第16話 二人だけの恋
瞬時に、理解した。もう見て見ぬ振りなどする隙もなかった。
一つ息を吐く。それから、ゆっくりと口を開いた。
「要するに、それ」
腕を下ろして、一歩、八木と距離を置く。
「ごめんなさい、ってこと」
言うと、八木はうつむいて、ごめんなさい、と同じ言葉を口にした。
俺は黙って頷いてから
「まだ、菅原が好きなの」
わかりきったことなのに、そんな質問をしていた。
少しの沈黙のあと、八木は小さく、しかしはっきりとした調子で肯定した。
そっか、と呟いて目を伏せる。胸の奥を満たしていた冷たさも途端に姿を消して、今はただ、奇妙に静まりかえっていた。
「だったら、なんで」
こんなことを聞いてもどうにもならない。わかっていても、口は自然と質問を紡いでいた。
「別れてほしいなんて言ったの。菅原に」
その質問の答えは、俺はきっとよくわかっている。ずっと近くで見ていたのだから。だけど、八木の口から聞きたかった。
八木はしばし困ったように口ごもったあとで
「なんだか、つらくなって」
独り言のような調子で、答えた。小さく相槌を打つ。
最初はね、と八木が続ける。
「全然平気だったんだよ。菅原くんは私のことなんてべつに好きじゃないってわかってたし、それでも付き合ってもらえるだけで夢みたいで、近くにいられるならそれでいいやって。でも、なんだか」
そこで八木はふいに言葉を切って、黙り込んだので
「クラスの女子とか例の二年生とか、やっぱ鬱陶しかったの」
その質問には、八木はすぐに首を横に振った。
「それは平気だったよ、本当に。仕方ないって思ってたもん。でも、沙代が嫌がってたから、それは嫌だったな。あと、このことが菅原くんにばれるのは怖いなって、ずっと思ってて」
なんか、そういうのがいろいろあって。八木は言葉を探すようにして続けた。
「だんだんつらくなってきちゃったんだ。菅原くんはなにも悪くないし、もちろん嫌いにもなってないのに、私、何て言っていいのかわからなくて、菅原くんには酷いこと言っちゃった。別れてほしいって言うとき」
菅原くんはなにも悪くない。八木の言葉を繰り返す。
なにも悪くないということは絶対にないだろうに。そう思ったけれど、言うのはやめた。
沙代ちゃんに、菅原のどこがいいのかと聞かれて、かっこいいし優しい、とはっきり言い切った八木の言葉を思い出す。
八木は、心の底からそう思っていたのだろう。俺が八木のどこがいいのかと聞かれたなら、まず浮かぶのは、そうやって心の底から菅原を好いてくれる八木の姿なのだから、もうどうしようもない。
一つため息をついて、ポケットに手を突っ込んだ。手袋を引っ張り出し、八木に差し出せば、当然ながら彼女はきょとんとして、手袋と俺の顔を見比べた。
「え? なんで……」
「拾った」
短く、それだけ答える。なにか誤解されても構わないと思った。
「これ、八木ちゃんのでしょ」
尋ねると、八木は困惑した表情を浮かべながらも頷いた。それから、受け取ろうと手袋に手を伸ばしかけたところで、はっとしたように顔を上げて
「あ、でもこれ、もう完成してるから、清水くんにあげ」
「いらない」
遮って、きっぱり言い切る。本心だった。八木が目を丸くして俺の顔を見つめているから、またため息をつきたくなる。
「だって俺のじゃないし」
八木の手を取って、そこに手袋を握らせてから
「言ったじゃん。他の男へのものだってわかってんのにもらっても嬉しくないの」
自分で欲しがったくせに平然とそんなことを言って、八木に手袋を渡す。
八木はなんだか戸惑ったような顔で、自分の手に戻ってきた手袋を眺めていた。彼女が、でも、と言いかけたのがわかったけれど、続きは聞かずにさっさと踵を返す。途端に、一刻も早くこの場から立ち去りたくなった。
八木は追いかけてはこなかった。ただ、美術室を出ようとした直前に、慌てたように背中に声を投げてきた。
「あっ、ありがとう」
何に対する礼なのかと訝しんだ直後に、手袋、と彼女は言葉を続けた。
「拾ってくれて」
なんだか途方に暮れたような気持ちになって、目を伏せる。振り返ることもできず、うん、と一応は小さく返事をしておいたけれど、八木に届いたかどうかはわからなかった。
いつの間にか、北校舎だけでなく校内はどこも静まりかえっていた。
ほとんど重さなんてないようなものだったはずなのに、手袋が消えたポケットはひどく物寂しい。
やっぱりもらっておけばよかったかもしれない。それで川にでも思い切り投げ捨てていれば、少しは気が晴れただろうか。今更そんなくだらないことを考えている自分にうんざりして、はああ、と盛大にため息をついたときだった。
ちょっと、とひどく高ぶった調子の声が聞こえた。
そう遠くない場所からだった。とりあえず辺りを見渡したが廊下には誰も見あたらなかったので、俺に向けられた声ではなかったようだ。
どこかで喧嘩でもあっているのだろうか。もちろん首を突っ込むなどと面倒なことはする気がないので、気にせず歩き続けようとしたが
「いい加減にしなさいよ」
そう続いた声が、紛れもなく聞き覚えのあるものだったため、無視するわけにもいかなくなってしまった。
はあ、ともう一度大きなため息をつく。
普段は気にならないけれど、怒っているときの沙代ちゃんの声の甲高さはちょっと苦手だ。ぼんやりそんなことを思いながら、声のした方向へ重い足を進めた。
喧嘩があっていたのは、北校舎と西校舎の間にある短い渡り廊下だった。
二人の二年生に、沙代ちゃん、という二対一の構図らしい。二年生のほうも見覚えがあった。よく教室まで八木を見に来ていたし、たしか図書室で陰口を叩いていたのも彼女らだったはずだ。
もともと沙代ちゃんは気に食わなさそうにしていたけれど、ついに我慢が出来なくなったのか、二人に向けて激しい口調で捲し立てている。
「陰でこそこそこそこそ言って、みっともない。言いたいことあるなら直接言えばいいでしょ。それも出来ないわけ? ほんと苛々するのよ、そういうの」
まさか食って掛かられるとは思っていなかったらしく、驚いたように目を丸くしていた二人も、ようやく感情が追いついてきたのか、沙代ちゃんの言葉に「はあ?」と不快そうに顔を歪めた。
それでも沙代ちゃんに怯んだ様子はなかった。言い返そうと口を開きかけた二年生を遮り、さらに重ねる。
「だいたいね、菅原くんが好きなら、菅原くんに好きだとか付き合ってくれだとか言えばいいことでしょ。それが出来ないからって郁美に八つ当たりしてんじゃないわよ。郁美はね、自分でちゃんと言ったわよ。菅原くんに、自分の口で好きだって伝えて、自分の手でチョコだって渡して、だから付き合うことだって出来たんでしょう。陰口叩くしか出来ないあんたたちと違って、郁美は自分でちゃんと頑張ったの。あんたたちもそれくらいやってみればいいじゃない」
俺は思わず、足を止めた。
沙代ちゃんの言葉は、ずしりと、重たく腹の中に落ちた。
目を伏せて、息を吐く。間髪入れず、「は? 何なのあんた」という低い声が耳に届く。
顔を上げれば、二年生の一人が乱暴に沙代ちゃんの襟を掴むところだった。女の子も手荒なことをするもんだな、とちょっと驚きながらも、さすがにこうなると黙って見ているわけにはいかず、彼女たちの元へ早足に歩み寄った。
興奮していて周りは見えていないらしく、三人ともこちらには目もくれない。
「あんた一年でしょ。なにその口の利き方」
「そんな細かいとこどうでもいいでしょ。そっちは一年相手に面と向かって文句も言えないくせに、なに威張ってんだか。ばっかみたい」
上級生相手だろうが二対一だろうが、まったく物怖じしない沙代ちゃんの気丈さにはほとほと感心する。しかしそこまで言うのはさすがにまずいんじゃないだろうか、と心配した矢先、ついに二年生の一人がかっとしたように大きく手を振り上げたので、俺は急いで手を伸ばした。なんとか、沙代ちゃんに向けて振り下ろされる直前に、その手を掴む。
そこで三人とも初めて俺に気づいたらしく、弾かれたようにこちらを振り向いた。
二人の二年生は、途端にしまった、というような表情になる。俺が菅原の友人だということは知っていたらしい。
俺はちょっと考えてから
「暴力は、よくないよ」
二人とも、これ以上応戦する気はなかったようだ。掴んでいた手を離せば、彼女は苛立った様子で舌打ちをしてから、すぐに踵を返した。
最後の威勢とばかりに沙代ちゃんを睨み付けていったようだが、沙代ちゃんのほうも負けじと鋭い視線を返していた。
これからしばらく、沙代ちゃんを見張っていたほうがいいかもなあ、とぼんやり考えながら二人の背中を見送っていると
「ありがとね、清水くん」
そう言われて、沙代ちゃんのほうを向いた。彼女は掴まれた襟を直すのに忙しいようで、視線は合わなかった。まだ苛立ちは抜けていないらしく、乱れた襟を直す動作は荒い。
「……沙代ちゃんて、なんかすごいね。怖くなかったの?」
「んー、それどころじゃなかったよ。もう腹立って仕方なくてさ」
まあ、わかるけど。頷くと、沙代ちゃんは落ち着きを取り戻したように一度息を吐いて
「でもよかったな、清水くんが来てくれて。あたし、喧嘩とかしたことなかったし。あのまま続けてたらちょっと危なかったかも」
そう言って、へらりと笑った。沙代ちゃんだったら大丈夫そうだけどね。そう言おうかどうか迷って、結局言わずに留めた。
代わりに
「……八木ちゃん、まだ美術室にいたよ」
そう言って、笑顔を浮かべてみた。
「え、本当に? じゃあ一緒に帰ろうっと。清水くんも一緒帰る?」
「や、俺はいい」首を振ってから、少し考えて、「菅原のとこに行ってみる」
沙代ちゃんはなにも気にした様子はなく、そっか、と笑った。じゃあばいばい、と軽く手を振って廊下を歩いていく沙代ちゃんの背中をぼうっと眺めて、またため息をつく。
そうだ、全部、八木だった。何ヶ月も菅原を想い続けて、バレンタインにはチョコを用意して、それを自分の手で渡して、自分の口で好きだと伝えて、この数週間は恋人として傍にいた。その間に、菅原も八木のことが好きになった。ただそれだけのことだった。どうしようもなく不器用な二人の恋だった。それ以外はなにもない。
最初から、ただ、二人だけの恋だった。
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