第8話 打算
ナナコは、菅原が二週間前から付き合っているという他校の彼女だ。
某芸能人に似ているので、俺と航の間ではその呼び名が定着している。ちなみに本当の名前は知らない。知っているのは、菅原より一つ年上だということと、巷でもちょっと有名なぐらいの美人だということだけだった。
校門の脇に携帯を片手に立っているナナコは、それだけで人目を引いていた。外見は派手なのに決して下品には見せないあたり、自分の魅力を熟知しているのだろうなと、俺は常々感心する。
たまに携帯から視線を上げ辺りを見回していたナナコは、俺を見つけると、あ、と小さく声を上げた。それから愛想良くにこっと笑いかけられ、うっかり見とれかける。ナナコが早足にこちらへ近づいてきたので、隣の八木が緊張したように身体を強張らせるのがわかった。
「ねえ、きみ、孝介の友達でしょう?」
至近距離で見るナナコに、本当に完璧なほどの美人だなと感心しつつ
「そうですけど」
八木の手前、ちょっと素っ気なく対応してみる。しかしナナコは気にした様子もなく
「孝介、まだ学校にいる?」
と質問を続けた。八木がなんだか居心地が悪そうにうつむているのが、視界の端に見える。
「もう帰りましたよ」
答えると、ナナコはまるで俺を責めるような目で、えーっ、と不満げに声を上げた。それから、ふたたび携帯を開き
「なによー、そっちが会いたいって言うから、わざわざ来てあげたっていうのに」
と、ぶつぶつ呟いた。八木のほうを見れば、彼女は強張った表情で自分の足下を見つめていた。ここ最近、八木はよくこんな顔をしている。
俺はちょっと迷う素振りを見せてから
「いや多分、菅原もそっちの学校まで行ったんだと思いますよ。あいつ、なんか急いでましたし」
と、できるだけ淡泊に告げた。ナナコはすぐに機嫌を直したようで、手を止めて「え、そうなの?」と明るい表情で聞き返してきた。
「そっかあ。じゃあすれ違いになっちゃったのね」
納得したように頷くと、ナナコは手早く携帯を操作し、耳元へ持っていった。それから早口に、じゃあね、と言って踵を返す。すぐに電話は繋がったらしく、俺たちに背中を向けるなり、「あ、孝介―?」とナナコは声を上げた。
「ちょっと、今どこにいるの? 孝介が来るなら来るって、ちゃんと言っといてよ。あたしも孝介の学校まで来ちゃったじゃん」
ナナコの声は途端に、俺と話していたときより半オクターブほど高く、そしてどこか甘ったるい声に変わっている。ゆるくウェーブのかかった長い髪を揺らして歩きながら、ナナコは電話口の菅原へ向けて不満の言葉を並べていた。
八木には絶対にできないことだな、と頭の隅でちらっと思う。菅原への文句なんて、八木は口が裂けても言えないだろう。ナナコと菅原は対等なのだ。八木とは違う。
間違いなくあっちが本命だよね、と笑った女子生徒の高い声が頭の中に響いた。
「八木ちゃん」
声を掛けると、八木ははっとしたように顔を上げる。何でもないような表情を作ろうと努力はしたらしいが、その顔は気の毒なぐらい引きつっていた。俺は少し身体を屈めて、彼女の顔を覗き込むと
「大丈夫?」
できるだけ優しい声で、そう尋ねた。八木は引きつった表情のまま無理に笑ったので、ひどく不格好な笑顔になっていた。ふたたび視線を下へ落としてから、うん、と小さく頷く。
俺は笑顔を浮かべると、軽い口調に変えて
「帰ろう」
と、何事もなかったかのように促した。八木は視線を上げると、束の間俺の顔を見つめ、それから、やはり不格好な笑顔でこくりと頷いた。
「菅原ってさ」
さらっとした口調で切り出せば、先ほどからうつむきがちに無言で歩いていた八木が、ようやくこちらを向いた。
彼女と目が合うと、俺は明るく笑いかけてから
「なんだかんだ気遣うやつだから。多分、あの人のこともほっとくわけにいかなかったんだって。それだけだよ」
自分で言いながら、びっくりするほど説得力のない言葉だと思った。さっきナナコがはっきりと、菅原のほうから会いたいと言ったことを告げたというのに。反論できない部分は丸ごと無視して、気休めにしかならないような、安っぽい慰めの言葉だけを並べる。それが余計に八木を追い詰めるということも、俺は知っていた。
「ちょっと嘘ついたのだって、八木が傷つかないようにって、菅原なりに考えたんだと思うし」
本当に、笑えるほど安っぽい言葉だった。こんな言葉、八木は信じないだろう。信じられるわけがない。だけど、これ以外に俺が言える言葉なんてないのも、本当だった。
八木はひどく悲痛な表情で俺の顔を見ていたが、やがて、耐えかねたように目を伏せる。うん、と頷いた八木の口元には、もう引きつった笑みすら浮かんでいなかった。
少し考えてから、俺は前方に視線を彷徨わせた。
「あ、八木ちゃん」
小さな児童公園を見つけた俺は、出し抜けに声を上げ
「ちょっと遊んで行こ」
と、その公園を指して言った。
八木は俺の指さしている先に目をやると、「え?」と露骨に戸惑った声を上げる。目を丸くして俺の顔を見つめてくる八木には構わず、さっさと公園へ向かって歩き出すと、八木も困惑したような表情を浮かべつつも追いかけてきた。
まださほど遅い時間でもないため、公園内には五、六人の小学生がいた。二組に分かれ、砂場とジャングルジムで、それぞれ明るい笑い声を立てながら遊んでいる。
俺たちは、しばらく公園の入り口のところに突っ立って、それをぼんやり眺めた。
「懐かしいなあ」
俺の呟きに、そうだね、と相槌を打った八木の声は、いくらか穏やかさを取り戻していた。
「小学校の頃とか、しょっちゅう遊んでたな、こういう公園で」
「私も。氷鬼とか、ケンケンパとか、好きだったな」
服が汚れるのも構わず、夢中になって遊ぶ子どもたちを眺めながら、八木は目を細める。
「でも、私たちの町にある公園ってすごく狭かったでしょう。だから、ケンケンパとかするのは難しくて、いつも公園の裏にあるゲートボール場でやってたんだけど、ゲートボールがある日は遊べないから、寂しかったな」
八木の言葉に、俺は「え?」と首を傾げて彼女のほうを見た。
「そういや俺、八木ちゃんと同じ小学校だったっけ」
八木はちょっと驚いたような顔をして、「そうだよ」と頷いた。
「覚えてない?」
苦笑しつつそう尋ねられ、俺はなんだか罰が悪くなって曖昧に笑うと
「んー、ごめん。中学校が同じだったってのは覚えてたんだけど、小学校まで同じだったのは忘れてた」
言うと、八木は穏やかに「いいよ」と首を振ってから
「もう、だいぶ昔のことだもんね。それに私、別に目立ってたわけでもないし、男の子とは全然喋ってなかったから」
相槌を打ってから、視線を砂場で遊ぶ子どもたちに戻す。
俺もあの頃は、仲の良い男子と遊ぶことばかりに夢中で、女子との関わりなんてほとんどなかった。交流があったとすれば、クラスの中心にいたような利発な女子のグループくらいで、八木みたいな女の子のことはまったく気にも留めていなかった気がする。
思えば、中学校でもわりとそうだった。八木の存在くらいは知っていたけれど、積極的に関わろうとしたことは一度もない。最近のことだ。八木と仲良くなったのも、彼女が気になりだしたのも。
――そういえば、いつからなのだろう。
「あ、ブランコ」
ふいに八木が弾んだ声を上げた。いつの間にか、俺以上に八木のほうが懐かしさに心が躍っている様子で、彼女は小走りにブランコのほうへ駆けていくと
「近所の公園にもね、ブランコの前にこんなふうに木があったの。それで、木の枝に頭が届くくらいブランコを大きく漕げるか、ってよく挑戦してたんだ。立ち漕ぎしたらなんとか届いてたんだけど、座って漕ぐのでは、結局一回も届いたことなかったな」
「八木ちゃん、意外と危険な遊びやってたんだね」
そう言って茶化すと、八木は少し恥ずかしそうに笑った。懐かしいな、と呟きつつ、塗装の剥がれかかったブランコに座る。そうして、ぶらぶらと軽く足を動かして、ゆっくり前後に揺られていた。
俺はしばしそんな彼女を眺めてから
「なんかあったかい飲み物欲しくなった。買ってくるね」
八木は久しぶりにブランコに揺られ、懐かしい感覚に浸っているようで、うん、とどこか上の空で頷いた。
「ちゃんとブランコで遊んでなさいね。勝手にどっか行っちゃ駄目ですよ」
幼稚園の先生のような口調で言うと、八木はおかしそうに声を上げて笑った。それから笑いの混じる声で、はあい、と素直な返事を返した。
しかし、近くにあった自販機で二つ飲み物を買って戻ったときには、八木はブランコを漕ぐのをやめていた。
両足を無造作に地面の上に投げ出して、表情の消えた横顔で、ただぼうっと公園を眺めている。彼女の目がなにを映しているのかはわからなかった。公園を通り抜けた、ひどく遠いところを見つめているような目だった。
物思いにふけっていたらしく、かなり近くに行くまで、八木は俺に気づかなかった。
「はい」
こちらを振り向いた八木に手にしていた缶を一つ差し出すと、彼女はきょとんとして、何度かまばたきをした。
「八木ちゃんの分」
言うと、彼女はあわてたように鞄から財布を取り出そうとしたので、首を振って制した。
「いいよ、あげる。あ、ちなみにカフェラテもありますよ。どっちがいい?」
そう尋ねると、八木はしばし二つの缶を見比べていた。やがて遠慮がちに、「……じゃあ、こっち」と言うと、最初に差し出したココアのほうを受け取った。
「ありがとう」
両手で包んだココアの缶を見つめながら、八木はそう言って淡く微笑んだ。
冷えた手のひらに缶の温かさがありがたくて、しばらくはその缶をカイロがわりに手の中で弄んでいると
「やっぱり、優しいね、清水くん」
ぽつんと呟く八木の声が聞こえて、俺は彼女のほうを見た。八木はぼんやりとココアを見つめたまま、力ない笑みを浮かべている。寒さからか、頬と鼻の頭が少し赤い。
ありがとう、ともう一度繰り返した彼女の声は、震えていた。
俺は視線を前方へずらして、うん、と静かに頷く。直後、あわてたように八木が片手を上げて口元を押さえるのを、目の端で捉えた。押し殺した嗚咽が耳に届くまで、さほど時間はかからなかった。
「ねえ、八木ちゃん」
優しい。沙代ちゃんも、クラスメイトの女子も口にした、その言葉を反芻する。
奇妙な評価だと思った。俺は一度だって、八木のためを思って、八木に優しくしたことなんかない。この先だって、する気はない。八木が、菅原のほうを見ている限りは。
「つらいことあったら、全部話してよ。俺、何でも聞くから。何ができるかわかんないけど、つらいときってさ、話すだけで楽になることもあるし」
八木は口元を押さえてうつむいたまま、無言で何度か頷いていた。
初めて目にする八木の泣き顔を前に、この様子なら彼女の限界も思っていたより早く訪れそうだと、俺は、嫌になるほど冷めた頭で考えていた。
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