第10話 終わりの予感

 そもそもナナコが八木の前に現れたあの日から、八木は、積もり重なった違和感から目を背けることなど出来なくなっていたのだろう。

 その後も二人のぎこちなさは変わらないまま、時間だけが過ぎた。八木は相変わらずなにも気にしない振りをしているようだったが、彼女の疲れは端から見ていてもわかるほどはっきり形を成してきて、それが余計に二人の間の違和感を色濃くしていった。

 結局、もうどうしようもなかったのだ。そもそも最初から、うまくいくはずもなかった。八木も、そろそろそれを認めざるを得なくなってきた頃だった。

 だから八木があんなことを言ったのは、彼女にとって、賭けだったのかもしれない。



「三月の十五日は」

 八木が追い詰められたような表情で口を開いたのは、俺と菅原と八木の三人しかいない、早朝の教室だった。

 本当は、菅原と二人でいるときに出したい話題だったのだろう。だけど菅原はその日、よくわからないけど今日は早く帰らなければならない、とお決まりの台詞で八木との下校を断っていたので、今しかチャンスはないと思ったのかもしれない。

 それほど八木は焦っていたらしい。早くしなければ、ナナコや他の女の子に先約を取り付けられるとでも思ったのか。そんな心配をしていること自体がおかしなことだとも、八木は気づいていたのだろうか。

「なにか、予定はあるの」

 ひどく切羽詰まった声だった。笑顔を作る余裕すらないようで、八木はあからさまに緊張した面持ちで菅原を見ている。

 菅原は一瞬きょとんとしていたが

「ああ、俺の誕生日」

 と、納得したように呟いた。八木は小さく頷く。菅原と話をするときは決まって膝の上で握りしめられている彼女の両手が、かすかに震えているのが見えた。

 あの、と、両手と同様に震える声が続く。

「もし、なにも予定がなかったら」

 八木はそこで一度言葉を切ると、短く息を吸った。ぎゅっと、さらに強く拳を握る。それから、消え入りそうな声でなんとか言い切った。

「い、一緒に、いられないかなって」


 それはきっと、八木にとって精一杯の勇気だったのだと思う。だけど、八木がこうして、これまでからは考えられないほどの勇気を振り絞ったことは、漠然と、近づく終わりを感じさせた。

 照れているというより、まるで断罪を待つかのような顔をして、八木はうつむく。

 俺はなにも言わず、菅原のほうを見た。彼は、ちょっと困ったような顔で八木を見ていた。なにか考え込んでいるようだが、どうせ八木のお願いに対する彼の答えは決まりきっているのだから、できるだけ彼女を傷つけずに断る台詞を探しているのだろう。だけど今更、そんな小さな気遣いで取り繕える状態でもなかった。


 あー、と菅原が困惑した声を漏らす。八木はうつむいたまま、じっと彼の返事を待っている。

 八木の必死な様子にさすがに罪悪感がこみ上げたのか、菅原はしばし迷うように黙っていた。しかし、結局彼の答えは変わらなかった。

「ごめん」

 菅原がそう言うと、握りしめられていた八木の両手からふっと力が抜けた。

 ゆっくりと顔を上げた八木に、菅原は眉尻を下げて笑うと

「なんかさ、うち、誕生日は毎年家族で過ごすことになってんだよなあ。悪いけど」

 例によって家族を持ち出した菅原に、そんな柄でもないだろうに、と思ったけれど、口に出すのはやめた。心の中でだけため息をついてから、そっと八木の表情を窺ってみる。傷ついたように強張っているかと思った彼女の顔は、むしろ不思議なほど静かだったので少し驚いた。

 表情の消えた目は、あの日公園で見たものとよく似ていた。

「……そっか」

 八木は小さく呟くと、ふたたび顔を伏せる。かすかに青ざめたその顔は、なにかを悟ったかのように見えた。


 家族で過ごすというのは、嘘ではないのかもしれない。

 少なくとも、八木と一緒に過ごせない理由が、ナナコや誰か他の女の子との先約があるから、というわけではないだろう。菅原は単に、クリスマスだとかバレンタインだとか、特別な日に一人の女の子を選びたがらないだけだというのは知っている。だけど八木がそれを知ったとしても、たいした救いにはならなかっただろう。

「ごめんな、本当に」

 取り繕うような菅原の優しい笑顔も、八木はそろそろ見慣れてきた頃だと思う。

 顔を上げた八木は、押し出したような笑顔を見せた。そして

「いいよ」

 いつもの台詞を繰り返した。


 俺は最後までなにも言わずに、ただ二人のやり取りを聴いていた。このことは沙代ちゃんには言わないでおこう、とぼんやり思う。菅原が八木の誕生日の誘いを断っただなんて、沙代ちゃんが知ったら大変なことになりそうだ。航に話せば、航経由で沙代ちゃんに伝わるかもしれないから航にも黙っておこう。

 余裕なんてもうみじんも残っていない八木の顔と、あいかわらず軽薄な菅原の笑顔を眺めながら、俺はぼうっと、そんなことを考えていた。


 八木が菅原へ頼み事をするなんて、本当に珍しいことだったのだ。

 いつだって八木は、菅原の負担にならないようにと、そればかり考えていた。菅原の望むことばかりしようとした。菅原に少しでも好かれようと、もちろんそういう気持ちもあっただろうけど、きっと八木はそれ以上に、そうするだけで満足していたのだろうと思う。菅原と一緒にいられるだけで充分だと、心から思っていたのだろう。

 そんな八木の、かなり勇気を振り絞ったであろう初めてのお願いは、結局、最初で最後のお願いになった。

 そしてそれを、菅原が叶えてくれることはなかった。




 ――あのとき、俺が漠然と感じた終わりの予感は、間違っていなかったらしい。

 二人が別れたのは、この日から三日後のことだった。

 結局、菅原の誕生日を迎えるよりも早く、八木が頑張ると意気込んでいたという誕生日プレゼントの手袋も、完成しないまま。

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