第11話 引き金
振られた、と告げた菅原の声は、いつもと変わらぬ軽さだった。
『嫌いになったってさ』
どんな反応を返そうかと迷っているうちに、菅原が続けた。ため息を吐くような笑いも混じる。
『初めて言われたかも。さすがに、そこまでは』
菅原は滅多に電話をかけてくることがないので、電話口に聴く彼の声は聞き慣れない。いつもより少し低く、静かな調子に聞こえた。
俺はベッドに寝転がっていた身体を起こしてから
「嫌いになった?」
と聞き返す。菅原は頷いて、また少し笑った。傷ついたと口では言いつつ、まったく気にしていないように笑った、あのときと同じ笑い声だった。
「八木ちゃんがそう言ったの? 嫌いになったって、菅原に?」
重ねて確認すれば、菅原は短く相槌を打って
『嫌いになったから別れてほしいとのことで。こんなストレートな振られ方はなかなかないよな』
俺は相槌すら打てず、黙って天井を見つめた。
又聞きの話だというのに、瞬時にわかってしまった。心の中でため息をつく。八木は、どうしてこんなにも嘘が下手なのだろう。
「本当に、別れたの?」
しばしの沈黙のあと、そう尋ねてみれば
『別れたよ』
なんともあっさりした口調で、答えが返された。それからすぐに、『そりゃ、だってさ』と苦笑混じりの声が続く。
『嫌いになったなんて言われたら、もうどうしようもないだろ。ここまできっぱり言われたら』
たしかにね。適当に相槌を打ってから俺がまた黙ると、菅原が怪訝そうに『あれ』と声を上げた。
『なんか、思ったより反応薄いのな』
指摘されて、初めて気づく。菅原が女の子と別れたという話題自体は、今更食いつくほうが馬鹿らしいほど食傷気味なものだが、八木と菅原とのことは俺も一応関わっている以上、ここまで淡泊な反応は不自然だったかもしれない。
それでも、菅原の声を聞くたびに胸の奥が奇妙に冷めていって、喉を通るのが、自然と低く静かな声になるのはどうしようもなかった。
「これでも驚いてるよ」
そう言った俺の声もどうしようもなく冷めていて、『本当かよ』と菅原が笑った。
嘘に決まってる、と心の中でだけ呟く。驚くわけがない。そもそも菅原は、なぜ俺が驚くと思っていたのだろう。こうなることくらい、予想はついていたに決まっている。菅原の性格も八木の性格も、俺はよく知っていたのだ。
そう言おうかと思ったけれど、なんだか喋るのも面倒に思えたのでやめた。
黙って、ふたたびベッドに倒れ込む。勢いが良かったため、スプリングがぼすんと鈍い音が立てた。
そうして気づく。喋るのが面倒になるのは、いつも、イライラしているときだ。思えばさっきから、菅原の一言一言がやけに気に障る。電話越しの彼の声は耳慣れないからか。そもそも菅原は、なぜ電話を掛けてきたのだろう。メールすら滅多に送らない彼だ。今まで、よほど緊急の用事でもない限り、電話なんて掛けてくることはなかったというのに。
そんなことを考えたとき、正体の掴めない冷たさが背中を走った。なぜだか、嫌な予感がした。
『なあ清水』
次に菅原が口を開いたとき、彼の声が、先ほどまでとは打って変わっていやに真面目なものになっていたので、またよけいに冷たさが増した。
俺は出来るだけ静かな調子で、なに、と聞き返す。そのあと菅原が、『いや、あのさ』となんだか言いにくそうに口ごもったのがいつもの菅原らしくなくて、それも嫌だと思った。
『八木から』
口ごもったあとに彼の口から出たのはやはりその名前で、俺は思わず携帯を握る手に力を込めた。
『なんか聞いてる?』
彼の質問の意味はよくわからなかったけれど、聞き返す気にはならず
「聞いてないよ、なにも」
それだけ、短く答えた。
そっか、となにか考え込むように菅原が呟く。そのあと、いきなり電話の向こうが静まりかえってしまったので
「なに、どうかしたの」
と質問を投げてみた。少し間が空いてから、あのさ、と菅原の声が返ってくる。
『八木が言ったんだよ。俺が嫌いになったってこと以外に、もういっこ』
菅原はそこでいったん言葉を切った。また、迷うような間が空く。それでも俺が相槌を打って続きを促すと、菅原は言葉を続けた。
『なんかさ、他に好きなやつが出来たって。だから別れてくれって』
その言葉自体には、なんの衝撃も受けなかった。もう一度心の中でため息をついただけだった。
これも、考えるまでもなく嘘だとわかる。八木の不器用さは、本当にどうしようもない。菅原のほうへ全面的に責任を押しつける別れ方だって出来たはずだ。だけど八木には、こうする以外思いつかなかったのだろう。
ただ、この言葉を口にするときの、菅原の妙に静かな口調が、なぜだかとても嫌だった。
「――あのさ」
天井を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。
「結局、菅原さんは俺に何のお話がしたいのでしょうか」
口調だけはいつものおどけた口調にしてみたけれど、喉から出たその声は、自分でも驚くほど低かった。
菅原は、しばらく黙っていた。彼と会話をしていて、こんなにちょくちょく沈黙が挟まることは今までなかった。今日は馴染みのないことが多くて、妙に落ち着かない。電話越しに聞く菅原の声も、煮え切らない話し方も、弱い言葉尻も、なぜか気に障る。
『……俺さ』
しばらくして、菅原は口を開いた。その声も、やはり聞き慣れないものだった。
『その好きなやつって、お前じゃないかと思って』
その言葉は、耳の奥で奇妙にはっきりと響いた。
俺がなにも返せずにいるうちに、だから、と菅原が続ける。
『お前が八木のことどう思ってるかは知らないけど、よかったら気に掛けてやってほしいなって。ちょっと気になったから。まあ、それだけなんだけど』
――理由は、わからなかった。
その言葉が決定打となった。俺の中でなにかが弾けた。だけどそれが、怒りなのか恐怖なのかということすら、はっきりしなかった。耳の奥がじんと熱くなる。降り積もっていた苛々と合わせて、喉からはこれまで以上に低く冷たい声が押し出された。
「なに、それ」
どうしようもなく不快だった。菅原の口からそんな言葉を聞くことだけは耐えられなかった。
きっと、それは菅原の優しさだった。なんの他意もない、ただ純粋に八木を気遣う、優しさだった。
だからこそ許せなかった。今更、菅原にそんなことをする資格はない。それだけでこれまでのことをすべて帳消しになどさせない。八木が一世一代の勇気を振り絞ったあの日、きっと彼女にとっては最後の賭だったであろう、あの願いを口にした、そして結局二人の関係の終わる決定打となったあの日も、菅原がまたナナコのもとへ行ったことは知っている。全部菅原なのだ。二人の関係を終わらせたのは。
菅原には、え、と一言聞き返すのだけ許して、あとは口を挟む間も与えなかった。
「なに今更良い面しようとしてんの。嫌いになったとか好きなやつが出来たとかさ、菅原、八木が本気でそう言ったって思ってんの。なんか自分には責任ないみたいな言い方してるけど、八木にそう言わせたのは菅原でしょ。俺はずっと知ってたよ。八木がどれだけ傷ついてたのかも、いつも近くで見てたし、泣いてたら慰めてやってたんだよ、ずっと。菅原に言われなくたって、俺はずっと気に掛けてたよ。お前が八木のこと、何一つ気に掛けない間も。菅原知らないでしょ。八木さ、お前の元カノか知んないけど、クラスの女子とか上級生とかから嫌がらせ受けてたんだよ。菅原と付き合ってる間。言ったら心配かけるってお前に言う気はなかったらしいけど。なんにも気づかなかったでしょ、お前、八木のこと全然見てなかったし」
一気に捲し立てたせいで、息が苦しくなった。
菅原は、しばらくなにも言わなかった。
俺が何度か肩を上下させ、呼吸を整え終えたころだった。ようやく電話の向こうから、呟くような声がした。
『ごめん』
力無い謝罪の言葉が聞こえても、少しも気は晴れなかった。俺はきっと、菅原に謝られたかったわけではないのだろう。菅原を責めたかったわけでもないのだ。腹が立ったのは、菅原の調子の良さに対してではない。そもそも、自分が腹が立ったのかどうかもよくわからない。
ただ、ひどく動揺した。見たくない真実を突きつけられそうになったことに。
『俺もわかってるよ。八木に酷いことしたって。だから気になって』
そこまで聞こえたところで、菅原の声は途切れた。
気づけば、携帯電話がベッドの上に無造作に転がっていた。俺はしばらく、通話中の画面のまま毛布の上に沈み込む携帯を眺めた。それでも結局ふたたび拾う気にはなれず、やがて目の前で通話は切れた。
その翌朝も、八木はいつも通り一番乗りで教室にいた。そしていつも通り、俺に気づくと笑顔で「おはよう」と挨拶をした。
その一連の様子は、これまでと変わったところはなかった。だけど少し、顔色が悪いように見えた。
俺は少し迷ったけれど、今日は八木のもとへは行かず自分の席についた。八木はちょっと不思議そうな顔をしていたが、彼女のほうからこちらに話しかけてくることはなかった。
なにをするでもなく席に座っていると、ちらほら他のクラスメイトも登校してきて教室は騒がしくなっていった。
やがて航も登校してきて、俺の席へ近寄ってきた。その途中、航はふと窓際の席のほうへ目をやって
「あれ、珍しいな。孝介まだ来てねえの?」
そう尋ねられて、初めて気づいた。いつも俺の次に登校している菅原の席が、今日はまだ空いていた。休みかと思ったが、始業時間の五分前、登校ラッシュの時間帯に菅原は教室に入ってきた。どうやら、人が多いからといつも乗るのを避けている、一本遅い電車を利用したらしい。
菅原は寝坊なんて滅多にしないやつだし、このタイミングだし、きっと電車を一本遅らせたのはわざとだろう。俺を避けたかったのか八木を避けたかったのかはよくわからないけれど、菅原でも気まずいと思うことがあるのか、と、ぼんやり思った。
――八木が、ちょっと話がある、と俺を呼んだのは、その日の昼休みのことだった。
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