第9話 馬鹿の振り
どうやら八木は、馬鹿になろうとしているらしかった。
手袋作ることにしたって、と、沙代ちゃんが教えてくれた。
「手袋を?」
驚いて聞き返すと、沙代ちゃんはぽかんとして
「え? 菅原くん欲しがってるって、清水くんが言ってたんじゃない。違うの?」
いや言ったけど、と、俺は首を振ってから
「まさか手作りとは思わなかった。ていうか、手袋って作れるもんなんだ」
「そりゃ作れるよ。ちょっと面倒だけどね。郁美、頑張ってみるって言ってた」
へえ、と短く相槌を打つ。俺の反応があまり芳しくなかったからか、沙代ちゃんは心配そうに眉を寄せると
「あれ? それ、あんまり良くない? あたし、手作りが一番心がこもってる感じすると思って、絶対それがいいよって郁美に勧めちゃったんだけど」
「まあ、たしかに心がこもってる感じはするだろうけど」
歯切れの悪い調子で呟く。
菅原は、そういう“重い”のは苦手なはずだ。きっと、困るか戸惑う。そもそも、彼は心のこもったプレゼントをもらうような関係を望んでいるわけではないのだから。
そんなことを思ったけれど、心配そうに「けど、なに?」と続きを促してくる沙代ちゃんには、「いや、なんでもない」と首を振っておいた。
「いいと思うよ。俺ならそのプレゼント、すごく嬉しいし」
言うと、沙代ちゃんは「だよね」とにっこり笑った。
――だけど結局、手袋が完成するより、二人の関係が終わるほうが早かった。
菅原の部活が終わるのを待つ八木に俺も付き合っていると、運悪く、部活の終了時間である六時少し前に、先生から頼み事をされた日があった。
頼まれると断れない質の八木は、ちょっと困ったような表情を浮かべながらも、二つ返事で了承していた。
頼み事というのは、美術の先生に書類を届けて欲しいというものだったので、六時までに間に合うよう、俺たちは急いで荷物をまとめて職員室へ向かった。しかし、そこに目当ての先生の姿はなかった。
「美術室かな」
やはり時間が気になるようで、ちらちらと廊下に掛けられている時計へ目をやりながら八木が呟く。
俺も時計を見てみると、あと一分で六時になるところだったので
「いいよ、これ俺が届けとくから。八木ちゃん、もう行きなよ」
そう申し出た。八木が申し訳なさそうに、でも、と言いかけたのを遮って
「いいからいいから。菅原待たせちゃ大変でしょ」
悪戯っぽく笑って言えば、八木は未だに慣れないらしく、少し赤くなっていた。彼女はしばし迷っていたが、やがて
「じゃあ……ごめんね。お願いします」
そう言ってぺこりと頭を下げると、小走りに廊下を駆けていった。その背中を見送ってから、俺は美術室に向かうため階段のほうへ歩き出した。
しかし美術室でも先生は見つからず、次はどこへ行こうかと考えながら踵を返したとき、なぜか廊下の向こうから八木が歩いてきた。
俺を見つけると、彼女は、あ、と声を上げてから、早足にこちらへ歩いてくる。俺はぽかんとして、八木が目の前までやって来るのを待ってから
「なに、どうしたの八木ちゃん。菅原は?」
八木は苦笑して、もう帰っちゃってた、と言った。
驚いて、え、と聞き返すと、八木は少しあわてたように
「さっきメールがきたんだ。先に帰ったの、って。多分、図書室に私がいなかったから。それで私、菅原くんは今どこにいるの、ってメール送って、そしたら、今校門出たところって返ってきたから、私は、ごめん、用事思い出したから先に帰っちゃった、ってメールした」
八木の言葉は、よく理解できなかった。「え?」と俺は思い切り眉を寄せて首を捻ると
「いや、ちょっと待って。なんで八木ちゃん、先に帰ったなんてメールしたのさ。まだ学校にいるんだから、いるって言えばよかったじゃん」
八木はちょっと困ったように笑って、だって、と言った。
「菅原くんはもう帰っちゃったんだから、わざわざ戻って来させるのも悪いなって思って」
なんのためらいもなくそんなことを言う八木に、俺はしばし呆気にとられた。
「それに、先生の頼み事、清水くん一人に任せるのも、やっぱり悪いなって思ったから」
たどたどしい口調で、彼女はさらに続ける。少し考えたあとで、ようやく八木の心情が理解できた俺は、なんだか途方に暮れたくなった。
もう少し器用にやれてもいいだろうに、とさすがに思う。だけどたしかに、彼女はそういう人間だ。先に帰ったのかと聞かれて、その質問に答えるより先に、菅原はどうしたのかと尋ねてしまうのが八木なのだ。
菅原だって、せめてメールを送ってから返事が返ってくるまでの間ぐらい、帰らずに待っててやればいいのに。そんなことも思ったけれど、菅原がそういうやつだということはよくわかっているから、心の中でため息をつくだけにした。
それに、二人の関係は所詮そんなものなのだとも思う。八木が何時間菅原を待とうと、菅原はものの数分も八木を待ってはくれない。
ナナコなら待つのだろうか、と、愚にもつかないことを頭の隅でちらっと思う。
「菅原って、意外とあんまり連絡しないからねえ。もっとマメにしてれば、こういうすれ違いもないだろうに」
ため息混じりに言えば、八木は、そうだね、と相槌を打って苦笑した。
それから、二人で先生を捜して校内をぶらぶらしていると、トイレの前を通りかかったときに、ちょうどトイレから出てきたところの先生を見つけることができた。
長いこと手の中にあった書類をようやく目的の人物に渡し、よかったよかった、と八木とお互いに言い合ってから、下駄箱へ向かって歩き出した。
「八木ちゃんさ」
学校を出ると、空はほとんど真っ暗だった。ちょうど部活が終わる時間帯なので、俺たちの他にも大勢の生徒が下校している中、ちょっと声を落として切り出す。八木はこちらを向いて、うん、と語尾を上げた調子で相槌を打った。
「根岸さんたちのこととか」
その名前を出すと、彼女の表情がふっと曇った。
「やっぱ菅原に言ったほうがいいんじゃないの。いい加減鬱陶しいでしょ。菅原から言ってもらえば、あの人たちもすぐやめるだろうし」
いい、と八木は即答した。それが思いのほか強い口調だったので、ちょっと驚いていると
「私、全然気にならないし、大丈夫だから。わざわざ言うほどのことでもないと思うし……だから、あの、清水くんも言わないでね?」
ひどく必死な声色に、俺は苦笑して頷いた。そうやって無理に我慢を重ねることが、自分たちの関係を歪なものにしていくということすら気づけない八木は、やはり哀れだと思った。
八木は、どうしようもないほど不器用で。菅原の不誠実さなんてなにも見えない、気づかない、そんな馬鹿の振りをするのも、結局、うまくいかなかったらしい。
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