第12話 耳障り

 翌日から、俺は菅原と口を利けなくなった。

 休み時間や放課後に彼のもとへ向かわなくなったのはもちろん、おはようやお疲れのやり取りすら交わさなくなった。

 菅原のほうも、俺が避けていることは察したらしい、あちらからもなんとなく距離を置かれているようだった。

 一日前までごく普通につるんでいたのだから、当然航は困惑していて、菅原と何かあったのかとしょっちゅう俺に尋ねてきた。俺はそのたび、別に何もないと首を振っていたが、だったらどうして菅原と口をきかないのかと、航は当然の質問を続ける。

 俺自身、その質問の答えはわからなかった。とにかく今は菅原と話したくなかった。出来るなら顔も見たくなかった。それは憎しみにも似た感情なのに、自分がなぜ菅原に対してこんな感情を抱いているのかはわからなくて、ひどく気持ちが悪い。


「八木のことで怒ってんの?」

 ふいに航がそんなことを聞いてきたとき、「は?」と聞き返した俺の声が思いのほか冷たかったので、自分で少し驚いた。

 航のほうを見れば、彼も驚いたように目を丸くしていた。それはそうだ。航は別に怒るようなことは言っていない。少し反省する。なんだか最近は、「八木」というワードもやたら気に障るらしい。

「違うよ」

 短く答えれば、航は釈然としない表情で首を捻った。

「じゃあ一体何なんだよ」

 航が困り果てたように唸る。たしかにまあ、友人二人がぎくしゃくしたときに、間に挟まれる人間というのは堪らないのだろうな、とは思う。それはわかるが、今は俺のほうから菅原へ歩み寄る気はまったくなかった。航には申し訳ないけれど、無理なものは無理なのだ。

「孝介がああいうやつだってことはさ、和也もよくわかってたんじゃねえの? なんで今更」

「だから違うって。別に怒ってないよ」

 俺の返事に構わず、航がそんな言葉を続けたので、もう一度きっちり否定しておいた。そうだ、よくわかっていたのだ。今更怒るようなことでもない。

 じゃあ何なのさマジで、と航が盛大にため息を吐いた。どうやら本気で悩んでくれていたらしく、かなり疲れ切った顔をしている。

 俺は苦笑して、ごめん、と謝ってから

「あんまり気にしなくていいよ」

 適当にそんなことを言っておいた。

 航はなんだか諦めたようにため息を吐いて

「まあ今回はさあ、俺もちょっと引いたけどね」

 と、少し声を落としてから呟いた。

「今までの子はさ、言っちゃ悪いけど、軽い感じだったじゃん。でも八木は結構本気で孝介のこと好きっぽかったし、八木ってすげえ一途そうだし、さすがにちょっと、どうかと思ったわ。孝介」

 俺の否定の言葉は完全に無視しているらしい航に、だから違うってば、ともう一度言おうとしたが、なぜだかうまく声が出なかった。

「八木、やっぱすげえ落ち込んでんの? 大丈夫そうだった?」

 そう尋ねる航の表情は真剣だった。心から心配しているらしい。やっぱりこいつはいいやつだな、とぼんやり思う。俺は、まあ、と曖昧に頷いてから

「でも大丈夫でしょ。時間経てばさ。菅原が思ってたのと違うやつだって八木もわかっただろうし、吹っ切れるんじゃないの」 

 まあ、そうだなあ、と航は神妙な顔で相槌を打つと

「そういや八木、手袋はどうしたんだろうな」

 窓の方へ視線を飛ばして、唐突に呟いた。

「手袋?」

「作ってたじゃん。孝介の誕生日プレゼントにって。もうすぐ完成するらしかったけど、もう渡せなくなっちまったな。もったいねえなあ」

 八木頑張ってたのに、と心底気の毒そうに航が呟く。

 俺は、そうだね、と短く頷いた。

「俺にくれないかなあ。ちょうど手袋欲しいと思ってたんだよなあ。捨てるより良いだろうし、今度言ってみようかな」

 航の言葉に適当に相槌を打ちながら、俺も窓の方へ視線を飛ばした。部活へ出たのか帰宅したのかはわからないが、菅原の席はすでに空いている。

 結局、今日は彼と一言も喋らなかった。というより、目すら合わなかった。俺が頑なに菅原のほうを見ないようにしていたのだから当たり前だけど。そんなことを思いながら、主が不在の席をぼうっと眺めていた。



 菅原は登校時間を遅らせることを決めたようだが、八木のほうは今までと変わらず、まだ暗いうちに一番で登校していた。

 教室に入ると、物音に気づいて顔を上げた八木と目が合う。おはよう、と挨拶をした彼女の笑顔が少し硬かったのは、先日俺が冷たくしてしまったせいだろうか。俺は出来るだけ優しく笑って、おはよう、と返した。すると、ちょっと安心したように、八木が表情を解す。

「今日も寒いね」

 言うと、寒いね、と八木は柔らかく笑った。

「水たまりに氷が張ってたもんね」

「張ってたねえ。畑とか霜で真っ白だったし。もう見てるだけで寒い」

 話しながら両手を包んでいた手袋を外すと、ふいに八木が、あ、と声を上げて

「手袋いいな。今まではなくてもいいかなって思ってたけど、こんなに寒いと、私も欲しくなる」

 そこで八木が唐突に言葉を切った。明らかに中途半端なところで打ち切られたので、怪訝に思い八木のほうを見ると、強張った表情でこちらを見る彼女と目が合った。少し考えて、気づく。どうやら手袋という単語がNGだったらしい。


 八木がなんだか焦ったような顔をしているので、ここは流したほうがいいのだろうかと思ったけれど、昨日の航の言葉が頭を過ぎり、ちょっと手袋のことが聞きたくなった。

「あー、そういや航が、手袋欲しいって言ってたよ」

「え」

「八木ちゃん、作ってたでしょ、手袋。もうすぐ完成するんでしょ?」

 なるべく軽い調子で尋ねてみれば、八木は少しだけ口ごもったあとで、うん、と小さく頷いた。

「せっかくそこまで作ったんだし、完成させなよ。もったいないじゃん」

 言うと、八木はしばし迷うように黙っていたが、やがて

「……うん、そうだね。紺野くんにも言われたしね」

 と、少し笑顔も見せて、頷いた。唐突に出てきた航の名前に、俺は「え?」と首を捻り

「航に言われたって、何を?」

「手袋、完成したらちょうだいって。ちょうど欲しいと思ってたからって」

 ああなんだ、航のやつ、もう言ってたのか。というか、本当にそんな図々しいお願いをしたのか。ちょっと航に感心していると、同時に腹立たしさも生まれてきた。

「え、八木ちゃん、完成したら本当に航にあげるの? 手袋」

「え? うん」

 そのつもりだけど、と八木はあっさり頷いた。

 えー、と口をとがらせれば、当然ながら八木はきょとんとして俺を見た。子どもっぽいとは思ったが、みすみす航に渡してしまうのはどうにも腹立たしいので

「航にやるぐらいなら、俺にちょうだい」

 そう言ってみると、八木は不思議そうに俺の左手に目をやった。そこには、さっき外した手袋が握られている。その手袋を指さして、でも、と言いかけた八木を遮り

「これさ、もうボロボロなんだよ。ほら、こことか穴空いてるし。ちょうど俺も、新しい手袋欲しいなって思ってたところで」

 言うと、八木はふふっと声を立てて笑った。それから、いいよ、と頷いて

「清水くんには、いろいろお世話になったもんね」

 そう言って、どきりとするほど穏やかに微笑んだので、ちょっと戸惑ってしまった。


 同時に、なにか冷たいものが喉の奥に流れ落ちるような感覚がした。

 先日、電話口に菅原の声を聞いているときに感じたものと同じ、その感覚に、じわりと嫌な予感が広がる。それはすぐに的中した。

 八木の顔からふっと笑みが消えたかと思うと、なんだか悲しそうに目を伏せる。しばし言いづらそうに口ごもったあとで、あの、とようやく発せられた声は、普段よりいっそう小さく、弱い響きだった。

 顔を上げた八木の視線が、一瞬、窓際の菅原の席へ走るのがわかった。それだけで、続く言葉が容易に予想できて、思わず耳を塞ぎたくなる。

「清水くん、なんだか最近、その」

 ひどく言いにくそうに、八木が切り出す。

 なに、と尋ねる声が、自然と低いものになった。

「菅原くんと……何か、あった?」

 何もないよ。短くそう答えればいい話だったのに、喉から溢れたのは、自分の意志よりもずっと冷たく響く声だった。

「八木には関係ないよ」

 ぴしりと、空気が音を立てた気がした。

 八木が驚いたように押し黙るのがわかる。目の前にある八木の顔を見たくなくて、俺は窓の方へ視線を向けた。すると、意図せず菅原の席が目に入ってきて、余計に気持ちの悪い冷たさが広がる。


 短い、しかし重たい沈黙のあとで

「そう、だね。ごめんね」

 早口に八木が言った。顔は見なかったのでわからないけれど、きっとあの、引きつった笑みを浮かべていたのだろうなと思う。結局八木のほうを見ることは出来ないまま、俺は立ち上がると

「そういえば、宿題が終わってなかった」

 唐突に告げれば、八木は、へ、と間の抜けた声を上げた。苛々をなんとか押し殺して、にこりと笑みを浮かべる。

「じゃあね」

 そこでようやく八木の顔を見ると、彼女はぎこちなく笑って、うん、と頷いた。


 ――そう、八木には関係のないことなのだ。

 自分の席へ戻りながら、思う。

 だいたい、どうして今になってまだ、八木が菅原の名前を口にしているのだろう。もう、八木と菅原には何の繋がりもないのだ。今になっても、八木の口から菅原の名前が出てくることがおかしい。

 おかしい。

 そんなことを考えていると、昨日聞いた、クラスメイトの女子の高い声まで思い出して、余計に苛々が増してきた。


 早くも情報を仕入れたらしく、一ヶ月も経たないうちに菅原と別れた八木を、それみたことかと満足げに笑っていたあの子は、結局二人の何が気に食わなかったのだろう。

 だから遊ばれてるって言ったのに、本気で好かれてると思ってたのか、鼓膜を引っ掻くような耳障りな声で並んでいく言葉。二人が付き合っている間もずっと、飽きることなく罵倒を続けていたその子にだって、これまで腹が立ったことはなかったのに。今、彼女らが口にする八木への非難は、一つ一つが、どうしようもなく耳障りだった。

 二人は別れたのだから、もう何も言う必要はないだろう。満足しただろう。早く、黙ればいいのに。早く。


 どうして未だに、菅原と八木の間にこんなにも繋がりがあるの。

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