第13話 気づき

 ナナコだ。窓の外を眺めていた航が、ふいに顔をしかめて呟いた。

 俺も航の視線の先を辿ってみれば、校門の側に、たしかにナナコらしい後ろ姿が小さく見えた。この距離でも人目を引くとはさすがだな、と感心しつつ、本当だ、と適当に相槌を打つ。

 壁に軽く寄りかかって携帯電話をいじっている姿を見るに、うちの学校の誰かと待ち合わせをしているのだろう。誰かも何も、間違いなく菅原だろうけど。

 航も同じようなことを考えていたらしく、苦々しい表情でため息をつくと

「孝介のやつ、ナナコとはまだ続いてんだな」

 と、ぼそっと呟いた。

「そうみたいだね」と、俺は軽い調子で頷いてから

「ていうか、ナナコときちんと付き合うために、八木と別れたんじゃないの」

 そう続ければ、航もすぐに納得したように、あー、と唸るような声を漏らした。


 改めて、小さく見えるナナコの後頭部と背中を眺めてみる。ここからでは彼女の自慢の美貌はまったく見えないというのに、紛れもなくナナコだとわかるのがすごいなと、頭の隅で思った。顔だけでなく、彼女は全身の隅から隅まで洗練されているらしい。

 八木には悪いけれど、なんだかんだ菅原とナナコはお似合いなのだと思う。ノリも合うだろうし、二人が並んだ絵もしっくりくる。ナナコなら、菅原の隣にいても誰も文句は言えないだろう。


 視線の先のナナコが、携帯から顔を上げ、不機嫌そうに辺りを見渡した。なかなか待ち人が来ないらしい。

 でも菅原の席はとっくに空いているから、もうナナコのもとへ向かっているはずなのに、一体何をしているのだろう。教室から校門まで真っ直ぐ向かえば三分とかからないはずなのに、どこで時間を食っているのか。可愛い彼女が待っているのだから、早く行ってやればいいのに。

 ぼんやりとそんなことを思いながら窓の外を眺めていると、「ああ、もうっ」という思い切り苛立った声が真横から聞こえてきて、驚いた。

 見ると、いつからいたのか、沙代ちゃんが俺のすぐ横に立って、同じように窓の外を見つめていた。

「どうしたの、沙代ちゃん」

 随分と苛立っているらしい彼女の横顔に尋ねれば

「例の二年生! もう、うざったくてしょうがないの。また今日もいちいちこの教室まで来てさ、郁美のほう見てこそこそ言ってんの。別れたってのに、まだ何か文句あんのって感じでしょ。言いたいことあるなら直接言えばいいのに。てか、だいたいあんたは菅原くんの何なのよって話じゃない? それで郁美は相変わらず、全然気にしてないから何も言わないで、なんて言うしさあ」

 沙代ちゃんが早口に捲し立てる。

 俺も、菅原の元カノらしい例の二年生が今日もこの教室に来ていたことは気づいていた。菅原と別れた八木を嘲笑わずにはいられないのは、あのクラスメイトだけではないらしい。それで沙代ちゃんが怒っていたのも、八木がいつものようにそんな沙代ちゃんを宥めていたのも、遠目に確認していた。

「うわマジで」と、航が相槌を打つ。それから、「たしかにうぜえなあ」と同意の言葉が続いたので、「でしょー?!」と沙代ちゃんはよりヒートアップしていた。

「だいたい、菅原くんも菅原くんだけどね!」

 そこで急に、沙代ちゃんの矛先が菅原のほうへ向いた。「あの人さ」と、沙代ちゃんは苦々しげに窓の外を指さすと

「菅原くんの彼女なんでしょ。よくもまあ、郁美と別れたばっかりだってのに、堂々とっ」

「あれ、沙代ちゃん知ってたんだ。ナナコのこと」

「そりゃまあ、よく菅原くんと一緒にいるとこ見るもん。あの人目立つし」

 沙代ちゃんが苛々と言葉を並べている間、窓の外のナナコも苛々とした様子で辺りを見渡していた。菅原はまだやってこない。本当に何してるんだろう菅原のやつ、と、どうでもいいことを頭の隅で思いながら、沙代ちゃんの言葉に相槌を打つ。

「てか、八木はどこ行ってんの?」

 ふいに航が教室を振り返って、沙代ちゃんに尋ねた。

 見ると、八木の机にはまだ鞄が置かれたままだった。下校はしていないらしい。沙代ちゃんは、ああ、と声を上げてから

「先生に頼まれごとしたらしくて、美術室に行ってる」

 八木はよく頼まれごとをされるなあ、と思いながら

「沙代ちゃんは、八木ちゃんを待ってるの?」

「ううん、あたしは今日委員会だから、別々に帰るよ。ああ、ていうかもう時間だ。行かないと」

 沙代ちゃんは腕時計に目を落として、慌てたように声を上げた。それから、じゃあね、と軽く手を振って、くるりと俺たちに背を向ける。

 早足に廊下を歩いていく彼女の背中を見送りながら

「沙代ちゃん、だいぶ怒ってたね」

 呟けば、「だいぶ怒ってたなあ」と航も繰り返した。

「明日あたり、孝介、ビンタでもされんじゃねえの」

「沙代ちゃんならやりかねないよね」


 苦笑してから、窓のほうへ向けていた身体を教室のほうへと向け直す。

 皆が下校した教室の中、八木の机にだけぽつんと置かれた鞄はやけに目立っていた。何とはなしに、それをぼんやり眺めていると、無造作に開けられたままの鞄の口から、紺色の毛糸が覗いているのに気づく。すると、隣の航も同じものが目に入ったらしく

「あー、あれ、噂の手袋かな」

 と、八木の鞄を指さして言った。だろうね、俺が頷くと

「そういや、手袋もうすぐ完成するってさ。今日の昼休みにも作ってたんだけど、あと仕上げだけだって。明日にはもらえるんじゃねえの」

 ふうん、と呟いて、少しだけ見えているその紺色をじっと見つめる。そういえば、菅原のマフラーも紺色だった。思い出し、すっと、微妙に体温が下がる。

 忘れていたつもりはなかった。あれはそもそも菅原のために編まれたものだということくらい、わかっていて、それでも欲しがったのは自分だ。

 なのに、いざ実物を前にすると、自分が本当にそれを欲しいと思っているのか、よくわからなくなってきた。


「……帰ろっと」

 呟いて、足下に置いていた鞄を肩に掛け、愛用の赤いマフラーを首に巻く。すると航も「じゃ、俺も部活行こ」と言って、鞄を手に取った。

「そろそろ仲直りしてくれよなー」

 教室の前で別れる間際、航が最後にそんなことを付け加えてきた。

 誰と、なんて聞かなくてもわかっていたので、はいはい、とだけ適当に返すと、航は苦笑いをして、それ以上は何も言わずに手を振った。


 仲直り。廊下を歩きながら、航の言葉を繰り返してみる。

 仲直りもなにも喧嘩をしたわけではないから、どうすれば仲直りになるのかよくわからない。ただ俺が、菅原の顔を見たり声を聞いたりするのが嫌になっただけで、これが嫌でなくなればすぐに今まで通りに戻れるのだろうけれど、今のところ、いつそうなるのかは見当がつかなかった。



 校舎を出て校門まで歩いてきたところで、俺は思いがけない光景に思わず足を止めてしまった。

 ナナコが、まだそこにいた。教室の窓から眺めていたときと同様、携帯を片手に、壁に寄りかかって立っている。

 菅原は一体どうしたのだろう。こんなに待たせて、気短そうな彼女のこと、きっとあとで大変だろうに。他人事なので気楽にそんなことを思いながら、校門のほうへ歩いていくと、途中で携帯から視線を上げたナナコと目が合った。


 ナナコは、あ、と小さく声を上げて、すぐに携帯を閉じた。それから、早足にこちらへ歩いてくる。彼女の表情や仕草は明らかに苛立っていて、後退りしたくなったほどだった。

 ねえ、と低い声で呼び止められる。ナナコの苛々が俺にまで飛んできそうな状況に、心の中でため息をついた。

「なんですか」

 聞き返せば、ナナコは愛想のかけらもない口調で

「孝介、今どこにいる?」

 と尋ねてきた。俺がなにか答えるより先に、「まだ学校いるんでしょ」と質問を重ねる。

「いると思いますけど」

 あからさまに無愛想な態度をとられると、さすがにこちらもむっとして

「気になるなら、電話してみれば早いんじゃないですか。携帯持ってるじゃないですか」

 と、ナナコがしっかり握っている携帯電話を指して、素っ気なく勧めてみる。

 するとナナコはいっそう苛立った様子で

「電話繋がんないのよ。向こうが着拒してるっぽくて」

 なんだ、喧嘩中なのか。これは関わると面倒なことに巻き込まれそうだと思い、早くこの場を立ち去る方法を考えていると、

「別れたとたん着拒とか、ありえないでしょ」

 興奮気味に、ナナコが続けた。


 早口に捲し立てられた言葉の意味はよくわからず、俺はナナコの顔を見た。聞き間違いかと思った。

「――別れた?」

 何の話だろう。

 聞き返すと、ナナコは強い調子で頷いてみせる。

「たいした理由もなしにいきなり別れてくれなんて言われても、納得できるわけないでしょう。こっちはちゃんと話したいのに、向こうは徹底的に無視してるみたいだし、どうしようもないから学校まで来ちゃったわよ」

 状況が理解できず、ぽかんとしている間に、ナナコはさらに続けていく。

「ねえ、孝介、まだ学校いるんでしょ。ちょっと呼んできてもらえない?」

「……別れたって、それ」

 ナナコの言葉に反応する余裕はなかった。ひどく混乱しながらも、なんとか言葉を選び出して、尋ねる。

「いつの話ですか」

 心臓が、緩やかに鼓動を速めていた。

 ナナコは自分の言葉を無視されたことにむっとしたように、眉を寄せてから、素っ気なく答えを返した。

「全然最近の話。ああ、ちょうど一週間前か、言われたのは。話があるって言って、孝介がこっちの学校まで来て、そしたらいきなり」

 最近の話なのは当たり前だ。菅原が八木と付き合っているときに、俺は菅原がナナコと一緒にいるところを何度か見ている。

 ああ、でもたしかに、ここ一週間は見ていない。菅原が、ナナコの学校へ行くと言って、部活をさぼっていた姿も見かけない。

 あの日が最後だった。八木が菅原に、誕生日を一緒に過ごしたいと頼んだ、あの日。菅原はナナコのもとへ行くから、八木との下校を断っていた。それで八木は、俺のいる早朝の教室で、ものすごく大事なお願いをしなければならなかった。二人の関係が終わる決定打となったはずの、あの日に、菅原はナナコのもとへ行って――別れを切り出した?


 指先から、一気に冷たさが広がっていく。

 数日前から感じていた嫌な予感。正体の掴めなかったそれが、今、目の前で形を成そうとしていた。


 ナナコがまたなにか言葉を続けている。しかし、その声が脳まで届くことはなかった。

 踵を返す。考えるより先に、校舎に向かって歩き出していた。沙代ちゃんの言葉を思い出す。八木は先生に頼まれごとをして、美術室に行ったと言っていた。

 美術室。美術室。意味もなく、何度もその単語を頭の中に巡らせながら、乱暴に靴を脱いで、校舎にあがる。八木はまだいるだろうか。どうかいますようにと強く願いながら、足を進めた。

 余裕なんて、もう一欠片も残っていなかった。

 ――そもそも、最初から余裕なんてなかったのだ、俺には。今、この瞬間まで、俺が気がつかなかっただけで。

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