃ嫌いでしょ。お前が今乗ってる電車さ、相当人多いんじゃないの」

 菅原はなにも答えない。構わずさらに続けた。

「それより八木と顔合わせるほうが嫌なの。ねえ、なんでそんな避けてんの、八木のこと。おかしいでしょ。だって八木さ、絶対顔合わせても文句とか言わなそうじゃん。だったら別にそこまで避ける必要ないじゃん。ねえ、菅原」

 なんでなの。

 わかりきったことをわざわざ答えさせて、なにがしたいのか。自分でもよくわからなかった。


 しばしの沈黙があって、そのあとで、だってさ、と菅原はようやく口を開く。

「八木は俺の顔、なるべく見たくないだろうし」

 静かな声で、彼はそう言った。それがなにも嘘のない言葉だということだけは、わかった。

 うん、と俺も静かに相槌を打ってから

「でもそれは、他の女の子だって同じだったんじゃないの。別れたあとは、なるべく菅原の顔見たくないって思ってたはずだよ、みんな。でも他の子は別によかったの」

 菅原は少し間を置いて、そうだな、とちょっと困ったような調子で頷いた。

「他の女の子と八木は違ったの」

 畳みかけるように尋ねる。またしばらく間が空いた。やがて、慎重に言葉を選ぶようにして、菅原は、「違ったんだろうな」と呟いた。

 八木は、他の女の子とどこが違ったの。そう尋ねようかと考えて、やはり思い直す。もう一度、短く息を吸った。

「八木の、どこが好きなの」

 冷たい風が容赦なく吹き付けて、剥き出しの耳はじんと痺れてきた。それでも俺は帰り支度を済ませた格好だから、マフラーに手袋に防寒対策はしっかり出来ている。

 対して菅原は部活途中で抜けてきているので、ジャージの下は半袖のTシャツ一枚なのだろう。外に出るには幾分薄着だった。寒そうだな、と頭の隅で思う。だけど彼は、結構な時間、ここで手袋を探していたはずだった。


 しばしの沈黙のあと、やがて菅原はゆっくりと口を開いた。

「俺のこと好きだって、言ってくれるとこ」

 まあいろいろあるけど。一番は、それかも。早口にそんなことを付け加える。

 やたら照れたような口調だった。耳慣れない。なんだか菅原らしくなくて、むずむずする。気持ち悪いよ、と言いかけてやはりやめておいた。代わりに、

「……別れたんだってね。年上の彼女さんとは」

 出し抜けに違う話題を振れば、菅原は「ああ、まあ」とちょっと驚いたように頷いて

「なんで知ってんの」

 と聞いてきた。

「今日、その彼女、校門のとこまで来てたから。菅原まだ学校にいるのかって聞かれて、そのときにちょっと話した」

 説明すると、菅原は少し眉をひそめた。

「うわ、マジで。学校まで来てたのか」

「でも菅原、着拒はどうかと思うよ。さすがにかわいそう」

 さらっと付け加えると、菅原は驚いたように目を丸くしたあと、罰が悪そうな顔になって

「いや、一時期ちょっとしつこかったからさ、苛々してつい勢いで。まあ、たしかにそうだよな。一回ちゃんと真由美とも話したほうがいいとも思ってるよ」

「まゆみ?」

 突然聞き慣れない名前が出てきたことにぽかんとしてしまったが、すぐに思い当たった。

「……ああ、ナナコの名前。まゆみっていうんだ」

「は? なんだナナコって」

 今度は菅原がぽかんとしていたが、無視して踵を返す。そして顔は見ないまま、菅原―、と名前を呼べば、うん、と聞き返す声が背中に掛かった。

「その手袋さ、どうせもうすぐ菅原がもらえるよ」

 え、となんだか戸惑ったような声が聞こえた。菅原がなにか言わんとするのがわかって、それより先に言葉を続ける。

「チョコとか手袋とか、菅原、八木ちゃんからいろいろもらってばっかりなんだから、ホワイトデーはちゃんとお返ししなさいね」

 どうか、これだけで察してくれと、そう願って言葉を投げる。口にするのは、まだ、さすがにつらい。


 少しの間のあと、聞こえたのは、おう、という小さな声だけだったけれど、俺には充分だった。

 吐いた息が、一瞬だけ白く形作られたあとで淡く空気中に溶けていく。それを眺めながら、少しだけ笑った。

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